支部・部会・研究会案内

世界史部会 7月例会 (7月21日)

日 時:2020年7月21日(火)午後6時30分より
場 所:西成区民センター 会議室1-1
       (大阪市西成区岸里1-1-50)
       地下鉄四つ橋線「岸里」駅2号出口東へ1分
       地下鉄堺筋線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
       南海本線・高野線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
テーマ:「歴史総合」の研究(第3回)
     近代化と私たちー国民国家と明治維新②
(明治国家の形成と自由民権運動・大日本帝国憲法とは何だったのか) 
報 告:志賀 功さん

 

  

高槻支部 7月例会(7月15日)

日時:2020年7月15日(水)19:00~21:00
会場:高槻市市民交流センター(クロスパル)3階 第3会議室
内容:6年の教材研究
   授業のメインテーマ
   その他なんでも
待ちに待った例会!
 現場は、授業作り以前に、消毒作業などたいへんなんだろうなと想像していました。
給食中は喋らない、遊び時間は接触しないなんて、子どもたちは学校でどんな生活をしているのか不思議です。が、現場の先生が参加されると、早速授業の話。たいへんな中で、授業を進めていくことに心を砕き、日々努力をされていることがひしひしと伝わってきました。子どものノートを見せてもらい、丁寧な取り組みに感心しました。
 誰もが経験したことのない学校現場になっています。こんな時だからこそ
より多くの仲間と交流して、授業作り、学校作りに向けて知恵を出し合い行動していきましょう。
 次回の例会は今までと曜日が違いますので、お間違えの無いようにして下さい。お誘い合わせの上ぜひご参加ください。

  

小学校部会 6月例会(6月20日)

日時:2020年6月20日(土) 13時15分~17時分
場所:東成区民センター 604号
    (地下鉄千日前線・今里筋線「今里」徒歩3分)
 ★いつもと時間が異なります。区民センターからの要請で、参加する時 は熱を測ってきてください
内容:授業プラン:阿部さん 、岡崎さん、ホァンさん、笹田さん、吉田さん、梶野さん、二ノ方さん
   研究など:石原さん、河内さん、小野さん、平尾さん、飯田さん 
 小学校部会では、メーリングリストを立ち上げたりLINEのグループでと交流をすることをスタートしました。例会での計画や交流、話し合いだけでなくそのときのリアルタイムで困ったりしたことの相談や資料提供ができるなど,うまく利用しながらやっていけたらと思います。
 まず、岡崎さん、梶野さん、黄さんが登校日の子ども達との出会いを大切にしたいということで学級通信を頑張って出したのをを送ってくれました。子ども達と保護者と担任をつなぐというか共同で作り上げていける学級通信の力が発揮されると思います。読むのが楽しみです。
 例会に参加できなくても、小学校部会の通信「学び」を読みたい、LINEグループに入りたいという方は、事務局に連絡ください。 小学校部会では、メーリングリストを立ち上げたりLINEのグループでと交流をすることをスタートしました。例会での計画や交流話し合いだけでなくそのときのリアルタイムで困ったりしたことの相談や資料提供ができるなど,うまく利用しながらやっていけたらと思います。                   

 

  

世界史部会6月例会 (6月30日)

日 時:2020年6月30日(火)午後6時30分より
場 所:西成区民センター 会議室1-1
     (大阪市西成区岸里1-1-50)
       地下鉄四つ橋線「岸里」駅2号出口東へ1分
       地下鉄堺筋線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
       南海本線・高野線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
テーマ:「歴史総合」の研究(第2回)
     近代化と私たちー国民国家と明治維新① 
     (市民革命とその影響・明治維新とは何だったのか) 
報告:志賀 功さん

 

  

日本史部会 6月例会(6月24日)

日時:2020年6月24日(水)18:30~20:30
会場:大阪府教育会館(たかつガーデン)3階「すみれ」
内容:「神武東征伝説の再検討」
報告者:河野 通明 さん
 〈報告者から〉戦後歴史学は建国神話を政府の立場から造作された物語と断定してきたが、在来犂分布図からは神武東征ルートが政府モデル犂受容ベルトとしてくっきり浮かび上がった。「科学的歴史学」の見直しを試みる。

 

  

