大阪の歴史教育 第53号

大阪の歴史教育 第53号

大阪の歴史教育 第53号 2020.7

巻頭言
 これまでも、これからも-子どもたちとともに地域から-    小松清生

大阪歴史教育者協議会第54回研究大会記念講演

 主権者教育として生きる力を育む社会科教育実践    川本治雄

教育実践

 『教材資料集淀川』をつくる活かす選ぶ    岡崎謙太郎

  百舌鳥・古市古墳群授業実践    鈴木惇平

  安全保障論」の授業開発    和井田祐司

  学ぶ面白さに気づき始めたかもしれない生徒たち    浅井淳志

  「歴史総合」の授業:「歴史認識問題を考える」
    -「主体的・対話的で深い学び」で授業はどうなる-    井ノロ貴史

研究・教材づくり・市民運動

 小学校3年生からの地図学習
    -今までの実践の継承と新しい地図活用の視点から-    河内晴彦

  まぐれ・気まぐれ、そして脱力感の日本史授業 永瀬弘勝

  太平洋戦争の敗戦をどう扱うか
    -歴史公民授業実践研究会のとりくみより-    岡澤文彦

  万人坑を見学した中高生たち
    -日中韓の対話と「戦後責任」-    原幸夫

見よう・ふれよう・調べよう~大阪の歴史

 百舌鳥古墳群めぐり
    I 古墳めぐりをする前に Ⅱ 古墳入門    樽野美千代
 

 3月大空襲のミナミを歩く    森田敏彦

大阪歴史教育者協議会2019年度活動報告

いっしょに学びませんか-会員へのお誘い

編集後記

  

百舌鳥古墳群めぐり

はじめに

 このコーナーの案内人は、会員の樽野美千代さんです。

 百舌鳥古墳群の古墳めぐりの案内を書きました。まずは(1)古墳めぐりをする前に と(2)古墳入門 をお読み下さい。

 それから、ご希望のコースの案内をお読み下さい。一部案内が重複していますが、コースは違っても同じ古墳が出てくる場合ですのでご了承ください。

(↓ 青い文字のところをクリックしてください。該当のページに移動します)

【1】古墳めぐりをする前に

【2】古墳入門
  1.古墳とは?

【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ
  1.田出井山古墳
  2.天王古墳、鈴山古墳

【4】百舌鳥駅周辺の古墳
  1.長塚古墳
  2.御廟山古墳
  3.善右ヱ門山古墳
  4.いたすけ古墳
  5-1.コースA=上石津ミサンザイ古墳の拝所まで行くコース
  5-2.コースB=上石津ミサンザイ古墳の後円部のビュースポットまで、ショートカットで行くコース

【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周前半)
  1.JR阪和線百舌鳥駅からスタート
  2.大仙(仁徳天皇陵)古墳拝所
  3.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳

【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)
  4.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳 つづき
  5.大仙(仁徳天皇陵)古墳の東側の古墳

【7】大仙公園内の古墳をあるく
  1.孫太夫山古墳
  2.竜佐山古墳
  3.狐山古墳から七観山展望台へ
  4.上石津ミサンザイ古墳のビュースポット
  5.寺山南山古墳
  6.七観音古墳
  7.旗塚古墳とグワショウ坊古墳
  8.鳶塚・原山から堺市博物館へ

【8】中百舌鳥駅周辺〜百舌鳥駅へ
  1.御廟表塚古墳
  2.定の山古墳
  3.ニサンザイ古墳
  4.百舌鳥八幡宮
  5.御廟山古墳
  6.いたすけ古墳

  

百舌鳥古墳群めぐり【1】古墳めぐりをする前に

百舌鳥古墳群めぐり【1】古墳めぐりをする前に【2】

百舌鳥古墳群めぐり【1】

PDFアイコン【1】古墳めぐりをする前に」」(このページと同じ内容です)

古墳めぐりをする前に

樽野 美千代

1.はじめに

 最初に古墳関係の用語をご紹介しましょう。

 古墳の盛り土部分は墳丘(ふんきゅう)と言います。長さ150m前後あるような大きな前方後円墳は3段積み、それ以下の場合は2段積みであることが多いです。

 古墳のまわりの濠は周濠(しゅうごう)と言います。奈良県や大阪府の古墳では水がためられている場合が多いのですが、古墳がつくられたころから水がたまっていたかどうかは、わかりません。江戸時代には、ため池として周辺の田畑の灌漑用水として利用されていたようです。九州や関東地方の前方後円墳にも濠がありますが、空堀(からぼり)で、深さも数センチしかありません。

 古墳にはいろいろな形があります。上から見て、丸いのは円墳(えんぷん)、四角いのは方墳(ほうふん)、丸と四角があわさった前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方部の短い帆立貝形古墳があります。

 前方後円墳ということばは、江戸時代の終わり1801年に『山陵志』という本を出版した蒲生君平が言い始めました。宇都宮藩出身の蒲生君平は、京都・大阪・奈良などの前方後円墳を見てまわり、どの古墳がどの天皇のお墓(陵)か決めようとし、『山陵志』にまとめました。蒲生君平は「初代の神武天皇から孝元天皇までは、山について塚を築いている。垂仁天皇から敏達天皇までの23陵は、山に陵を築き、大小・高低・長短も様々ある。それは、宮車のような形で、前方後円とし、3段に築いており、周囲に 溝をめぐらす」と書いています。この部分が前方後円墳という言葉のもとになったところです。さらに「前の方は真っ直ぐに、後ろの方は円くなり、両方の接続する所はくびれており、俗に車塚といわれている」と説明しています。

 このほか、2つの四角が組み合わされた前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)などいろいろな形の古墳があります。また古墳は、○基と数えます。

2.百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群とは?

 一定の範囲に同じような時期につくられた数基以上の古墳があることを古墳群といいます(註1)。百舌鳥古墳群は、堺市の北西部の堺区・北区・西区などの4km四方に広がる古墳群です。もとは100基以上あったとされていますが、1929(昭和4)年の阪和線の敷設、戦後の住宅建設などのために小さな古墳がたくさん消滅し、現在は44基が残っています。百舌鳥古墳群は、古墳時代中期(4世紀末から5世紀)の代表的な古墳群です。東に10km離れた藤井寺市と羽曳野市には古市古墳群があり、こちらは、もとは130基以上、現在は45基が残っています。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の古墳のうち百舌鳥では23基、古市では26基、合計49基が世界遺産に登録されました。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の中から5世紀につくられた保存状態の良い古墳が選ばれています。

(註1)「古墳群」とは、『日本考古学小辞典』(江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一編ニューサイエンス社1983年)によれば「時期が異なっていても地理的に集合している状態のもの」で「数も数基から100基を超えるまでさまざまで、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などを交える場合が多い。群内の古墳に時間差をみるのが普通」とある。

 古墳は支配者の墓です。5世紀の倭国(関東地方〜南九州地方)の王である大王は、大規模(墳丘長200m以上)な前方後円墳を築き、各地の王(豪族)は中規模(同100m以上)の古墳をつくりました。100m以下の小規模な古墳は家臣や縁者のものか、亡くなった王の武器や宝物をおさめたものと考えられます。ほかの古墳と関係のない独立した古墳もあります。百舌鳥・古市古墳群には、大中小の規模の古墳が揃っています。また、古墳の形は、前方後円墳、前方部の短い帆立貝形古墳、円墳、方墳の4種類があります。これらは、5世紀の倭国の大王を頂点とする支配者の身分秩序を示しているとも言えます。5世紀は、支配者の中に3種類(段階)の人たちが出てきたと言って良いでしょう。

 円筒埴輪の研究がすすんで、各古墳の築造時期がわかるようになって来ました。宮内庁の管理している古墳は、発掘調査はもちろん立ち入りも認められませんが、古墳周辺の道路やガス・水道工事などで埴輪が発見されることがあります。1970年代からの研究の積み重ねでいろいろなことがわかってきました。  

 百舌鳥・古市古墳群の各古墳の築造順は次の表1のようになります。

ニサンザイ古墳
泉北高速鉄道の車内から見えるニサンザイ古墳

 とくに大きな前方後円墳(大王墓)は、古市(津堂城山・仲津山)→百舌鳥(上石津ミサンザイ→古市(誉田御廟山)→百舌鳥(大山・大仙)→古市(市野山)→百舌鳥(ニサンザイ)と交互に築造されていることがわかります。百舌鳥古墳群では、ニサンザイ古墳のあと巨大な前方後円墳はつくられなくなり、古市ではやや小規模ながら6世紀以降もつくられます。百舌鳥古墳群ではおよそ100年間、古市古墳群では150年間、大中小さまざまな古墳が次々とつくられていったのです。5世紀、原生林や原野を切り開いて、3段積みの墳丘に葺き石を埋めこむなど、次々と古墳がつくられたのです。ずいぶんにぎやかな地域だったことでしょう。

表1 百舌鳥・古市古墳群の前方後円墳 編年表(築造順のまとめ)

時期

百舌鳥古墳群の古墳

古市古墳群の古墳

4世紀後半

 

津堂城山古墳 古室山古墳

4世紀末

乳岡古墳

仲津山(仲姫命陵)古墳

5世紀初頭

上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳

 

5世紀前半

いたすけ古墳 御廟山古墳

誉田御廟山(応神天皇陵)古墳

5世紀中頃

大仙(仁徳天皇陵)古墳

田出井山(反正天皇陵)古墳

 

5世紀中頃〜後半

 

市野山(允恭天皇陵)古墳

5世紀後半

ニサンザイ古墳

岡ミサンザイ(仲哀天皇陵)古墳、前の山(日本武尊白鳥陵)古墳

5世紀末〜6世紀初頭

 

峯ヶ塚古墳

※小規模な古墳は省いた。百舌鳥古墳群の各古墳は、堺市文化財課『堺の文化財 百舌鳥古墳群 第8版』2019年より。古市古墳群は『古市古墳群を歩こう』
古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議(藤井寺市+羽曳野市)2011年より。
また久世仁士『世界遺産 百舌鳥・古市古墳群をあるく』2019年も参考にした。

 百舌鳥・古市古墳群は、大和政権が瀬戸内海を通って船でやってくる朝鮮半島や九州・中国・四国地方の勢力に対して、大王が自らの権力を示すために造ったものです。百舌鳥古墳群は、海=大阪湾を意識してつくられ、古市古墳群は、当時政権の中心だった大和への道や川からのながめを意識してつくられたようです。

 6世紀になると、大王墓は、今の高槻市あたりにもつくられ、規模が小さくなります。また、関東地方などで100m級の前方後円墳がたくさんつくられ、動物や人物の形の埴輪が立て並べられます。百舌鳥・古市古墳群に多い形象埴輪は、家・盾・蓋(きぬがさ)などですが、百舌鳥・古市古墳群の築造が終わった頃から、さまざまな動物や人物の形の埴輪がつくられはじめます。前方後円墳は支配者の墓であると認められるようになり規模は小さくなります。

