百舌鳥古墳群めぐり【7】大仙公園内の古墳をあるく

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百舌鳥古墳群めぐり【7】

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大仙公園内の古墳をあるく

樽野 美千代

1.孫太夫山古墳

孫太夫山古墳
孫太夫山古墳

 JR阪和線百舌鳥駅から西へ歩いてくると、大仙公園の北東入り口です。進んでいくと、左手に堺市博物館の入り口、右手に孫太夫山古墳があります。

 江戸時代このあたりは中筋村という村で、その村の庄屋の南孫太夫という方が管理しており、明治維新のときに新政府に献上したそうです。孫太夫山古墳は、大仙古墳の縦の真ん中の線(主軸線)上という特別な場所にあり、範囲確認調査で出土した円筒埴輪は、大仙古墳と同じく5世紀中頃と確認されたので、大仙古墳の陪冢であると考えられています。墳丘長65m、前方部の短い帆立貝形古墳です。後円部には木が生えていますが、前方部は草だけです。後円部には黒い低い柵があって宮内庁管理、草だけの前方部は大仙公園が整備されたとき堺市によってつけ足されました。これはのちに正しい復元であると確認されています。少し離れたところに案内板があります。案内板の西側から大仙古墳をのぞむと、その大きさ、ボリュームがよくわかります。

孫太夫山古墳

墳丘のほとんどは宮内庁

帆立貝形前方後円墳

5世紀中頃

墳丘長65m 陪冢

大仙古墳の主軸線上にあり

 西の方にすすむと憩いの広場があり、2018年に新設された総檜造りのトイレがあります。総工費8000万円だそうです。

2.竜佐山古墳

竜佐山古墳
竜佐山古墳

 広場をすぎると、竜佐(たつさ)山古墳が見えてきます。大仙公園が整備されるとき墳丘のすそに小石が敷かれました。竜佐山古墳は、大山古墳よりもあとに造られた、長さ61mの帆立貝形前方後円墳です。仁徳天皇陵古墳の陪塚の一つとされ、墳丘は宮内庁、周濠は堺市の管理です。御陵通(北)側が橋になっているのは、濠を保存するためです。

竜佐山古墳

墳丘は宮内庁 周濠は堺市

帆立貝形前方後円墳

5世紀後半

墳丘長61m 

陪冢

 竜佐山古墳から少し西にすすむと、大仙公園の北西の入り口があります。イチョウ並木があり、正面に平和記念塔があります。堺空襲を含め第二次世界大戦で堺の戦死者や戦没者の方の霊をなぐさめ、二度と戦争がない平和な世の中が続くように建てられました。高さは約60m、地上15階建ての三角柱の建物です。慰霊塔なので中に入ったり、上ることは出来ません。平和塔へ続くイチョウ並木は、2018年9月初めの台風のため、西側の木々の被害が大きいです。

3.狐山古墳から七観山展望台へ

狐山古墳
狐山古墳

 大仙公園の北西、中央図書館や自転車博物館に行く道ぞいにあるのが狐山古墳です。大仙古墳よりもあとにつくられました。円墳で周囲には5mほどの濠がありました。大山古墳の陪冢の一つで、宮内庁が管理しています。

 

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

 狐山古墳から左(南)の方へ歩きます。堺市立中央図書館が見えます。戦前は堺区の宿院町にありましたが、1971(昭和46)年に移転してきました。中央図書館横には与謝野晶子の
 「堺の津 南蛮船の 行き交へば  春秋いかに 入りまじりけむ」
の歌碑があります。与謝野晶子生誕100年記念事業委員会が昭和53年(1978)に建立したものです。

 さらに進むと小さな広場の真ん中にも晶子の歌碑があります。
 「花の名は 一年草もある故に忘れず 星は 忘れやすかり」
  意味「花には一年草もあり、はかないゆえにその名は忘れ難いものですが、天上高く永遠に輝く星の名は、記憶に残りにくいものです」。

 1986(昭和61)年大仙公園で開催された、第37回全国植樹祭を記念して大阪南部花商組合がつくったものです。堺市内には、現在晶子の歌碑・詩碑が26ヶ所あります。2018(平成30)年春に晶子桜も植えられました。堺市が育ててきた新品種の桜が「与謝野晶子」として品種認定されたものです。

 どんどん進んでいくと右手に生け垣が続きます。日本庭園です。堺市制100周年を記念して1989(平成元)年にできた「築山林泉回遊式庭園」で、伝統的日本庭園の研究・保存に国内外で尽力された中根金作氏が設計されました。四季の花や手入れの行き届いた木々と冬の梅、春の桃・つつじ・ボタン、夏のハナショウブ・アジサイ・朝顔展、秋の菊花展、紅葉などを楽しむことができます。入場料は200円、堺市内の65歳以上の方は証明書があれば無料です。