世界史部会5月例会(6月1日)追加

日 時:2020年6月1日(月) 午後6時30分より
場 所:西成区民センター スタジオ
     (大阪市西成区岸里1-1-50)
       地下鉄四つ橋線「岸里」駅2号出口東へ1分
       地下鉄堺筋線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
       南海本線・高野線「天下茶屋」駅西出口南へ5分
テーマ:「歴史総合」の研究(第1回)近代化と私たちー結びつく世界と日本の開国
報告者:志賀 功 さん
 コロナウイルス関連で中止となった場合はこちらに連絡を入れますので、よろしくお願いします。

  

日本史部会 5月例会(5月27日)

日時:2020年5月27日(水)18:30~20:30
会場:大阪府教育会館(たかつガーデン)3階「すみれ」
内容:人物からみる高校日本史ーフランシスコ・ザビエルー
報告者:永瀬 弘勝 さん
   ザビエルの日本での布教活動を通して、当時の日本、アジア、世界をながめてみる。

  

百舌鳥古墳群めぐり

はじめに

 このコーナーの案内人は、会員の樽野美千代さんです。

 百舌鳥古墳群の古墳めぐりの案内を書きました。まずは(1)古墳めぐりをする前に と(2)古墳入門 をお読み下さい。

 それから、ご希望のコースの案内をお読み下さい。一部案内が重複していますが、コースは違っても同じ古墳が出てくる場合ですのでご了承ください。

(↓ 青い文字のところをクリックしてください。該当のページに移動します)

【1】古墳めぐりをする前に

【2】古墳入門
  1.古墳とは?

【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ
  1.田出井山古墳
  2.天王古墳、鈴山古墳

【4】百舌鳥駅周辺の古墳
  1.長塚古墳
  2.御廟山古墳
  3.善右ヱ門山古墳
  4.いたすけ古墳
  5-1.コースA=上石津ミサンザイ古墳の拝所まで行くコース
  5-2.コースB=上石津ミサンザイ古墳の後円部のビュースポットまで、ショートカットで行くコース

【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周前半)
  1.JR阪和線百舌鳥駅からスタート
  2.大仙(仁徳天皇陵)古墳拝所
  3.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳

【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)
  4.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳 つづき
  5.大仙(仁徳天皇陵)古墳の東側の古墳

【7】大仙公園内の古墳をあるく
  1.孫太夫山古墳
  2.竜佐山古墳
  3.狐山古墳から七観山展望台へ
  4.上石津ミサンザイ古墳のビュースポット
  5.寺山南山古墳
  6.七観音古墳
  7.旗塚古墳とグワショウ坊古墳
  8.鳶塚・原山から堺市博物館へ

【8】中百舌鳥駅周辺〜百舌鳥駅へ
  1.御廟表塚古墳
  2.定の山古墳
  3.ニサンザイ古墳
  4.百舌鳥八幡宮
  5.御廟山古墳
  6.いたすけ古墳

  

百舌鳥古墳群めぐり【1】古墳めぐりをする前に

百舌鳥古墳群めぐり【1】古墳めぐりをする前に【2】

百舌鳥古墳群めぐり【1】

PDFアイコン【1】古墳めぐりをする前に」」(このページと同じ内容です)

古墳めぐりをする前に

樽野 美千代

1.はじめに

 最初に古墳関係の用語をご紹介しましょう。

 古墳の盛り土部分は墳丘(ふんきゅう)と言います。長さ150m前後あるような大きな前方後円墳は3段積み、それ以下の場合は2段積みであることが多いです。

 古墳のまわりの濠は周濠(しゅうごう)と言います。奈良県や大阪府の古墳では水がためられている場合が多いのですが、古墳がつくられたころから水がたまっていたかどうかは、わかりません。江戸時代には、ため池として周辺の田畑の灌漑用水として利用されていたようです。九州や関東地方の前方後円墳にも濠がありますが、空堀(からぼり)で、深さも数センチしかありません。

 古墳にはいろいろな形があります。上から見て、丸いのは円墳(えんぷん)、四角いのは方墳(ほうふん)、丸と四角があわさった前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方部の短い帆立貝形古墳があります。

 前方後円墳ということばは、江戸時代の終わり1801年に『山陵志』という本を出版した蒲生君平が言い始めました。宇都宮藩出身の蒲生君平は、京都・大阪・奈良などの前方後円墳を見てまわり、どの古墳がどの天皇のお墓(陵)か決めようとし、『山陵志』にまとめました。蒲生君平は「初代の神武天皇から孝元天皇までは、山について塚を築いている。垂仁天皇から敏達天皇までの23陵は、山に陵を築き、大小・高低・長短も様々ある。それは、宮車のような形で、前方後円とし、3段に築いており、周囲に 溝をめぐらす」と書いています。この部分が前方後円墳という言葉のもとになったところです。さらに「前の方は真っ直ぐに、後ろの方は円くなり、両方の接続する所はくびれており、俗に車塚といわれている」と説明しています。

 このほか、2つの四角が組み合わされた前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)などいろいろな形の古墳があります。また古墳は、○基と数えます。

2.百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群とは?