3.百舌鳥古墳群の構成と特徴

百舌鳥古墳群を古墳の規模別に分類すると、表4のようになります。墳丘長
200mを超える巨大古墳は、全国に37基しかありません。奈良県に19、大阪に15、岡山に2、群馬に1という内訳です。全国の総数37基のうち11基が百舌鳥・古市古墳群にあります。全国の巨大古墳の30%が集中しているのです。

表4 古墳の規模別

 

大規模

中規模

小規模

総数

百舌鳥

  4

  5

 35

 44

古市

  7 

  8 

 30

 45

 

200m超

100m超

100m以下

 

 表2を見直してから、百舌鳥・古市古墳群の古墳のうち、宮内庁が管理している古墳をまとめた表5を見てください。百舌鳥古墳群は総数44基、そのうち23基が宮内庁管理で立ち入ることはできません。古市古墳群では、45基のうち25基です。
 各都府県の最大古墳は、都府県や市町村の文化財関係の部署が管理している国史跡で、公園化しているところが多いです。同じ古墳でも、どこが管理しているかで、そのようすはずいぶん違います。

表5 陵墓関係(宮内庁管理のうち)

 

陵墓

陵墓参考地

陪塚・陪冢

総数

百舌鳥

 3

  2

  18☆

 23

古市

 9

  2※

  14

 25

 

天皇陵・皇后陵

※白鳥陵古墳を含む

☆丸保山古墳を含む

 

  表6と7で、全体としてはよく似ている百舌鳥・古市古墳群のそれぞれの特徴をまとめました。百舌鳥古墳群は円墳が多く、古市古墳群は方墳が多いです。その理由は、まだよくわかっていません。1970年代から本格的な研究が始められ、発掘調査の成果も増えてきているところなので、目的、理由や原因などは、わからないことの方が多いのです。5世紀は、文字を読んだり、書いたりできる人はほとんどいない時代なので、記録が残っていません。「なぜ前方後円形なのか」「正面はどちらなのか」「被葬者はだれか」という謎に、考古学の研究成果から答えるのは難しいです。

表6 形別

 

前方後円墳

円墳

方墳

不明

総数

百舌鳥

   22

17

 5

 0

 44

 もと

   37

58

 9

 0

104

古市

   21

 6

17

 1

 45

 もと

   31

38

52

 9

130

     前方後円墳のなかには、帆立貝形古墳を含む

表7 百舌鳥古墳群と古市古墳群の違い    

 

古墳の形

前期古墳

 

周濠

百舌鳥

円墳が多い

近くに前期古墳なし

 

広くて浅い

古市

方墳が多い

近くに前期古墳あり

玉手山古墳群

狭くて深い

4.世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群

 2019年7月、百舌鳥・古市古墳群はユネスコの専門機関ICOMOSで満場一致で世界遺産への登録がみとめられました。現地に視察に来られたICOMOSの委員の方たちは、市民運動で守られたいたすけ古墳のことや、5世紀につくられた古墳が1600年後の今もそのまま市街地の中に残っていることを高く評価されました。議長が「反対意見はありませんか」と確認されるぐらい、満場一致の賛成でした。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産の暫定一覧表に記載されたのは、2010年のことです。大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市が「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」という組織をつくって推薦書原案を国に提出、2017年に日本の推薦資産候補になり、2018年正式の推薦書がユネスコに提出され、ICOMOSの審査・現地調査のあと、2019年の世界遺産委員会で登録が決定しました。堺市では2008年から発掘調査をすすめて、古墳の範囲を確認し、基礎的な資料を集めて文化財保護法などで保護できるように史跡指定をしていきました。10年以上の準備作業があり、やっと世界遺産になりました。   

 古墳は、小山のように土を積み上げてつくった遺跡なので、いつでも見学できます。「すぐそこに実物がある」遺跡です。2018年からは、各古墳の案内板も設置されはじめ、わかりやすくなりました。

百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳
百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳

 多くの観光客の方は、大仙古墳の拝所に来て写真を撮って帰られますが、大仙古墳では、1600年前の5世紀の人たちが積んだ山に、今から120〜130年前の明治中頃の人たちが植林した木々が茂っているので、ただの森ではありません。百舌鳥古墳群として世界遺産になったのですから、半日かけて、いくつかの古墳めぐりをすると、いろいろな古墳を見学できて、それぞれ個性あふれる古墳を楽しめます。

 大きくて有名な大仙古墳だけでなく、中小の古墳も世界遺産になり、これ以上破壊され、消滅することはなくなりました。世界遺産として残されるようになったのです。いろいろな理由で世界遺産にならなかった古墳もありますが、古墳を見学すれば、1600年間保存され、残ってきた古墳の値打ちや魅力が理解できるでしょう。

 テレビや新聞、雑誌が古墳を扱うことも増えました。取材不足や間違いも多く、天皇陵古墳を、天皇の肖像画つきであつかうというような書籍もだされていますが、考古学の専門家が書かれているしっかりした内容の本も増えました。

 古墳の呼称について、世界遺産では「仁徳天皇陵古墳」と呼ばれる古墳は、宮内庁は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」としています。遺跡名は「大山(仙)古墳」です。ひとつの古墳に3つも呼び名があるのです。表2のように古墳の管理者にはいろいろあります。世界遺産になるには、宮内庁の理解・協力が不可欠なので、大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市は、○○天皇陵古墳という呼び名で調整したようです。

 ここでは、大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、田出井山古墳(反正天皇陵古墳)の呼び名で統一しています。

  表2 所管別

 

宮内庁

大阪府

堺市

民間

総数

百舌鳥

 23☆

  1

 15

 5

 44

古市

 25

  不明

 不明

 不明

 45

  ☆丸保山古墳(後円部は宮内庁、前方部と周濠は堺市)を含む

 世界遺産になったときの各新聞の呼称は、表3の通りです。ある新聞社の記者の方は「今まで仁徳天皇陵古墳とは呼んだことがないので、呼び方は校閲部と協議してきめました。」と言われていました。

表3 2019年5月14日の各紙朝刊(最終版)   日本経済新聞は夕刊

新聞名

一面 大見出し

一面 中見出し

読売新聞

仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群49基

朝日新聞

伝仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群

産経新聞

百舌鳥・古市古墳群 世界遺産へ

ユネスコ機関勧告 大阪で初  

毎日新聞

「百舌鳥・古市」世界遺産へ

大山古墳など49基

イコモス「登録が適当」

日本経済新聞

「仁徳陵」世界遺産へ

守った景観 世界の宝に 

 1970年代に同志社大学の森浩一氏が人名を古墳名にするのはやめて、他の時代の遺跡と同じように地名で呼ぼうと提起され、40年間大山古墳と呼んできましたが、世界遺産になると仁徳天皇陵古墳になります。堺市などが発行している地図やパンフレットも仁徳天皇陵古墳です。一般的にはそちらの方がよく知られているのですが、なかなか難しい問題です。一般的な呼び名では遺跡名として問題があるし、遺跡名では一般的に通用しません。せめて両方の名前を併記すべきだと思います。仁徳天皇陵と呼ばれている古墳という意味で「伝仁徳天皇陵」と呼ばれることもあります。

 天皇陵以外の小さな古墳の名前は、1971年ごろ堺市に文化財担当の職員の方が採用されて、まず市内の遺跡や古墳の所在地の一覧表をつくられ、古墳のまわりに住む方々に「この古墳を何とよんでいますか」とたずねて古墳名を決めたそうです。

 テレビ番組やニュースでは、大仙古墳の航空写真から始まることが多く、「上からながめたい」という希望も多いです。5世紀の人たちが積んだ山なので、墳丘長486mと長いのですが、後円部頂は35m、前方部頂は34mと低いです。

 明治の中頃に植林された木々が大きく育って、樹齢120〜130年になり、墳丘の頂上付近は、標高55mぐらいになります。飛行機、セスナ機、ヘリコプターなどに乗って上空300m以上に上がらないと鍵穴形には見えません。あべのハルカスが横にあれば、鍵穴形に見えますが、百舌鳥古墳群周辺では高さ制限15mという堺市の条例ができています。上から見下ろして古墳群を見るには、相当の知識が必要です。古墳時代のように横から見上げるのが良いと思います。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産になって、古墳の重要性が認められ、古墳の保存があたりまえのことになりました。百舌鳥古墳群で1987年に消滅した一本松古墳は、民有地で代替わりのときに売られて住宅が建ちました。古墳を個人的に持っていると、固定資産税は免除される場合もありますが、土地としての相続税がかかります。最近も個人の住宅内にあった古墳のまわりが売られて、古墳は残るものの墳丘に生えていた樹木は伐られ、芝が植えられるということがありました。

 古墳は、地域の人々によって守られてきました。もと100以上あった百舌鳥古墳群の古墳は、44基に減ってしまいましたが、それぞれの古墳の個性をいかして、誰でも、いつでも古墳を学び、楽しめるようになって欲しいです。まずは、半日かけて百舌鳥古墳群をいろいろなルートで歩いて見て下さい。レンタサイクルも良いのですが、一日でたくさんの古墳を見学すると、印象がごちゃごちゃになり、よくわからなくなります。古墳の近くの道は細くてわかりにくいことがあるので、交通事故に注意して下さい。ひとりで古墳を見てまわるときは、写真を撮って印象をメモする、お仲間と古墳の印象を話し合いながら、徒歩で10基ぐらいまでの古墳めぐりをおすすめします。

 古墳めぐりは、まち歩きなので、お茶や水を持って、歩きやすい服装でお越し下さい。夏でもヤブ蚊がいますから、長袖・長ズボンをおすすめします。
帽子・日傘は必需品です。公園にお手洗いはありますが、お手洗いのないルートもあります。駅などで必ずお手洗いをすませてお出かけ下さい。

*古墳めぐりをされる前には、【2】古墳入門もぜひお読みください。

  

百舌鳥古墳群めぐり【2】古墳入門

百舌鳥古墳群めぐり【1】【2】古墳入門 |【3】

百舌鳥古墳群めぐり【2】

PDFアイコン【2】古墳入門(このページと同じ内容です)

古墳入門

樽野 美千代

1.古墳とは?