 一定の範囲に同じような時期につくられた数基以上の古墳があることを古墳群といいます(註1)。百舌鳥古墳群は、堺市の北西部の堺区・北区・西区などの4km四方に広がる古墳群です。もとは100基以上あったとされていますが、1929(昭和4)年の阪和線の敷設、戦後の住宅建設などのために小さな古墳がたくさん消滅し、現在は44基が残っています。百舌鳥古墳群は、古墳時代中期(4世紀末から5世紀)の代表的な古墳群です。東に10km離れた藤井寺市と羽曳野市には古市古墳群があり、こちらは、もとは130基以上、現在は45基が残っています。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の古墳のうち百舌鳥では23基、古市では26基、合計49基が世界遺産に登録されました。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の中から5世紀につくられた保存状態の良い古墳が選ばれています。

(註1)「古墳群」とは、『日本考古学小辞典』(江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一編ニューサイエンス社1983年)によれば「時期が異なっていても地理的に集合している状態のもの」で「数も数基から100基を超えるまでさまざまで、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などを交える場合が多い。群内の古墳に時間差をみるのが普通」とある。

 古墳は支配者の墓です。5世紀の倭国(関東地方〜南九州地方)の王である大王は、大規模(墳丘長200m以上)な前方後円墳を築き、各地の王(豪族)は中規模(同100m以上)の古墳をつくりました。100m以下の小規模な古墳は家臣や縁者のものか、亡くなった王の武器や宝物をおさめたものと考えられます。ほかの古墳と関係のない独立した古墳もあります。百舌鳥・古市古墳群には、大中小の規模の古墳が揃っています。また、古墳の形は、前方後円墳、前方部の短い帆立貝形古墳、円墳、方墳の4種類があります。これらは、5世紀の倭国の大王を頂点とする支配者の身分秩序を示しているとも言えます。5世紀は、支配者の中に3種類(段階)の人たちが出てきたと言って良いでしょう。

 円筒埴輪の研究がすすんで、各古墳の築造時期がわかるようになって来ました。宮内庁の管理している古墳は、発掘調査はもちろん立ち入りも認められませんが、古墳周辺の道路やガス・水道工事などで埴輪が発見されることがあります。1970年代からの研究の積み重ねでいろいろなことがわかってきました。  

 百舌鳥・古市古墳群の各古墳の築造順は次の表1のようになります。

ニサンザイ古墳
泉北高速鉄道の車内から見えるニサンザイ古墳

 とくに大きな前方後円墳(大王墓)は、古市(津堂城山・仲津山)→百舌鳥(上石津ミサンザイ→古市(誉田御廟山)→百舌鳥(大山・大仙)→古市(市野山)→百舌鳥(ニサンザイ)と交互に築造されていることがわかります。百舌鳥古墳群では、ニサンザイ古墳のあと巨大な前方後円墳はつくられなくなり、古市ではやや小規模ながら6世紀以降もつくられます。百舌鳥古墳群ではおよそ100年間、古市古墳群では150年間、大中小さまざまな古墳が次々とつくられていったのです。5世紀、原生林や原野を切り開いて、3段積みの墳丘に葺き石を埋めこむなど、次々と古墳がつくられたのです。ずいぶんにぎやかな地域だったことでしょう。

表1 百舌鳥・古市古墳群の前方後円墳 編年表(築造順のまとめ)

時期

百舌鳥古墳群の古墳

古市古墳群の古墳

4世紀後半

 

津堂城山古墳 古室山古墳

4世紀末

乳岡古墳

仲津山(仲姫命陵)古墳

5世紀初頭

上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳

 

5世紀前半

いたすけ古墳 御廟山古墳

誉田御廟山(応神天皇陵)古墳

5世紀中頃

大仙(仁徳天皇陵)古墳

田出井山(反正天皇陵)古墳

 

5世紀中頃〜後半

 

市野山(允恭天皇陵)古墳

5世紀後半

ニサンザイ古墳

岡ミサンザイ(仲哀天皇陵)古墳、前の山(日本武尊白鳥陵)古墳

5世紀末〜6世紀初頭

 

峯ヶ塚古墳

※小規模な古墳は省いた。百舌鳥古墳群の各古墳は、堺市文化財課『堺の文化財 百舌鳥古墳群 第8版』2019年より。古市古墳群は『古市古墳群を歩こう』
古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議(藤井寺市+羽曳野市)2011年より。
また久世仁士『世界遺産 百舌鳥・古市古墳群をあるく』2019年も参考にした。

 百舌鳥・古市古墳群は、大和政権が瀬戸内海を通って船でやってくる朝鮮半島や九州・中国・四国地方の勢力に対して、大王が自らの権力を示すために造ったものです。百舌鳥古墳群は、海=大阪湾を意識してつくられ、古市古墳群は、当時政権の中心だった大和への道や川からのながめを意識してつくられたようです。

 6世紀になると、大王墓は、今の高槻市あたりにもつくられ、規模が小さくなります。また、関東地方などで100m級の前方後円墳がたくさんつくられ、動物や人物の形の埴輪が立て並べられます。百舌鳥・古市古墳群に多い形象埴輪は、家・盾・蓋(きぬがさ)などですが、百舌鳥・古市古墳群の築造が終わった頃から、さまざまな動物や人物の形の埴輪がつくられはじめます。前方後円墳は支配者の墓であると認められるようになり規模は小さくなります。

3.百舌鳥古墳群の構成と特徴

百舌鳥古墳群を古墳の規模別に分類すると、表4のようになります。墳丘長
200mを超える巨大古墳は、全国に37基しかありません。奈良県に19、大阪に15、岡山に2、群馬に1という内訳です。全国の総数37基のうち11基が百舌鳥・古市古墳群にあります。全国の巨大古墳の30%が集中しているのです。

表4 古墳の規模別

 

大規模

中規模

小規模

総数

百舌鳥

  4

  5

 35

 44

古市

  7 

  8 

 30

 45

 

200m超

100m超

100m以下

 

 表2を見直してから、百舌鳥・古市古墳群の古墳のうち、宮内庁が管理している古墳をまとめた表5を見てください。百舌鳥古墳群は総数44基、そのうち23基が宮内庁管理で立ち入ることはできません。古市古墳群では、45基のうち25基です。
 各都府県の最大古墳は、都府県や市町村の文化財関係の部署が管理している国史跡で、公園化しているところが多いです。同じ古墳でも、どこが管理しているかで、そのようすはずいぶん違います。

表5 陵墓関係(宮内庁管理のうち)

 

陵墓

陵墓参考地

陪塚・陪冢

総数

百舌鳥

 3

  2

  18☆

 23

古市

 9

  2※

  14

 25

 

天皇陵・皇后陵

※白鳥陵古墳を含む

☆丸保山古墳を含む

 

  表6と7で、全体としてはよく似ている百舌鳥・古市古墳群のそれぞれの特徴をまとめました。百舌鳥古墳群は円墳が多く、古市古墳群は方墳が多いです。その理由は、まだよくわかっていません。1970年代から本格的な研究が始められ、発掘調査の成果も増えてきているところなので、目的、理由や原因などは、わからないことの方が多いのです。5世紀は、文字を読んだり、書いたりできる人はほとんどいない時代なので、記録が残っていません。「なぜ前方後円形なのか」「正面はどちらなのか」「被葬者はだれか」という謎に、考古学の研究成果から答えるのは難しいです。

表6 形別

 

前方後円墳

円墳

方墳

不明

総数

百舌鳥

   22

17

 5

 0

 44

 もと

   37

58

 9

 0

104

古市

   21

 6

17

 1

 45

 もと

   31

38

52

 9

130

     前方後円墳のなかには、帆立貝形古墳を含む

表7 百舌鳥古墳群と古市古墳群の違い    

 

古墳の形

前期古墳

 

周濠

百舌鳥

円墳が多い

近くに前期古墳なし

 