 古墳というのは、土を高く盛り上げて作った支配者のお墓です。3世紀中頃から7世紀にかけてつくられました。このうち前方後円墳がつくられた時代(3世紀中頃から6世紀)を古墳時代と言います。7世紀は飛鳥時代で、支配者の墓は、方墳や八角墳に変わります。

 古墳には、前方後円墳(前方部の短い帆立貝形古墳を含む)、円墳、方墳などがあります。北海道・青森県・秋田県・沖縄県以外の全国43都府県に約16万基の古墳がありますが、一番数が多いのは、直径20mぐらいの大きさの円墳です。前方後円墳は全国に4784基あり、両方とも四角い前方後方墳が424基あります。(註1)古墳全体の3%しかない前方後円墳や前方後方墳は、当時の王さま(全国=関東地方から南九州まで=を支配する大王や各地方の王=豪族)の墓と考えられます。

 古墳時代は4つの時期にわけられます。3世紀中頃、奈良県の南東部にはじめての大きな前方後円墳=箸墓古墳(墳丘長280m)がつくられ、そのあと奈良盆地の南部、東部から西部、北部につくられました(古墳時代前期)。4世紀末には瀬戸内海に面した大阪につくられるようになり、巨大化します。瀬戸内海を船でやってくる朝鮮半島や九州・中国四国地方の人たちに、大王や近畿各地の王たちの力を見せつけるためのようです(古墳時代中期)。6世紀になると大王の古墳も小型化し、各地に村の支配層の人たちの小さい古墳がつくられるようになります。各地で○○百穴や○○千塚と呼ばれる小さい古墳が多数つくられます(古墳時代後期)。7世紀になると、大王の墓は方墳や八角墳になります(飛鳥時代)。

 古墳群は全国に1000以上ありますが、後期の群集墳が多くて百舌鳥古墳群のような中期の古墳群は、古墳群全体の12%だけです。中期の古墳群の代表的なものは、大阪府の古市、百舌鳥古墳群のほか、愛知県の味美(あじよし)古墳群、奈良県の佐紀古墳群、宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群などです。(註2)

 現在天皇陵になっている古墳は、ほとんど江戸時代の学者の研究によるものです。古墳時代から1300年以上経過した江戸時代中期以降には、どの前方後円墳がどの天皇のお墓かがよくわからなくなっていました。また古墳は相当荒れていたようです。今の天皇陵古墳などに生えている木々は明治の中ごろ植林されたものです。江戸時代には古墳は「はげ山」で、今よりも木々は少なく、笹などが生えていたようです。

 200年前の19世紀の初め、栃木県の宇都宮藩出身の蒲生君平(がもうくんぺい)は、前方後円墳を調べてまわり、円と四角が組み合わされた形であることに気づき、中国の宮車(柩車=柩を運ぶ車。お雛様の飾りの牛車のような車)がもとになっているのではないかと考えました。そして各天皇のお墓はどの古墳か決めて『山陵志』という本にまとめました。のちに古墳時代に車はなかったことがわかり、現在蒲生君平の説は成立しませんが、前方後円墳という名前ができたのは、この蒲生君平の山陵探索が始まりです。(註3) 

 さらに幕末に宇都宮藩が「文久の修陵」(1863~65)をはじめ、天皇陵とされた前方後円墳の前方部側に拝所をつくります。この時にどの古墳がどの天皇陵か決められました。前方部を正面とするのは、ここからです。この「文久の修陵」の大きな目的は、神武天皇陵の決定で、総費用227,568両のうち15,062両以上を使っています。大仙(仁徳天皇陵)古墳などの拝所(はいしょ)は500両で、これが平均的な数字です。もうひとつの目的は、鎌倉時代の四条天皇から江戸時代後期の仁孝天皇まで14代の天皇陵のある京都の泉涌寺(せんにゅうじ)の整備です。

 宮内庁が管理している古墳は立ち入り禁止で、発掘調査もできていません。しかし周辺の道路やガス・水道などの工事の時に埴輪のかけらが出てきて、古墳がつくられた時期がわかることがあります。円筒埴輪(大きな植木鉢のような円筒形の埴輪)が各地で見つかっていて、考古学の専門家(各市町村の発掘調査の担当者など)が見ると、その仕上げ方、焼き方などから時期がわかるようになって来ています。古墳の築造順がわかるようになってきたのです。

 戦前は京都大学にしか考古学研究室がありませんでしたが、戦後近畿地方で言えば関西大学、同志社大学、立命館大学、奈良大学、大阪大学、大阪市立大学などにできました。1970年代から各都道府県や市町村に文化財関係の部署ができ、考古学が職業になるようになったからです。古墳の研究が本格的に自由にできるようになったのは、戦後になってからです。1952年(昭和27年)に関西大学の末永雅雄氏が朝日新聞社のセスナ機に乗って撮影された『空から見た古墳』が発行され、初めて鍵穴形の前方後円墳を見て人たちは、驚いたそうです。筆者は、古墳は横からながめるものだと思っています。古墳をつくった古墳時代の人たちと同じように、横から古墳を見上げることをおすすめします。

(註1)古墳の総数 159,636基(現存 137,362+消滅 18,218)

順位

都府県名

古墳数(現存+消滅)

最大前方後円墳(墳丘長m)

兵庫県

18,851  (17,647+1,204)

五色(ごしき)塚古墳(194)

鳥取県

13,486  (12,546+940)

北山古墳(110)

京都府

13,016  (11,556+1,460)

網野銚子塚古墳(198)

千葉県

12,765  (10,494+2,271)

内裏(だいり)塚古墳(144)

岡山県

11,810  (11,038+772)

造(つくり)山古墳(350)

広島県

11,311  (10,177+1,134)

三ツ城(じょう)古墳 (92)

福岡県

10,754  (7,909+2,811)

岩戸山古墳(135)

奈良県

 9,700  (8,423+1,277)

(五条野)丸山古墳(310)

三重県

 7,025  (5,981+1,044)

御墓(みはか)山古墳 (188)

10

岐阜県

 5,140  (4,041+1,128)

昼飯(ひるい)大塚古墳(約150)

4年ごとに調査している文化庁の数字による最新の2016年(平成28)の数字

前方後円墳の総数  4,784基      前方後方墳数 424 基

順位

県名

前方後円墳数※

最大前方後円墳

千葉県

693(665+28)

内裏(だいり)塚古墳(144)

茨城県

468(452+16)

水戸愛宕山古墳(136.5)

群馬県

393(362+29+2)

太田天神山古墳(210)

奈良県

326(306+11+9)

(五条野)丸山古墳(310)

福岡県

257(252+5)

岩戸山古墳(135)

鳥取県

248(240+8)

北山古墳(110)

栃木県

238(220+18)

吾妻古墳(117)

大阪府

202(191+9+2)

大山古墳(486)

岡山県

184(159+25)

造(つくり)山古墳(350)

10

宮崎県

165 (165)

女狭穂(めさほ)塚古墳(176)

※前方後円墳数には、前方後方墳数をふくむ。
(前方後円墳数+前方後方墳数+不明ほか)

 前方後円墳データベース(全国版)による。これは、2007~2009年奈良女子大学の「古代文化地域学実習」で作成されたものをもとに、それ以降の研究の成果として公開されています。資料のもとは、近藤義郎編『前方後円墳集成』の東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州・補遺編(1991~1992、2000)および奈良県立橿原考古学研究所編『大和国前方後円墳集成』ほかによります。全国的に同一基準で前方後円墳をまとめたものは、これだけと思われます。

(註2)全国の古墳群

時期

前期

中期

後期

終末期

その他

時期不明

世紀

4世紀

5世紀

6世紀

7世紀

 

 

古墳群数

 59

125

429

 48

205

155

  その他とは、前期~中期、中期~後期、中期~終末期など
  古墳群数の合計は1021
  大塚初重ほか編『日本古墳大辞典』5版 2002年 東京堂出版
  および 同ほか編『続日本古墳大辞典』2002年 同 より作成

前期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

主要古墳

奈良県

大和(おおやまと)・萱生(かよう)

・柳本古墳群

オオヤマト古墳群と総称

西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳など

大阪府

玉手山古墳群

10基

1号墳、10号墳

  長大な竪穴式石室、円筒埴輪創出、三角縁神獣鏡の埋納

奈良県

佐紀古墳群

前期後半~

  中期前半

佐紀陵山古墳、

ヒシアゲ古墳など

  家形・盾形・蓋(きぬがさ)形埴輪、石製模造品、石棺

中期の古墳群

所在地

古墳群

特徴・主要古墳

大阪府

古市古墳群・百舌鳥古墳群

長持形石棺の普及、人物埴輪の

創出、鉄製武器や農工具を副葬

愛知県

味美古墳群

二子山古墳、白山神社古墳など

宮崎県

西都原(さいとばる)古墳群

九州最大の男狭穂(おさほ)塚古墳、女狭穂(めさほ)塚古墳

など。前方後円墳31、円墳279

 

後期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

大阪府

一須賀古墳群

総数200基、10~20mの円墳

埼玉県

吉見百穴(よしみひゃくあな)

219基を確認、岩山の表面から数mの小穴を掘った集団墳墓

奈良県

新沢千塚古墳群

総数600基

和歌山県

岩橋(いわせ)千塚古墳群 

丘陵上に400基が残る、ほとんどが円墳

横穴式石室、家形石棺が普及。奈良盆地南部(飛鳥)に大王墓(方墳、八角墳)

表2~4は、若狭徹『古墳時代ガイドブック』2013年 新泉社 
および各市のホームページより作成

(註3)蒲生君平 1768~1813  栃木県宇都宮の人。油屋の福田家の四男   
に生まれましたが、蒲生氏郷の子孫であると知り、学問で身を立てようと決心。儒学を学び、22歳で江戸へ向かいました。1796~97年と1799~1800年の2回近畿・四国の古墳調査を行いました。1808年『山陵志』を出版。1813年赤痢のため46歳で江戸で逝去。宇都宮市には1912(大正元)年、蒲生君平99年祭のとき創建された蒲生神社があります。

(註4)古墳の盛り土部分を墳丘(ふんきゅう)と言います。古墳の大きさは、
 円墳は直径、方墳は一辺の長さ、前方後円墳(帆立貝形古墳をふくむ)は後円部の端から前方部の端までの長さ(墳丘長)で表します。

*古墳めぐりをされる前には、【1】古墳めぐりをする前にもぜひお読みください。

次は「【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ

 

  

百舌鳥古墳群めぐり【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ

百舌鳥古墳群めぐり>|【2】【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ【4】

百舌鳥古墳群めぐり【3】

PDFアイコン【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ(このページと同じ内容です)

堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ

樽野 美千代

1.田出井山古墳

 南海高野線堺東駅の南西部に堺市役所があります。その高層館21階展望ロビーから、田出井山(反正天皇陵)古墳や大仙(大山とも。仁徳天皇陵)古墳や大仙公園の南側には上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳、ニサンザイ古墳を見ることができます。東に生駒~葛城~金剛の山々、二上山も見えます。南には和泉山脈、西は海、北は大阪市内であべのハルカスや天王寺、難波、梅田のビル群が見えます。土日祝日も無料で9時~21時まで見学できます。10時から16時半までは、堺観光ボランテイア協会のガイドがいます。