広くて浅い

古市

方墳が多い

近くに前期古墳あり

玉手山古墳群

狭くて深い

4.世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群

 2019年7月、百舌鳥・古市古墳群はユネスコの専門機関ICOMOSで満場一致で世界遺産への登録がみとめられました。現地に視察に来られたICOMOSの委員の方たちは、市民運動で守られたいたすけ古墳のことや、5世紀につくられた古墳が1600年後の今もそのまま市街地の中に残っていることを高く評価されました。議長が「反対意見はありませんか」と確認されるぐらい、満場一致の賛成でした。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産の暫定一覧表に記載されたのは、2010年のことです。大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市が「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」という組織をつくって推薦書原案を国に提出、2017年に日本の推薦資産候補になり、2018年正式の推薦書がユネスコに提出され、ICOMOSの審査・現地調査のあと、2019年の世界遺産委員会で登録が決定しました。堺市では2008年から発掘調査をすすめて、古墳の範囲を確認し、基礎的な資料を集めて文化財保護法などで保護できるように史跡指定をしていきました。10年以上の準備作業があり、やっと世界遺産になりました。   

 古墳は、小山のように土を積み上げてつくった遺跡なので、いつでも見学できます。「すぐそこに実物がある」遺跡です。2018年からは、各古墳の案内板も設置されはじめ、わかりやすくなりました。

百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳
百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳

 多くの観光客の方は、大仙古墳の拝所に来て写真を撮って帰られますが、大仙古墳では、1600年前の5世紀の人たちが積んだ山に、今から120〜130年前の明治中頃の人たちが植林した木々が茂っているので、ただの森ではありません。百舌鳥古墳群として世界遺産になったのですから、半日かけて、いくつかの古墳めぐりをすると、いろいろな古墳を見学できて、それぞれ個性あふれる古墳を楽しめます。

 大きくて有名な大仙古墳だけでなく、中小の古墳も世界遺産になり、これ以上破壊され、消滅することはなくなりました。世界遺産として残されるようになったのです。いろいろな理由で世界遺産にならなかった古墳もありますが、古墳を見学すれば、1600年間保存され、残ってきた古墳の値打ちや魅力が理解できるでしょう。

 テレビや新聞、雑誌が古墳を扱うことも増えました。取材不足や間違いも多く、天皇陵古墳を、天皇の肖像画つきであつかうというような書籍もだされていますが、考古学の専門家が書かれているしっかりした内容の本も増えました。

 古墳の呼称について、世界遺産では「仁徳天皇陵古墳」と呼ばれる古墳は、宮内庁は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」としています。遺跡名は「大山(仙)古墳」です。ひとつの古墳に3つも呼び名があるのです。表2のように古墳の管理者にはいろいろあります。世界遺産になるには、宮内庁の理解・協力が不可欠なので、大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市は、○○天皇陵古墳という呼び名で調整したようです。

 ここでは、大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、田出井山古墳(反正天皇陵古墳)の呼び名で統一しています。

  表2 所管別

 

宮内庁

大阪府

堺市

民間

総数

百舌鳥

 23☆

  1

 15

 5

 44

古市

 25

  不明

 不明

 不明

 45

  ☆丸保山古墳(後円部は宮内庁、前方部と周濠は堺市)を含む

 世界遺産になったときの各新聞の呼称は、表3の通りです。ある新聞社の記者の方は「今まで仁徳天皇陵古墳とは呼んだことがないので、呼び方は校閲部と協議してきめました。」と言われていました。

表3 2019年5月14日の各紙朝刊(最終版)   日本経済新聞は夕刊

新聞名

一面 大見出し

一面 中見出し

読売新聞

仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群49基

朝日新聞

伝仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群

産経新聞

百舌鳥・古市古墳群 世界遺産へ

ユネスコ機関勧告 大阪で初  

毎日新聞

「百舌鳥・古市」世界遺産へ

大山古墳など49基

イコモス「登録が適当」

日本経済新聞

「仁徳陵」世界遺産へ

守った景観 世界の宝に 

 1970年代に同志社大学の森浩一氏が人名を古墳名にするのはやめて、他の時代の遺跡と同じように地名で呼ぼうと提起され、40年間大山古墳と呼んできましたが、世界遺産になると仁徳天皇陵古墳になります。堺市などが発行している地図やパンフレットも仁徳天皇陵古墳です。一般的にはそちらの方がよく知られているのですが、なかなか難しい問題です。一般的な呼び名では遺跡名として問題があるし、遺跡名では一般的に通用しません。せめて両方の名前を併記すべきだと思います。仁徳天皇陵と呼ばれている古墳という意味で「伝仁徳天皇陵」と呼ばれることもあります。

 天皇陵以外の小さな古墳の名前は、1971年ごろ堺市に文化財担当の職員の方が採用されて、まず市内の遺跡や古墳の所在地の一覧表をつくられ、古墳のまわりに住む方々に「この古墳を何とよんでいますか」とたずねて古墳名を決めたそうです。