田出井山古墳の拝所
田出井山古墳の拝所

 市役所の北東の交差点と南海高野線の踏み切りを渡って東へ10分足らずで田出井山古墳です。天皇陵に指定されている前方後円墳の前方部の真ん中の周濠の外側には拝所という参拝する場所ができています。

 拝所には鳥居と玉垣があり、玉砂利が敷かれています。拝所は幕末に整備されたものです。田出井山古墳の拝所の鳥居は、白い石製です。2018年には案内版もできました。この古墳は、5世紀の中頃につくられたもので、墳丘長148mあり、百舌鳥古墳群野前方後円墳では7番目の大きさです。

田出井山古墳

反正(はんぜい)天皇陵古墳

前方後円墳(墳丘長148m)

5世紀中頃

もとは二重濠があった

宮内庁管理

 古墳にそった住宅街を歩いて行くと方違神社です。方違神社からは田出井山古墳の後円部が見えます。

2.天王古墳、鈴山古墳

 大きな前方後円墳のそばには小さな円墳、方墳、帆立貝形古墳がつくられることがあり、陪塚(ばいつか)または陪冢(ばいちょう)と呼ばれます。方違神社の本殿の南側の出口から出て進んでいくと、天王古墳、さらに進むと鈴山古墳があります。天王古墳は木が切られています。案内版がないとこれが古墳とは気づかないかもしれません。鈴山古墳には木が生えていますが、どこかの住宅の庭のようにも見えます。

天王古墳
天王古墳
鈴山古墳
鈴山古墳


天王(てんのう)古墳

田出井山古墳の陪塚

方墳(一辺11m)

鈴山古墳

 同上

方墳(一辺22m)

 けやき通りには、大きなクロガネモチの木や天王貯水池などがあり、春~夏は、けやきの緑が美しいです。南へ歩くと南海高野線とJR阪和線の三国ヶ丘駅、北東に歩くとJR阪和線堺市駅です。

 以下、各古墳についての表は、堺市文化観光局文化部文化財課編集発行『堺 の文化財 百舌鳥古墳群』2019年 第8版による

次は「【4】百舌鳥駅周辺の古墳」へ

  

百舌鳥古墳群めぐり【4】百舌鳥駅周辺の古墳

百舌鳥古墳群めぐり>|【3】【4】百舌鳥駅周辺の古墳【5】

百舌鳥古墳群めぐり【4】

PDFアイコン【4】百舌鳥駅周辺の古墳(このページと同じ内容です)

百舌鳥駅周辺の古墳

樽野 美千代

1.長塚古墳

長塚古墳
長塚古墳

 JR阪和線百舌鳥駅で降りたら、跨線橋(陸橋)に上って見て下さい。北西には大仙古墳の稜線が見え、大仙古墳の大きさが良くわかります。南西側に木立ちが見えるのが長塚古墳です。もとは周濠があったのですが、戦後早い時期に周濠を埋めて墳丘ぎりぎりまで住宅が建ったので、全体が見えにくくなりました。以前は長山古墳とも呼ばれたので、その名前の石碑があります。また仁徳天皇陵参拝道という石碑は、以前踏み切りの横にあったのですが、倒れてしまったのでこちらに移動して来ています。

長塚古墳

前方後円墳(墳丘長106m)

百舌鳥古墳群中10位

5世紀中頃~後半

もとは幅14mほどの周濠あり

国史跡 堺市が管理

2.御廟山古墳

御廟山古墳
御廟山古墳

 跨線橋を東に降りてそのまま進み、信号を渡って最初の角を右へ曲がってしばらく行くと御廟山古墳です。百舌鳥古墳群で4番目、全国で35番目の大きさの古墳です。全国に墳丘長200m以上の前方後円墳は37基ありますが、御廟山古墳は墳丘長203m、巨大古墳のひとつです。前方部の角の堤に上って、古墳全体を見ることができます。前方後円墳が一番美しいのは、前方部の角から見る時と思われます。左側の後円部から右側の前方部まで、一目で古墳全体を見ることができます。前方部沿いに歩いて行くと案内版があり、造り出しから出土した囲い形埴輪の写真があります。前方部の右端付近まで行くと造り出しが見えます。御廟山古墳は天皇陵古墳ではありませんが、応神天皇を最初に葬った古墳という伝承があり、陵墓参考地となっています。墳丘は宮内庁、周濠は堺市が管理しています。2008年に宮内庁と堺市文化財課が同時に調査し、墳丘1段目と2段目の葺石がきちんと葺かれていたこと、1段目テラスには円筒埴輪の列があったことなどがわかりました。

御廟山古墳

百舌鳥陵墓参考地(墳丘は宮内庁)

前方後円墳(墳丘長203m)

5世紀前半

もとは二重濠があった

周濠は堺市が管理

3.善右ヱ門山古墳

善右ヱ門山古墳
善右ヱ門山古墳

 前方部ぞいに歩いて、赤っぽい舗装の道路をたどって善右ヱ門山古墳へ。ここは特別養護老人ホームグリーンハウスの緑地として残された古墳です。百舌鳥古墳群では5基しか残っていない方墳で、「史跡 百舌鳥古墳群」という石碑が建っています。

 

善右ヱ門山古墳

いたすけ古墳の陪塚

方墳(一辺28m)、史跡、個人所有

4.いたすけ古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

 いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群では8番目の大きさの前方後円墳です。
いたすけ古墳の後円部から前方部の方に歩いて行くと、周濠の中に壊れた橋が残っています。いたすけ古墳は、1955(昭和30)年当時の所有者が池の中の住宅地として売り出しました。1945(昭和20)年に堺のまちでは5回の空襲があり、とくに7月10日未明の大空襲では、まちの中~南部がほとんど焼失、戦後の緊急・最大の課題は住宅建設でした。古墳の墳丘の盛り土は粘土と赤土が層状に積み重ねられていて、住宅の壁土に最適だそうです。古墳の所有者は、盛り土は壁土として売り、墳丘を削ってできた平らな土地には住宅を建設しようとしたのです。

 1955年秋に保存運動が起こり、広がりました。今から60年以上前のことなので、文化財とか保存運動ということばもなかったそうです。若い考古学者や市民、労働組合などが「いたすけ古墳を護れ」と立ち上がったのです。「古墳や遺跡があると、地域が発展しないのではないか」という文化財迷惑論があったりしたそうですが、各新聞が保存運動を報道し、地域の中学校などでは10円募金が行われ、古墳所有者も「買い上げてくれるのなら、建設会社でも堺市でも良い」ということで、堺市が買い上げて保存されることになり、このあと各地の文化財保存運動のモデルとなりました。堺市は古墳公園にするため墳丘の木々を伐りました。橋がかかっているときは自由に墳丘に入れたので、後円部から衝角付き冑形埴輪がみつかり、堺市の文化財保存のシンボルマークになっています。現在は墳丘にタヌキが住んでいて、時々橋の上に出てきます。前方部の南角の西百舌鳥校区地域会館の前に立つ案内版をぜひ読んでみて下さい。

いたすけ古墳

堺市が管理 国史跡

前方後円墳(墳丘長146m)

5世紀前半

周辺に陪塚が複数あった

市民運動で保存された

5-1.コースA=上石津ミサンザイ古墳の拝所まで行くコース

上石津ミサンザイ古墳
上石津ミサンザイ古墳

 阪和線沿いの道路に出て、南西(左)方向に進んで踏み切りを渡り、線路沿いに左手に進み、最初の角を右に曲がって行くと、上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳です。上野芝町の邸宅街を通って直進すると、黒い柵が見えてきます。これは宮内庁管理の天皇陵古墳の柵です。柵沿いに南に歩くと、小舟が見えます。宮内庁の職員が墳丘に入るためのものです。柵沿いには緑色のシートが敷かれています。除草剤を染みこませたもののようです。住宅が周濠に近いので、雑草を防ぐため以前から敷かれています。前方部の角の所に小さな公園(上野芝町マツモ公園)があります。ここから見る上石津ミサンザイ古墳は美しいです。上石津ミサンザイ古墳全体をながめられます。

上石津ミサンザイ古墳

履中天皇陵古墳

前方後円墳(墳丘長365m)

5世紀初頭までに築造

もとは二重濠があった

宮内庁管理

 泉北1号線に出て西向きに歩いて行くと拝所があります。大仙古墳の拝所とは規模が相当違いますが、拝所には鳥居・玉垣・玉砂利があることを確認しましょう。2019年3月に鳥居が取り替えられました。

 拝所を出てさらに西に進みます。周濠沿いに住宅が建っているので前方部は見えませんが、前方部の南西の角に出てきます。右手は上野芝町、左手には緑ヶ丘南町の住居表示がみられますが、古墳は石津ヶ丘にあります。古墳のあるところだけが石津ヶ丘なので、石津ヶ丘古墳と呼ばれることもあります。こちらの前方部の角からも古墳全体を見ておきましょう。古墳は、東側が高く西側の方が低い台地の西の端にあることが体感できます。

上石津ミサンザイ古墳のビュースポット
上石津ミサンザイ古墳のビュースポット

 上石津ミサンザイ古墳の西側は桜並木の公園になっています。南の方が高くて北へ歩いて行くほど低くなっていきます。けっこう長い道ですが、歩いてみると古墳の大きさと地形の変化を感じることができます。後円部の端は、塩穴通りです。後円部ぞいに歩くとビュースポットがあり、後円部を真横からながめられます。左手は高く、右手は低いことを確かめましょう。住宅の屋根の見え方が違います。木々が茂っているので、墳丘が3段積みであるのはわかりにくいのですが、周濠の水辺から大きく2段積みになっていることがわかります。ここの周濠の幅は60mぐらいあります。

七観山古墳あと(展望台)
七観山古墳あと(展望台)

 ビュースポットから北側に信号を渡ると、大仙公園平成の森に入ります。大仙公園平成の森の中に大きな土盛りがあります。ここはもと七観(山)古墳のあったところです。古墳は削られてなくなりましたが、平成の森がつくられた時、もと古墳があった場所に土盛りをして展望台になっています。北にあべのハルカスや堺市役所、北西には六甲の山々、西に関電の堺火力発電所、南には上石津ミサンザイ古墳が見えます。小さな古墳でも見晴らしがよいことがよくわかります。

 もとは2段積みの円墳だったので、北側の草の生えている部分が古墳の雰囲気を残しています。七観山古墳は、上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、大正から昭和にかけて3回の発掘調査などが行われました。調査により、甲冑、刀や矢じり、斧、手斧(ちょうな)、ヤリガンナ、金銅製帯金具(おびかなぐ)、馬具などが見つかっています。武器・武具がたくさん埋納された武器庫のようでした。出土品は京都大学にあります。発掘調査の後、この古墳は土取り工事で消滅しました。古墳の盛り土は、日本家屋の壁土にちょうど良いので、戦後多くの小さな古墳が壊されたのです。

寺山南山古墳(案内板のある北側から)
寺山南山古墳(案内板のある北側から)

 横断歩道を渡って大仙公園に入ります。右手の木立ちは寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、百舌鳥古墳群には5基しかない方墳です。長方形だったそうで、寺山南山古墳の周濠と上石津ミサンザイ古墳の2重目の周濠は共有、同じ周濠を2つの古墳が使っていたようです。この古墳には以前カイロプラテックの治療院があり、墳丘の2段目は削られています。範囲確認調査が行われたとき、南側に造出しがあったことがわかりました。

寺山南山古墳

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

方墳(44.7m×39.2m)

5-2.コースB=上石津ミサンザイ古墳の後円部のビュースポットまで、ショートカットで行くコース

コースB 東上野芝町1号墳
コースB 東上野芝町1号墳

 いたすけ古墳から阪和線沿いの道路に出て、南西(左)方向に進んで踏み切りを渡り、右手に行きます。ガレージの横に小さな土盛りがあります。東上野芝町1号墳です。

 いたすけ古墳の陪塚と考えられ、円墳だったようですが、線路や道路で相当削られています。

銭塚古墳
銭塚古墳

 右手の生け垣は大阪府立堺支援学校です。この学校の敷地の中(サッカーコートの横)には銭塚古墳があります。後円部は2段目が削られて物置がありましたが、今はなくなっています。

 

 

東上野芝町1号墳

いたすけ古墳の陪塚かも

円墳(大きさは不明)

銭塚古墳

大阪府の管理、国史跡

帆立貝形古墳(墳丘長72m)

寺山南古墳
寺山南古墳(駐車場の中・右側から
左手奥は上石津ミサンザイ古墳)

 東上野芝町1号墳の北側の道を歩いて住宅街を抜けていくと、駐車場があります。大仙公園の新しい駐車場です。ここを抜けていくと左手に見えてくる木立ちが寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳と同じ頃、5世紀前半に造られたと考えられています。長いほうの一辺が40m以上の二段積みの方墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚。国の史跡で、堺市が管理しています。かつては濠があり、上石津ミサンザイ古墳の外濠と一部重なっていました。濠を共有していたのです。
2016(平成28)年に発掘調査が行われ、墳丘の東側で9m以上の幅の造り出しが確認されました。そして造り出しの所から、円筒埴輪列・囲形(かこいがた)埴輪・家形埴輪が出土したことから、この場所で儀式がされていたようです。

寺山南山古墳

国の史跡で堺市が管理

長方形の方墳

5世紀前半

一辺40m以上

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 寺山南山古墳からフェンス沿いに左手に歩き、信号を2回渡ると上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳のビュースポットです。後円部を横からながめることができます。ビュースポットの案内は4頁をご覧下さい。

 南西入り口から大仙公園に入ります。七観音(しちかんのん)古墳は、5世紀前半に造られたようです。直径32.5mの円墳で、上石津ミサンザイ古墳の陪塚。現在は、国の史跡で、堺市が管理しています。大仙公園のつつじ山として整備されています。

 東方向に歩いて行くと、旗塚古墳が見えてきます。5世紀中頃に造られた墳丘長57.9mの二段積みの帆立貝形前方後円墳で独立した古墳です。国の史跡で、堺市が管理しています。旗塚古墳の周濠には水がほとんどありません。旗塚古墳では、灰色の粘土と褐色の土が層になって積み上げられているようすが確認されています。隣にあるグワショウ坊古墳でもこの古墳独特の土の積み上げ方が確認されています。

 グワショウ坊古墳は、5世紀後半に造られた、長いほうの軸の長さが61mの卵形をした円墳です。円墳としては百舌鳥古墳群中で二番目の大きさです。独立した古墳。国の史跡で、堺市が管理しています。墳丘の上の部分は大きく削られています。

七観音古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径32.5m)

5世紀前半

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 

旗塚古墳

国の史跡で堺市が管理

帆立貝形古墳(57.9m)

5世紀中頃

独立した古墳

 

グワショウ坊古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径61m)

5世紀後半

独立した古墳

群中2位の大きさ

 寺山南山・七観音・旗塚・グワショウ坊の4つの古墳は、他の小さな古墳とあわせて2014(平成26)年に史跡百舌鳥古墳群として史跡となりました。共通の史跡の石碑があります。

 グワショウ坊古墳を過ぎて、左にまがると鳶塚と原山の2つの古墳の跡地に墳丘のような土盛りがつくられています。住宅建設のため昭和30年頃に消滅しましたが、大仙公園を拡張したとき(1999年=平成11年度)、復元されました。鳶塚古墳跡には木が植えられていて、少し離れた原山古墳跡は芝地になっています。両方とも5世紀中頃につくられた円墳で、直径20m台です。小さな説明用の陶板があります。全国的に見るとこれぐらいの大きさの円墳が多いそうです。

 百舌鳥古墳群には、上石津ミサンザイ古墳など巨大な前方後円墳からいろいろな大きさと形の古墳が揃っていることを実感していただけたと思います。これは、同時期の他の地域の古墳群には見られません。5世紀の大王の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいことです。前方後円墳は、有力な王や豪族の墓で、その大きさによって実力が示されていると考えられています。

 左手の方に堺市博物館が見えてきます。入館する前に、左手にあるいたすけ古墳出土の衝角付冑形埴輪のモニュメントを見てください。堺市博物館は1980(昭和55)年、市制90周年記念に、市民の寄付もあつめて開館。堺市の歴史・文化を広く展示研究されています。講演会なども開かれます。百舌鳥古墳群の古墳からの出土品や須恵器など、多くの展示品を楽しむことができます。

次は「【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)」へ

  

百舌鳥古墳群めぐり【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)

百舌鳥古墳群めぐり>|【4】【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)【6】

百舌鳥古墳群めぐり【5】

PDFアイコン【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)(このページと同じ内容です)

大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)

樽野 美千代

1.JR阪和線百舌鳥駅からスタート

 JR百舌鳥駅(東口)を降りたら、踏み切りではなく、跨線橋に上ってみましょう。北西側に、大仙(大山とも。仁徳天皇陵)古墳の稜線がみえます。途中はピンク色の建物でとぎれますが、このように見えるところは他にありません。大仙古墳の大きさが実感できます。

長塚古墳後円部
長塚古墳後円部…百舌鳥駅跨線橋から

 南西側には、長塚古墳が見えます。もとは周濠がありましたが、戦後早い時期に周濠を埋めて住宅が建ったので、全体像が見えにくくなりました。以前は長山古墳とも呼ばれたので、その名前の石碑があります。また仁徳天皇陵参拝道という石碑は、以前踏み切りの横にあったのですが、倒れてしまったのでこちらに移動して来ています。大仙古墳の近くにありますが、大きい古墳なので陪冢(ばいちょう)ではなく、独立した古墳と考えられています。

長塚古墳

前方後円墳(墳丘長106m)

百舌鳥古墳群中10位

5世紀中頃〜後半

もとは幅14mほどの周濠あり

国史跡 堺市が管理

収塚古墳
収塚古墳

 跨線橋を降りてそのまま西へすすみます。駅から少し歩くと収塚(おさめづか)古墳のある広場です。地面と墳丘のあとは茶色、濠のあとは黄緑色のタイルが敷かれています。収塚古墳は後円部しか残っていませんが、もとは前方部の短い帆立貝形古墳でした。発掘調査で前方部の端が確認されたので、茶色のタイルでもとの姿がわかるようにしてあります。大仙古墳の陪冢とされています。

収(おさめ)塚古墳

帆立貝形古墳(墳丘長57.7m)

大仙古墳・陪冢

5世紀中頃

前方部と周濠は消滅

国史跡 堺市が管理

 もず庵というお土産もの屋さんを過ぎると、大仙公園の駐車場です。大仙公園観光案内所でいろいろな地図やパンフレットなどをもらい、周濠沿いにすすむと、左側に大仙(仁徳天皇陵)古墳の250分の1の模型があります。地上からは鍵穴形の前方後円墳は見えないのでつくられたものです。大きな前方後円墳は3段積みであること、3重の周濠があること、まわりに小さな古墳(陪冢、ばいちょう、陪塚ともいう)があることがよくわかります。

2.大仙(仁徳天皇陵)古墳拝所

 仁徳天皇陵古墳とされている前方後円墳の前方部の周濠の向かい側には、参拝するための場所があります。これは文久3(1863)年に整備された拝所(はいしょ)です。江戸時代のいろいろな学者の研究によって、各天皇陵がきめられ、前方部側に拝所がつくられ、墳丘の前方部側が整備されました。これを「文久の修陵」といいます。儒学者の蒲生君平が各地の古墳をみてまわって「前方後円」という言葉をつくり出したのが200年前、拝所がつくられたのが150年前です。

 大仙(仁徳天皇陵)古墳は、墳丘長486m、日本最大の前方後円墳です。5世紀中頃に造られたと考えられています。(註1)今から約1600年前です。宮内庁では「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名しています。堺市では「仁徳天皇陵古墳」としています。わが国の前方後円墳の中で、三重の濠で囲まれているのは珍しく(註2)、古墳の周囲は2,850mの周遊路になっています。三重の濠を含めて仁徳天皇陵古墳の長さは、南北840m、東西650mあります。面積は、約46万4,000平方メートルで、甲子園球場の12個分、東京ドーム10個分になります。仁徳天皇陵古墳を5世紀の技術で造るには、大林組の試算では1日あたりピーク時で1日2000人が働いて15年8ヶ月かかり、延べ680万人が働いたとされています。

 拝所には、鳥居・玉垣・玉砂利があり、神社のような仕立てになっています。
墳丘は拝所から100mぐらい離れています。墳丘に茂っている木々は、明治の中ごろに植林されたものです。拝所から見える光景は、5世紀中頃の人たちが積み上げた山に、明治中頃の人たちが植えた木々が繁っていると言うことになります。拝所からは自然の森が見えるのではなく、昔の人たちがつくりあげた光景であることを忘れないで下さい。

大仙(仁徳天皇陵)古墳

前方後円墳(墳丘長486m)

全国最大

5世紀中頃

3重の周濠あり、陪冢あり

宮内庁管理

(註1)古墳の築造時期は、古墳に立て並べられた円筒埴輪の研究がすすんで
 わかるようになって来ました。円筒埴輪の表面の仕上げ方、突帯(とったい)
 という帯のような部分、透かし穴という○や□の空気抜きの穴の形や数など
 の研究がすすんで25年間隔ぐらいで焼かれた時期がわかります。円筒埴輪 
 は、古墳築造の最終段階で焼かれると考えられるので、古墳の築造時期が想 
 定できます。