 テレビ番組やニュースでは、大仙古墳の航空写真から始まることが多く、「上からながめたい」という希望も多いです。5世紀の人たちが積んだ山なので、墳丘長486mと長いのですが、後円部頂は35m、前方部頂は34mと低いです。

 明治の中頃に植林された木々が大きく育って、樹齢120〜130年になり、墳丘の頂上付近は、標高55mぐらいになります。飛行機、セスナ機、ヘリコプターなどに乗って上空300m以上に上がらないと鍵穴形には見えません。あべのハルカスが横にあれば、鍵穴形に見えますが、百舌鳥古墳群周辺では高さ制限15mという堺市の条例ができています。上から見下ろして古墳群を見るには、相当の知識が必要です。古墳時代のように横から見上げるのが良いと思います。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産になって、古墳の重要性が認められ、古墳の保存があたりまえのことになりました。百舌鳥古墳群で1987年に消滅した一本松古墳は、民有地で代替わりのときに売られて住宅が建ちました。古墳を個人的に持っていると、固定資産税は免除される場合もありますが、土地としての相続税がかかります。最近も個人の住宅内にあった古墳のまわりが売られて、古墳は残るものの墳丘に生えていた樹木は伐られ、芝が植えられるということがありました。

 古墳は、地域の人々によって守られてきました。もと100以上あった百舌鳥古墳群の古墳は、44基に減ってしまいましたが、それぞれの古墳の個性をいかして、誰でも、いつでも古墳を学び、楽しめるようになって欲しいです。まずは、半日かけて百舌鳥古墳群をいろいろなルートで歩いて見て下さい。レンタサイクルも良いのですが、一日でたくさんの古墳を見学すると、印象がごちゃごちゃになり、よくわからなくなります。古墳の近くの道は細くてわかりにくいことがあるので、交通事故に注意して下さい。ひとりで古墳を見てまわるときは、写真を撮って印象をメモする、お仲間と古墳の印象を話し合いながら、徒歩で10基ぐらいまでの古墳めぐりをおすすめします。

 古墳めぐりは、まち歩きなので、お茶や水を持って、歩きやすい服装でお越し下さい。夏でもヤブ蚊がいますから、長袖・長ズボンをおすすめします。
帽子・日傘は必需品です。公園にお手洗いはありますが、お手洗いのないルートもあります。駅などで必ずお手洗いをすませてお出かけ下さい。

*古墳めぐりをされる前には、【2】古墳入門もぜひお読みください。

  

百舌鳥古墳群めぐり【2】古墳入門

百舌鳥古墳群めぐり【1】【2】古墳入門 |【3】

百舌鳥古墳群めぐり【2】

PDFアイコン【2】古墳入門(このページと同じ内容です)

古墳入門

樽野 美千代

1.古墳とは?

 古墳というのは、土を高く盛り上げて作った支配者のお墓です。3世紀中頃から7世紀にかけてつくられました。このうち前方後円墳がつくられた時代(3世紀中頃から6世紀)を古墳時代と言います。7世紀は飛鳥時代で、支配者の墓は、方墳や八角墳に変わります。

 古墳には、前方後円墳(前方部の短い帆立貝形古墳を含む)、円墳、方墳などがあります。北海道・青森県・秋田県・沖縄県以外の全国43都府県に約16万基の古墳がありますが、一番数が多いのは、直径20mぐらいの大きさの円墳です。前方後円墳は全国に4784基あり、両方とも四角い前方後方墳が424基あります。(註1)古墳全体の3%しかない前方後円墳や前方後方墳は、当時の王さま(全国=関東地方から南九州まで=を支配する大王や各地方の王=豪族)の墓と考えられます。

 古墳時代は4つの時期にわけられます。3世紀中頃、奈良県の南東部にはじめての大きな前方後円墳=箸墓古墳(墳丘長280m)がつくられ、そのあと奈良盆地の南部、東部から西部、北部につくられました(古墳時代前期)。4世紀末には瀬戸内海に面した大阪につくられるようになり、巨大化します。瀬戸内海を船でやってくる朝鮮半島や九州・中国四国地方の人たちに、大王や近畿各地の王たちの力を見せつけるためのようです(古墳時代中期)。6世紀になると大王の古墳も小型化し、各地に村の支配層の人たちの小さい古墳がつくられるようになります。各地で○○百穴や○○千塚と呼ばれる小さい古墳が多数つくられます(古墳時代後期)。7世紀になると、大王の墓は方墳や八角墳になります(飛鳥時代)。