(註2)全国に濠が3重ある古墳は8ヶ所あるようです。千葉県の大堤(おお 
 つつみ)権現塚古墳、群馬県の保渡田(ほとだ)八幡塚古墳、七輿(ななこ
 し)山古墳、埼玉県の鉄砲塚古墳、福岡県の御塚(おんつか)古墳、月岡(つ
 きのおか)古墳、東光寺剣塚古墳と大仙古墳です。

*10時から16時半までは、堺観光ボランティア協会のガイドがいます。無料の案内をお楽しみください

3.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳

孫太夫山古墳
孫太夫山古墳

 大仙古墳の拝所の向かいにある木立ちは、孫太夫山古墳です。江戸時代このあたりは中筋村という村で、その村の庄屋の南孫太夫が管理しており、明治維新のときに新政府に献上したそうです。孫太夫山古墳は、大仙古墳の縦の真ん中の線(主軸線)上という特別な場所にあり、範囲確認調査で出土した円筒埴輪は、大仙古墳と同じく5世紀中頃と確認されたので、大仙古墳の陪冢であると考えられています。後円部には木が生えていますが、前方部は草だけです。これは大仙公園が作られた昭和40年代につけ足された部分です。孫太夫山古墳の調査が行われたとき、古墳時代当時の形であると確認されました。孫太夫山古墳の前方部の西側あたりから大仙古墳をながめると、大仙古墳の大きさが実感できます。孫太夫山古墳は、前方部の短い帆立貝形古墳で、墳丘長65m。

孫太夫山古墳

墳丘のほとんどは宮内庁

帆立貝形前方後円墳

5世紀中頃

墳丘長65m 陪冢

大仙古墳の主軸線上にあり

竜佐山古墳
竜佐山古墳

 西の方にすすむと憩いの広場があり、竜佐(たつさ)山古墳があります。大仙公園が整備されるとき墳丘のすそに小石が敷かれました。竜佐山古墳は、大仙古墳よりもあとに造られた、長さ61mの帆立貝形前方後円墳です。大仙古墳の陪塚の一つとされ、墳丘は宮内庁が管理しています。御陵通(北)側が橋になっているのは、濠を保存するためです。

竜佐山古墳

墳丘は宮内庁 周濠は堺市

帆立貝形前方後円墳

5世紀後半

墳丘長61m 

陪冢

 竜佐山古墳から少し西にすすむと、大仙公園の北西角の入り口です。イチョウ並木があり、正面に平和記念塔があります。これは、1945(昭和20)年の堺空襲で亡くなった方々の慰霊塔なので、上には上れません。

 大仙公園の北西には狐山古墳があります。狐山古墳は、竜佐山古墳と同じ時期、大仙古墳よりも30年ぐらいあとに造られた古墳です。直径約30mの円墳で、大仙古墳の陪塚の一つです。

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

銅亀山古墳
銅亀山古墳

 信号を北へ渡って行くと銅亀山古墳です。銅亀山古墳は、大仙古墳とほぼ同時期、5世紀中ごろに造られた古墳です。一辺の長さ26mの二段積みの方墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。百舌鳥古墳群では方墳は少なく、現在残っているのは5つだけですが、その一つです。地元では「どんがめやま」と呼ばれることもあります。            

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

 北の方に進んでいくと歌碑があります。
 仁徳天皇皇后磐之媛(いわのひめ)の歌碑

  ありつつも 君をば待たむ うちなびく 
        吾(あ)が黒髪に 霜の置くまでに
    意味:このまま いつまでも貴方の訪れを待っていましょう 
       風になびく 私の黒髪が 霜を置いたように白くなるまで

磐之媛は、仁徳天皇の皇后で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘です。民間から皇后になった最初の女性です。そのお墓(古墳)は、奈良市の平城京跡の北の佐紀古墳群にあるヒシアゲ古墳とされています。万葉仮名で歌を書かれたのは、大阪大学名誉教授で万葉学者として有名だった犬養孝氏。この近くに大仙(仁徳天皇陵)古墳の唯一の案内板があります。

 大仙古墳の三重目の濠の中の樋の谷古墳が見えます。この古墳は直径47mの円墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。濠の水が流れ出す所に近いので「樋の谷」と名付けられたようです。また、濠をさらった時の盛り土という説もあり、古墳ではないかもしれません。

樋の谷古墳

直径47m

円墳か

5世紀中頃か

陪冢か

大仙古墳の第3濠内

 まっすぐ進んでいくと、初霜坂です。初霜坂は、平成元年(1989)の堺市制百周年記念事業の一環で整備されました。平成2年(1990)、当時の建設省、現在の現国土交通省の「手作り郷土(ふるさと)賞・ふるさと坂道30選」に選ばれています。欄干には三十六歌仙の一人である凡(おおし)河内躬(こうちのみ)恒(つね)の初霜をよんだ和歌が刻まれています。この歌は百人一首のひとつです。
 
 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどわせる 白菊の花 
  意味:あてずっぽうに折ってみようかな。真っ白な初霜が一面におりて
     霜なのか白菊なのか わからなくさせている 白菊の花さん

 大阪府立だいせん聴覚高等支援学校(もとは大阪府立白菊高校・衛生看護科がありました)の校門の前を右へ曲がります。右へ曲がって坂を登り、更に右へ曲がって、大仙古墳の濠沿いに歩くと樋の谷古墳がよく見えます。

 フェンス沿いに進んで左へ曲がると、丸保山古墳です。5世紀中頃に造られた長さ87mの帆立形前方後円墳です。大仙古墳の陪塚かもしれません。後円部は宮内庁が管理し、前方部と濠は堺市、古墳全体は国の史跡になっています。前方部は、低く削られています。案内板は、後円部の西側にあります。

丸保山古墳(全体が国史跡)

後円部は宮内庁

前方部と周濠は堺市

5世紀中頃

墳丘長87m(群中10位)

陪冢

「【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)」に続く

 

  

百舌鳥古墳群めぐり【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)

百舌鳥古墳群めぐり>|【5】【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)【7】

百舌鳥古墳群めぐり【6】

PDFアイコン【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)(このページと同じ内容です)

大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)

樽野 美千代

4.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳 つづき

菰山塚古墳
菰山塚古墳

 丸保山古墳の前方部沿いに西へ歩いて行くと、菰山塚(こもやまづか)古墳があります。長さ33mの帆立貝形前方後円墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。

 

菰山塚古墳

宮内庁 

前方後円墳か

5世紀中頃か

墳丘長33m(半壊状態)

陪冢

 大仙古墳までもどってフェンス沿いに後円部の横の道を歩いて行きます。西側の三重目の濠には、渡り土堤(どてい)があり、大仙古墳の西側は、東側よりも低いので、水位を保つため濠が階段状になっています。

中央環状線の向こうに長さ約100mの前方後円墳である永山古墳が見えます。
前方後円墳であることや墳丘長100mという規模から、陪塚とは考えにくいとされています。墳丘は宮内庁が管理しています。

永山古墳

墳丘は宮内庁 周濠は堺市

前方後円墳

5世紀

墳丘長100m

独立した古墳か

 大仙古墳のフェンスにそって行くと、榎橋歩道橋の横に直径56mの円墳、茶山古墳があります。百舌鳥古墳群中三番目に大きい円墳です。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理。大仙古墳の二重目と三重目の濠の間の堤(第二堤)にあります。

 江戸時代に書かれた『堺鑑』(さかいかがみ)という本によると、豊臣秀吉が大仙古墳で狩をした時、墳丘上に構えた仮の住まいを茶屋山と呼んだという記述があることから茶山古墳と名付けられました。

 フェンス沿いに進んでいくと、大きな鉄製の扉があります。幕末までは、こちら側から参拝していたのかもしれません。

 堺市のつくった案内用の石碑のそばに、三重目の濠に水を入れている入水口があります。水源はここから約1km離れた南海高野線百舌鳥八幡駅の近くにある芦ヶ池(あしがいけ)です。このあたりはもと西高野街道だったところです。フェンスにそって歩いて行くと,大安寺山古墳です。横を走る道路は国道310号線、河内長野方面から和歌山県の高野山に続きます。大安寺山古墳は直径62mの円墳。円墳としては百舌鳥古墳群中最大の大きさです。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。茶山古墳と同じく、大仙古墳の第二堤にあります。古墳の名前は、堺にあるお寺の大安寺の所有地であったことに由来します。茶山古墳と大安寺山古墳は、大仙古墳と3つあわせて1つの構成資産として世界遺産のリストに載っています。

茶山古墳

宮内庁

円墳(大仙古墳の第2堤上)

5世紀中頃

直径56 m 

陪冢

大安寺山古墳

宮内庁

円墳(大仙古墳の第2堤上)

5世紀中頃

直径62 m

陪冢

5.大仙(仁徳天皇陵)古墳の東側の古墳

源右衛門山古墳
源右衛門山古墳

 三国ヶ丘駅の近くまで来ました。住宅の立ち並ぶ向かい側に源右衛門山古墳があります。大仙古墳とほぼ同時期の5世紀中頃に造られた直径34mの円墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。道路上には濠の外側の輪郭がわかるようになっています。大仙古墳の東側の道は交通量が多いので、注意して下さい。

 源右衛門山古墳からは、三国ヶ丘駅が近いです。三国ヶ丘駅まで行ったら、屋上の「みくにん広場」に上ってみてください。後円部側からの稜線を見ることができます。三国ヶ丘駅の「みく」と仁徳天皇陵古墳の「にん」を組み合わせた名前だそうです。

源右衛門山古墳

宮内庁

円墳

5世紀中頃

直径34 m

陪冢

塚廻古墳
塚廻古墳

 南側へ進んでいくと、駐車場の向こうに塚廻(つかまわり)古墳があります。大仙古墳とほぼ同時期、5世紀中頃に造られた直径約32mの円墳です。大仙古墳の陪塚の一つと考えられます。1912(明治45)年に、埋葬施設だけを発掘調査し、木の棺と銅鏡,刀剣、勾玉などの玉類がたくさん出土しました。道路上には濠の外側の輪郭がわかるように示しています。

塚廻(つかまわり)古墳

堺市  国史跡

円墳

5世紀中頃

直径32 m

陪冢

 

鏡塚古墳
鏡塚古墳

 少し進んで左に曲がりJR阪和線の踏切を渡ると、スーパー(ライフ百舌鳥店)の駐車場の中に小さな山と木立ちがあります。これは鏡塚古墳です。大仙古墳とほぼ同時期の5世紀中頃に造られた直径26mの円墳で、個人の所有の古墳です。阪和線や線路沿いの道路でかなり墳丘が削られているようです。                    

鏡塚古墳

個人所有  国史跡

円墳(半壊状態)

5世紀中頃

直径26 m

 

長塚古墳
長塚古墳

 大仙古墳のフェンス沿いの道に戻って南の方へ進んでいくと、長塚古墳が見えます。2018年9月の台風で墳丘に生えている木々が傷んでしまいました。

 大仙古墳の廻りを一周するコースでは、大仙古墳の墳丘はあまり見えません。
古墳は、5世紀の人たちが積み上げた山です。墳丘長は486mと長いのですが、前方部の高さ34m、後円部の高さ35mと低く、明治の中ごろに植えられた木々が樹齢120年と大きく育ったので、高さ50mちかくありますが、周辺を歩くと墳丘はほとんど見えません。周辺にたくさんある小さな古墳を楽しみながら歩いてみて下さい。

 次は「【7】大仙公園内の古墳をあるく」に続きます

  

百舌鳥古墳群めぐり【7】大仙公園内の古墳をあるく

百舌鳥古墳群めぐり>|【6】【7】大仙公園内の古墳をあるく【8】

百舌鳥古墳群めぐり【7】

PDFアイコン【7】大仙公園内の古墳をあるく(このページと同じ内容です)

大仙公園内の古墳をあるく

樽野 美千代

1.孫太夫山古墳

孫太夫山古墳
孫太夫山古墳

 JR阪和線百舌鳥駅から西へ歩いてくると、大仙公園の北東入り口です。進んでいくと、左手に堺市博物館の入り口、右手に孫太夫山古墳があります。

 江戸時代このあたりは中筋村という村で、その村の庄屋の南孫太夫という方が管理しており、明治維新のときに新政府に献上したそうです。孫太夫山古墳は、大仙古墳の縦の真ん中の線(主軸線)上という特別な場所にあり、範囲確認調査で出土した円筒埴輪は、大仙古墳と同じく5世紀中頃と確認されたので、大仙古墳の陪冢であると考えられています。墳丘長65m、前方部の短い帆立貝形古墳です。後円部には木が生えていますが、前方部は草だけです。後円部には黒い低い柵があって宮内庁管理、草だけの前方部は大仙公園が整備されたとき堺市によってつけ足されました。これはのちに正しい復元であると確認されています。少し離れたところに案内板があります。案内板の西側から大仙古墳をのぞむと、その大きさ、ボリュームがよくわかります。

孫太夫山古墳

墳丘のほとんどは宮内庁

帆立貝形前方後円墳

5世紀中頃

墳丘長65m 陪冢

大仙古墳の主軸線上にあり

 西の方にすすむと憩いの広場があり、2018年に新設された総檜造りのトイレがあります。総工費8000万円だそうです。

2.竜佐山古墳

竜佐山古墳
竜佐山古墳

 広場をすぎると、竜佐(たつさ)山古墳が見えてきます。大仙公園が整備されるとき墳丘のすそに小石が敷かれました。竜佐山古墳は、大山古墳よりもあとに造られた、長さ61mの帆立貝形前方後円墳です。仁徳天皇陵古墳の陪塚の一つとされ、墳丘は宮内庁、周濠は堺市の管理です。御陵通(北)側が橋になっているのは、濠を保存するためです。

竜佐山古墳

墳丘は宮内庁 周濠は堺市

帆立貝形前方後円墳

5世紀後半

墳丘長61m 

陪冢

 竜佐山古墳から少し西にすすむと、大仙公園の北西の入り口があります。イチョウ並木があり、正面に平和記念塔があります。堺空襲を含め第二次世界大戦で堺の戦死者や戦没者の方の霊をなぐさめ、二度と戦争がない平和な世の中が続くように建てられました。高さは約60m、地上15階建ての三角柱の建物です。慰霊塔なので中に入ったり、上ることは出来ません。平和塔へ続くイチョウ並木は、2018年9月初めの台風のため、西側の木々の被害が大きいです。

3.狐山古墳から七観山展望台へ

狐山古墳
狐山古墳

 大仙公園の北西、中央図書館や自転車博物館に行く道ぞいにあるのが狐山古墳です。大仙古墳よりもあとにつくられました。円墳で周囲には5mほどの濠がありました。大山古墳の陪冢の一つで、宮内庁が管理しています。

 

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

 狐山古墳から左(南)の方へ歩きます。堺市立中央図書館が見えます。戦前は堺区の宿院町にありましたが、1971(昭和46)年に移転してきました。中央図書館横には与謝野晶子の
 「堺の津 南蛮船の 行き交へば  春秋いかに 入りまじりけむ」
の歌碑があります。与謝野晶子生誕100年記念事業委員会が昭和53年(1978)に建立したものです。

 さらに進むと小さな広場の真ん中にも晶子の歌碑があります。
 「花の名は 一年草もある故に忘れず 星は 忘れやすかり」
  意味「花には一年草もあり、はかないゆえにその名は忘れ難いものですが、天上高く永遠に輝く星の名は、記憶に残りにくいものです」。

 1986(昭和61)年大仙公園で開催された、第37回全国植樹祭を記念して大阪南部花商組合がつくったものです。堺市内には、現在晶子の歌碑・詩碑が26ヶ所あります。2018(平成30)年春に晶子桜も植えられました。堺市が育ててきた新品種の桜が「与謝野晶子」として品種認定されたものです。

 どんどん進んでいくと右手に生け垣が続きます。日本庭園です。堺市制100周年を記念して1989(平成元)年にできた「築山林泉回遊式庭園」で、伝統的日本庭園の研究・保存に国内外で尽力された中根金作氏が設計されました。四季の花や手入れの行き届いた木々と冬の梅、春の桃・つつじ・ボタン、夏のハナショウブ・アジサイ・朝顔展、秋の菊花展、紅葉などを楽しむことができます。入場料は200円、堺市内の65歳以上の方は証明書があれば無料です。

七観山展望台
七観山展望台

 日本庭園の横のトイレを過ぎると駐車場があり、右へ曲がって駐車場から横断歩道を渡り、大仙公園平成の森に進みます。大仙公園平成の森の中に大きな土盛りがあります。ここはもと七観(山)古墳のあったところです。古墳は削られてなくなりましたが、平成の森がつくられた時、もと古墳があった場所に土盛りをして七観山展望台になっています。北にあべのハルカスや堺市役所、北西には六甲の山々、西に関電の堺火力発電所、南には上石津ミサンザイ古墳が見えます。小さな古墳でも見晴らしがよいことがよくわかります。この古墳に葬られた王さまは「見える範囲が支配している範囲」と思っただろうし、この古墳が見える範囲に住む民衆は「あの古墳は我々の優秀な王さまのもの。古墳づくりに頑張ったから、この地域はうまくいくだろう」と思ったことでしょう。もとは2段積みの円墳だったので、北側の草の生えている部分が古墳の雰囲気を残しています。

 上石津ミサンザイ古墳に少し遅れて造られた七観山古墳は、上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、大正から昭和にかけて3回の発掘調査などが行われました。調査により、甲冑、刀や矢じり、斧、手斧(ちょうな)、ヤリガンナ、金銅製帯(おび)金具(かなぐ)、馬具などが見つかっています。遺体が埋葬された痕跡は見つからず、武器・武具がたくさん埋納された武器庫のようでした。出土品は京都大学にあります。発掘調査の後、この古墳は土取り工事で消滅しました。古墳の盛り土は、日本家屋の壁土にちょうど良いので、戦後多くの小さな古墳が壊されたのです。

4.上石津ミサンザイ古墳のビュースポット

上石津ミサンザイ古墳 信号を渡ると上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳のビュースポットです。上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の中で初めて大王陵として築かれた巨大な前方後円墳です。墳丘は三段積みで、長さ365m、高さは約27.6m。日本で三番目に大きい古墳です。宮内庁管理。後円部の頂上にあると思われる埋葬施設や副葬品についてはわかっていません。墳丘には葺き石と埴輪があり、偉い人にさしかける傘のような蓋(きぬがさ)形埴輪、家形埴輪、矢を上向きに入れてリュックサックのように背負う靫(ゆぎ)形埴輪などが採集され、大仙(仁徳天皇陵)古墳よりも早い5世紀前半に造られたと考えられています。もとは二重の濠があり、その周辺にかつては10前後の陪塚があったようですが、現在残っているのは寺山南山古墳と七観音古墳だけです。

 上石津ミサンザイ古墳の後円部を一望できるビュースポットは、2017(平成29)年6月にできました。ここから見える濠は幅60mあるそうです。後円部を横からながめられる場所です。

5.寺山南山古墳

 信号に向かって右(南)側の木立ちが寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳とほぼ同時の5世紀前半に造られたと考えられています。長いほうの一辺が40m以上の二段積みの方墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚。国の史跡で、堺市が管理しています。かつては濠があり、上石津ミサンザイ古墳の外濠と一部重なっていました。濠を共有していたのです。
2016(平成28)年に発掘調査が行われ、墳丘の東側で9m以上の幅の造り出しが確認されました。そして造り出しの所から、円筒埴輪列・囲形(かこいがた)埴輪・家形埴輪が出土したことから、この場所で儀式がされていたようです。

寺山南山古墳

国の史跡で堺市が管理

長方形の方墳

5世紀前半

一辺40m以上

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

6.七観音古墳

七観音古墳
七観音古墳

 南西入り口から大仙公園に入ります。七観音(しちかんのん)古墳は、上石津ミサンザイ古墳にやや遅れて5世紀前半に造られたようです。直径32.5mの円墳で、上石津ミサンザイ古墳の陪塚。現在は、国の史跡で、堺市が管理しています。大仙公園のつつじ山として整備されています。

7.旗塚古墳とグワショウ坊古墳

 東方向に歩いて行くと、旗塚古墳が見えてきます。5世紀中頃に造られた墳丘長57.9mの二段積みの帆立貝形前方後円墳で独立した古墳です。国の史跡で、堺市が管理しています。旗塚古墳の周濠には水がほとんどありません。旗塚古墳では、灰色の粘土と褐色の土が層になって積み上げられているようすが確認されています。隣にあるグワショウ坊古墳でも古墳独特の土の積み上げ方が確認されています。

グワショウ坊古墳
グワショウ坊古墳

 グワショウ坊古墳は、5世紀後半に造られた、長いほうの軸の長さが61mの卵形をした円墳です。円墳としては百舌鳥古墳群中で二番目の大きさです。独立した古墳。国の史跡で、堺市が管理しています。墳丘の上の部分は大きく削られています。

七観音古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径32.5m)

5世紀前半

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 

旗塚古墳

国の史跡で堺市が管理

帆立貝形古墳(57.9m)

5世紀中頃

独立した古墳

 

グワショウ坊古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径61m)