 古墳群は全国に1000以上ありますが、後期の群集墳が多くて百舌鳥古墳群のような中期の古墳群は、古墳群全体の12%だけです。中期の古墳群の代表的なものは、大阪府の古市、百舌鳥古墳群のほか、愛知県の味美(あじよし)古墳群、奈良県の佐紀古墳群、宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群などです。(註2)

 現在天皇陵になっている古墳は、ほとんど江戸時代の学者の研究によるものです。古墳時代から1300年以上経過した江戸時代中期以降には、どの前方後円墳がどの天皇のお墓かがよくわからなくなっていました。また古墳は相当荒れていたようです。今の天皇陵古墳などに生えている木々は明治の中ごろ植林されたものです。江戸時代には古墳は「はげ山」で、今よりも木々は少なく、笹などが生えていたようです。

 200年前の19世紀の初め、栃木県の宇都宮藩出身の蒲生君平(がもうくんぺい)は、前方後円墳を調べてまわり、円と四角が組み合わされた形であることに気づき、中国の宮車(柩車=柩を運ぶ車。お雛様の飾りの牛車のような車)がもとになっているのではないかと考えました。そして各天皇のお墓はどの古墳か決めて『山陵志』という本にまとめました。のちに古墳時代に車はなかったことがわかり、現在蒲生君平の説は成立しませんが、前方後円墳という名前ができたのは、この蒲生君平の山陵探索が始まりです。(註3) 

 さらに幕末に宇都宮藩が「文久の修陵」(1863~65)をはじめ、天皇陵とされた前方後円墳の前方部側に拝所をつくります。この時にどの古墳がどの天皇陵か決められました。前方部を正面とするのは、ここからです。この「文久の修陵」の大きな目的は、神武天皇陵の決定で、総費用227,568両のうち15,062両以上を使っています。大仙(仁徳天皇陵)古墳などの拝所(はいしょ)は500両で、これが平均的な数字です。もうひとつの目的は、鎌倉時代の四条天皇から江戸時代後期の仁孝天皇まで14代の天皇陵のある京都の泉涌寺(せんにゅうじ)の整備です。

 宮内庁が管理している古墳は立ち入り禁止で、発掘調査もできていません。しかし周辺の道路やガス・水道などの工事の時に埴輪のかけらが出てきて、古墳がつくられた時期がわかることがあります。円筒埴輪(大きな植木鉢のような円筒形の埴輪)が各地で見つかっていて、考古学の専門家(各市町村の発掘調査の担当者など)が見ると、その仕上げ方、焼き方などから時期がわかるようになって来ています。古墳の築造順がわかるようになってきたのです。

 戦前は京都大学にしか考古学研究室がありませんでしたが、戦後近畿地方で言えば関西大学、同志社大学、立命館大学、奈良大学、大阪大学、大阪市立大学などにできました。1970年代から各都道府県や市町村に文化財関係の部署ができ、考古学が職業になるようになったからです。古墳の研究が本格的に自由にできるようになったのは、戦後になってからです。1952年(昭和27年)に関西大学の末永雅雄氏が朝日新聞社のセスナ機に乗って撮影された『空から見た古墳』が発行され、初めて鍵穴形の前方後円墳を見て人たちは、驚いたそうです。筆者は、古墳は横からながめるものだと思っています。古墳をつくった古墳時代の人たちと同じように、横から古墳を見上げることをおすすめします。

(註1)古墳の総数 159,636基(現存 137,362+消滅 18,218)

順位

都府県名

古墳数(現存+消滅)

最大前方後円墳(墳丘長m)

兵庫県

18,851  (17,647+1,204)

五色(ごしき)塚古墳(194)

鳥取県

13,486  (12,546+940)

北山古墳(110)

京都府

13,016  (11,556+1,460)

網野銚子塚古墳(198)

千葉県

12,765  (10,494+2,271)

内裏(だいり)塚古墳(144)

岡山県

11,810  (11,038+772)

造(つくり)山古墳(350)

広島県

11,311  (10,177+1,134)

三ツ城(じょう)古墳 (92)

福岡県

10,754  (7,909+2,811)

岩戸山古墳(135)

奈良県

 9,700  (8,423+1,277)

(五条野)丸山古墳(310)

三重県

 7,025  (5,981+1,044)

御墓(みはか)山古墳 (188)

10

岐阜県

 5,140  (4,041+1,128)

昼飯(ひるい)大塚古墳(約150)