5世紀後半

独立した古墳

群中2位の大きさ

8.鳶塚・原山から堺市博物館へ

 グワショウ坊古墳を過ぎて、左にまがると鳶塚と原山の2つの古墳の跡地に土盛りがつくられています。2つの古墳は、住宅建設のため昭和30年頃に消滅しましたが、1999(平成11)年度に大仙公園を拡張したとき復元されました。鳶塚古墳跡には木が植えられていて、少し離れた原山古墳跡は芝地になっています。両方とも5世紀中頃につくられた円墳で、直径20m台です。小さな説明用の陶板があります。全国的に見るとこれぐらいの大きさの円墳が多いそうです。百舌鳥古墳群には、墳丘長486mの大仙古墳から、直径20m台の小さな円墳まで、大小さまざまな古墳があることがよくわかります。

 右手の方に堺市博物館が見えてきます。入館する前に、左手にあるいたすけ古墳出土の衝角付冑形埴輪のモニュメントを見てください。堺市博物館は1980(昭和55)年、市制90周年記念に、市民の寄付もあつめて開館。堺市の歴史・文化を広く展示研究されています。講演会なども開かれています。

 これで大仙公園内の古墳めぐりは終了です。5世紀の大王の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいとされ、他ではなかなか見られません。

 この行程はおよそ一時間、大仙公園や日本庭園では四季折々の花々や木々を楽しめます。堺市緑化センターもすぐ近くです。いろいろな形と大きさの古墳を見学してそれぞれの古墳の美しさや魅力をお楽しみ下さい。

次は「【8】中百舌鳥駅周辺〜百舌鳥駅へ」

  

百舌鳥古墳群めぐり【8】中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ

百舌鳥古墳群めぐり>|【7】【8】大仙公園内の古墳をあるく

百舌鳥古墳群めぐり【8】

PDFアイコン【8】中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ(このページと同じ内容です)

中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ

樽野 美千代

1.御廟表塚古墳

御廟表塚古墳
御廟表塚古墳

 地下鉄御堂筋線・南海高野線・泉北高速鉄道の中百舌鳥駅南出口を降りて、バスターミナルを過ぎて進んでいくと西高野街道にでます。右へ入っていくと、土塀の横に駐車場があり、その右奥にこんもりとした墳丘が見えます。ここは御廟表塚古墳です。2段積みの帆立貝形前方後円墳ですが、前方部は壊され、後円部と周濠の一部が残っています。墳丘上に上ることが出来ます。

 古墳の左(東)側にある大きな門構えは谷家(筒井家)住宅で、中百舌鳥町の旧家です。江戸時代のはじめに、夕雲開(せきうんびらき)という新田村の開発の中心であったお宅です。2019年秋に登録有形文化財になりました。座敷棟(主屋=おもや)・茶室・土蔵・門長屋などからなる住宅で、門前の大きなクスの木は樹齢800~1000年と言われる巨大なもの。地域の人たちから雨乞いの霊木として信仰されているそうです。

御廟表塚古墳

堺市(後円部は径67.6m)

帆立貝形古墳(墳丘長84.8m)

5世紀後半

前方部は消滅

国史跡 堺市が管理

2.定の山古墳

定の山古墳
定の山古墳

 西高野街道に戻って右(南)方向へ進むと、国道310号線との交差点があり、信号を渡って下り坂を降りると、百舌鳥川が流れています。小さな橋を渡って今度は上り坂です。左手の方に城の山公園があり、奥の方の小山は定の山(じょうのやま)古墳です。1968(昭和43)年に土地区画整理事業の工事で前方部と後円部の裾は、削られてしまいました。定の山古墳は、足もとに気をつけて上ることができます。春には、桜が美しいです。

定の山古墳

堺市(城の山公園内)

帆立貝形古墳(墳丘長69m)

5世紀後半

周濠があった

堺市が管理

 
3.ニサンザイ古墳

ニサンザイ古墳
ニサンザイ古墳

 定の山古墳を出て左手に歩くと、「ときはま線」という交通量の多い道路にでます。信号を渡って右手(西側)に15分ぐらい歩くとニサンザイ古墳です。前方部側にある御陵山公園からも大きな墳丘が見えています。北側の堤に登ってみると、墳丘長300m超の美しいニサンザイ古墳を眺められます。全国7位の大きさで左側が後円部、右側が前方部です。このように一目で墳丘全体を眺めることのできる古墳はなかなかありません。ニサンザイ古墳は、5世紀後半、古墳づくりの技術が最高に発達した時期につくられ、前方部が発達した美しい前方後円墳です。

 後円部の方へまわると、造り出しがよく見えます。後円部の周濠では、木橋と考えられる柱の列がみつかっています。葺き石は、1段目の斜面にはほとんどなく、2段目にはかなり大きな石がまばらに使われていたそうです。葺き石の省略が始まっているのかもしれないと考えられています。周濠にいつでも水が満々とあるので、波がおこって墳丘の裾を削っているので、宮内庁がフェンスをまげて石を積み、金属製の細長い籠に海辺の石を入れて、墳丘を守ろうとしています。

 その上には、草の種子を埋め込んだ土嚢を積んであります。

 前方部沿いに南へ進むと、真ん中あたりに案内板があります。時間があれば、前方部の南西部まで行って見て下さい。こちらから見る古墳全体も美しいです。

 ニサンザイ古墳は、反正天皇が初めて埋葬された古墳として陵墓参考地になっています。

ニサンザイ古墳

陵墓参考地(宮内庁)

前方後円墳(300m)

5世紀後半

2重の周濠があった

周濠は堺市が管理

4.百舌鳥八幡宮

 周堤を降りて公園から「ときはま線」を渡り、そのまま進み百舌鳥梅町の中の細い道を通っていくと、百舌鳥八幡宮にでます。祀っているのは、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・住吉大神・春日大神です。

 社伝では、神功皇后が朝鮮半島からの帰りに、この地で幾万代までの天下太平を祈られたので、当地を万代(もず)とよぶようになったとされています。平安時代末には、石清水八幡宮の別宮となり、江戸時代には、堺奉行が祭に参加しているそうです。百舌鳥八幡宮の祭と言えば、中秋の名月のころに大小17基のふとん太鼓がくりだす月見祭(ふとん太鼓)が有名です。

 現在の社殿は、本殿が1726(享保11)年、拝殿が1830(文政13)年の建立。拝殿の右側には、大きなクスの木が生えています。樹齢(じゅれい)は700年とも800年ともされる古木です。

5.御廟山古墳

御廟山古墳
御廟山古墳

 百舌鳥八幡宮の西側に御廟山古墳があります。百舌鳥古墳群で4番目、全国で35番目の大きさの古墳です。全国に墳丘長200m以上の前方後円墳は37基ありますが、御廟山古墳は墳丘長203mです。後円部をじっくり見てから、古墳の横を歩いて行きましょう。前方部の角の堤に上って、古墳全体を見ることができます。前方後円墳が一番美しいのは、前方部の角から見る時と思われます。左側の後円部から右側の前方部まで、一目で古墳全体を見ることができます。前方部沿いに歩いて行くと案内版があり、造り出しから出土した囲い形埴輪の写真があります。前方部の右端付近まで行くと造り出しが見えます。御廟山古墳は天皇陵古墳ではありませんが、応神天皇を最初に葬った古墳という伝承があり、陵墓参考地となっています。墳丘は宮内庁、周濠は堺市が管理しています。2008年に宮内庁と堺市文化財課が同時に調査し、墳丘1段目と2段目の葺石がきちんと葺かれていたこと、1段目テラスには円筒埴輪の列があったことなどがわかりました。

御廟山古墳

百舌鳥陵墓参考地(墳丘は宮内庁)

前方後円墳(墳丘長203m)

5世紀前半

もとは二重濠があった

周濠は堺市が管理

 前方部ぞいに歩いて、赤っぽい舗装の道路をたどって善右ヱ門山古墳へ。ここは特別養護老人ホームグリーンハウスの緑地として残された古墳です。百舌鳥古墳群では5基しか残っていない方墳で、「史跡 百舌鳥古墳群」という石碑が建っています。

善右ヱ門山古墳

いたすけ古墳の陪塚

方墳(一辺28m)、史跡、個人所有

6.いたすけ古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

 右手にあるいたすけ古墳は、百舌鳥古墳群では8番目の大きさの前方後円墳です。いたすけ古墳の後円部から前方部の方に歩いて行くと、周濠の中に壊れた橋が残っています。いたすけ古墳は、1955(昭和30)年当時の所有者が池の中の住宅地として売り出しました。1945(昭和20)年に堺のまちでは5回の空襲があり、とくに7月10日未明の大空襲では、まちの中~南部がほとんど焼失、戦後の緊急・最大の課題は住宅建設でした。古墳の墳丘の盛り土は粘土と赤土が層状に積み重ねられていて、住宅の壁土に最適だそうです。古墳の所有者は、盛り土は壁土として売り、墳丘を削ってできた平らな土地には住宅を建設しようとしたのです。

 1955年秋に保存運動が起こり、広がりました。今から60年以上前のことなので、文化財とか保存運動ということばもなかったそうです。若い考古学者や市民、労働組合などが「いたすけ古墳を護れ」と立ち上がったのです。「古墳や遺跡があると、地域が発展しないのではないか」という文化財迷惑論があったりしたそうですが、各新聞が保存運動を報道し、地域の中学校などでは10円募金が行われ、古墳所有者も「買い上げてくれるのなら、建設会社でも堺市でも良い」ということで、堺市が買い上げて保存されることになり、このあと各地の文化財保存運動のモデルとなりました。堺市は古墳公園にするため墳丘の木々を伐りました。橋がかかっているときは自由に墳丘に入れたので、後円部から衝角付き冑形埴輪がみつかり、堺市の文化財保存のシンボルマークになっています。現在は墳丘にタヌキが住んでいて、時々橋の上に出てきます。前方部の南角の西百舌鳥校区地域会館の前に立つ案内版をぜひ読んでみて下さい。

いたすけ古墳

堺市が管理 国史跡

前方後円墳(墳丘長146m)

5世紀前半

周辺に陪塚が複数あった

市民運動で保存された

 阪和線の線路に沿って百舌鳥駅方面に戻りましょう。この道は交通量が多く、たくさんの自動車や自転車が通るので、十分注意して下さい。踏み切りを渡ると大仙公園です。公園内の小さな古墳を見学するのも良いし、大仙古墳まで行ってみるのも良いでしょう。

 百舌鳥古墳群には、墳丘長300m超のニサンザイ古墳から、小さな古墳まで、大小さまざまな古墳があることがよくわかります。
これは、同時期の他の地域の古墳群には見られません。5世紀の大王のお墓の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいことです。前方後円墳は、有力な王や豪族の墓で、その大きさによって実力が示されていると考えられています。いろいろな形と大きさの古墳を楽しみ、それぞれの古墳の美しさや魅力をお楽しみ下さい。