4年ごとに調査している文化庁の数字による最新の2016年(平成28)の数字

前方後円墳の総数  4,784基      前方後方墳数 424 基

順位

県名

前方後円墳数※

最大前方後円墳

千葉県

693(665+28)

内裏(だいり)塚古墳(144)

茨城県

468(452+16)

水戸愛宕山古墳(136.5)

群馬県

393(362+29+2)

太田天神山古墳(210)

奈良県

326(306+11+9)

(五条野)丸山古墳(310)

福岡県

257(252+5)

岩戸山古墳(135)

鳥取県

248(240+8)

北山古墳(110)

栃木県

238(220+18)

吾妻古墳(117)

大阪府

202(191+9+2)

大山古墳(486)

岡山県

184(159+25)

造(つくり)山古墳(350)

10

宮崎県

165 (165)

女狭穂(めさほ)塚古墳(176)

※前方後円墳数には、前方後方墳数をふくむ。
(前方後円墳数+前方後方墳数+不明ほか)

 前方後円墳データベース(全国版)による。これは、2007~2009年奈良女子大学の「古代文化地域学実習」で作成されたものをもとに、それ以降の研究の成果として公開されています。資料のもとは、近藤義郎編『前方後円墳集成』の東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州・補遺編(1991~1992、2000)および奈良県立橿原考古学研究所編『大和国前方後円墳集成』ほかによります。全国的に同一基準で前方後円墳をまとめたものは、これだけと思われます。

(註2)全国の古墳群

時期

前期

中期

後期

終末期

その他

時期不明

世紀

4世紀

5世紀

6世紀

7世紀

 

 

古墳群数

 59

125

429

 48

205

155

  その他とは、前期~中期、中期~後期、中期~終末期など
  古墳群数の合計は1021
  大塚初重ほか編『日本古墳大辞典』5版 2002年 東京堂出版
  および 同ほか編『続日本古墳大辞典』2002年 同 より作成

前期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

主要古墳

奈良県

大和(おおやまと)・萱生(かよう)

・柳本古墳群

オオヤマト古墳群と総称

西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳など

大阪府

玉手山古墳群

10基

1号墳、10号墳

  長大な竪穴式石室、円筒埴輪創出、三角縁神獣鏡の埋納

奈良県

佐紀古墳群

前期後半~

  中期前半

佐紀陵山古墳、

ヒシアゲ古墳など

  家形・盾形・蓋(きぬがさ)形埴輪、石製模造品、石棺

中期の古墳群

所在地

古墳群

特徴・主要古墳

大阪府

古市古墳群・百舌鳥古墳群

長持形石棺の普及、人物埴輪の

創出、鉄製武器や農工具を副葬

愛知県

味美古墳群

二子山古墳、白山神社古墳など

宮崎県

西都原(さいとばる)古墳群

九州最大の男狭穂(おさほ)塚古墳、女狭穂(めさほ)塚古墳

など。前方後円墳31、円墳279

 

後期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

大阪府

一須賀古墳群

総数200基、10~20mの円墳

埼玉県

吉見百穴(よしみひゃくあな)

219基を確認、岩山の表面から数mの小穴を掘った集団墳墓

奈良県

新沢千塚古墳群

総数600基

和歌山県

岩橋(いわせ)千塚古墳群 

丘陵上に400基が残る、ほとんどが円墳

横穴式石室、家形石棺が普及。奈良盆地南部(飛鳥)に大王墓(方墳、八角墳)

表2~4は、若狭徹『古墳時代ガイドブック』2013年 新泉社 
および各市のホームページより作成

(註3)蒲生君平 1768~1813  栃木県宇都宮の人。油屋の福田家の四男   
に生まれましたが、蒲生氏郷の子孫であると知り、学問で身を立てようと決心。儒学を学び、22歳で江戸へ向かいました。1796~97年と1799~1800年の2回近畿・四国の古墳調査を行いました。1808年『山陵志』を出版。1813年赤痢のため46歳で江戸で逝去。宇都宮市には1912(大正元)年、蒲生君平99年祭のとき創建された蒲生神社があります。

(註4)古墳の盛り土部分を墳丘(ふんきゅう)と言います。古墳の大きさは、
 円墳は直径、方墳は一辺の長さ、前方後円墳(帆立貝形古墳をふくむ)は後円部の端から前方部の端までの長さ(墳丘長)で表します。

*古墳めぐりをされる前には、【1】古墳めぐりをする前にもぜひお読みください。

次は「【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