七観山展望台
七観山展望台

 日本庭園の横のトイレを過ぎると駐車場があり、右へ曲がって駐車場から横断歩道を渡り、大仙公園平成の森に進みます。大仙公園平成の森の中に大きな土盛りがあります。ここはもと七観(山)古墳のあったところです。古墳は削られてなくなりましたが、平成の森がつくられた時、もと古墳があった場所に土盛りをして七観山展望台になっています。北にあべのハルカスや堺市役所、北西には六甲の山々、西に関電の堺火力発電所、南には上石津ミサンザイ古墳が見えます。小さな古墳でも見晴らしがよいことがよくわかります。この古墳に葬られた王さまは「見える範囲が支配している範囲」と思っただろうし、この古墳が見える範囲に住む民衆は「あの古墳は我々の優秀な王さまのもの。古墳づくりに頑張ったから、この地域はうまくいくだろう」と思ったことでしょう。もとは2段積みの円墳だったので、北側の草の生えている部分が古墳の雰囲気を残しています。

 上石津ミサンザイ古墳に少し遅れて造られた七観山古墳は、上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、大正から昭和にかけて3回の発掘調査などが行われました。調査により、甲冑、刀や矢じり、斧、手斧(ちょうな)、ヤリガンナ、金銅製帯(おび)金具(かなぐ)、馬具などが見つかっています。遺体が埋葬された痕跡は見つからず、武器・武具がたくさん埋納された武器庫のようでした。出土品は京都大学にあります。発掘調査の後、この古墳は土取り工事で消滅しました。古墳の盛り土は、日本家屋の壁土にちょうど良いので、戦後多くの小さな古墳が壊されたのです。

4.上石津ミサンザイ古墳のビュースポット

上石津ミサンザイ古墳 信号を渡ると上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳のビュースポットです。上石津ミサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の中で初めて大王陵として築かれた巨大な前方後円墳です。墳丘は三段積みで、長さ365m、高さは約27.6m。日本で三番目に大きい古墳です。宮内庁管理。後円部の頂上にあると思われる埋葬施設や副葬品についてはわかっていません。墳丘には葺き石と埴輪があり、偉い人にさしかける傘のような蓋(きぬがさ)形埴輪、家形埴輪、矢を上向きに入れてリュックサックのように背負う靫(ゆぎ)形埴輪などが採集され、大仙(仁徳天皇陵)古墳よりも早い5世紀前半に造られたと考えられています。もとは二重の濠があり、その周辺にかつては10前後の陪塚があったようですが、現在残っているのは寺山南山古墳と七観音古墳だけです。

 上石津ミサンザイ古墳の後円部を一望できるビュースポットは、2017(平成29)年6月にできました。ここから見える濠は幅60mあるそうです。後円部を横からながめられる場所です。

5.寺山南山古墳

 信号に向かって右(南)側の木立ちが寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳とほぼ同時の5世紀前半に造られたと考えられています。長いほうの一辺が40m以上の二段積みの方墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚。国の史跡で、堺市が管理しています。かつては濠があり、上石津ミサンザイ古墳の外濠と一部重なっていました。濠を共有していたのです。
2016(平成28)年に発掘調査が行われ、墳丘の東側で9m以上の幅の造り出しが確認されました。そして造り出しの所から、円筒埴輪列・囲形(かこいがた)埴輪・家形埴輪が出土したことから、この場所で儀式がされていたようです。

寺山南山古墳

国の史跡で堺市が管理

長方形の方墳

5世紀前半

一辺40m以上

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

6.七観音古墳

七観音古墳
七観音古墳

 南西入り口から大仙公園に入ります。七観音(しちかんのん)古墳は、上石津ミサンザイ古墳にやや遅れて5世紀前半に造られたようです。直径32.5mの円墳で、上石津ミサンザイ古墳の陪塚。現在は、国の史跡で、堺市が管理しています。大仙公園のつつじ山として整備されています。

7.旗塚古墳とグワショウ坊古墳

 東方向に歩いて行くと、旗塚古墳が見えてきます。5世紀中頃に造られた墳丘長57.9mの二段積みの帆立貝形前方後円墳で独立した古墳です。国の史跡で、堺市が管理しています。旗塚古墳の周濠には水がほとんどありません。旗塚古墳では、灰色の粘土と褐色の土が層になって積み上げられているようすが確認されています。隣にあるグワショウ坊古墳でも古墳独特の土の積み上げ方が確認されています。

グワショウ坊古墳
グワショウ坊古墳

 グワショウ坊古墳は、5世紀後半に造られた、長いほうの軸の長さが61mの卵形をした円墳です。円墳としては百舌鳥古墳群中で二番目の大きさです。独立した古墳。国の史跡で、堺市が管理しています。墳丘の上の部分は大きく削られています。

七観音古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径32.5m)

5世紀前半

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 

旗塚古墳

国の史跡で堺市が管理

帆立貝形古墳(57.9m)

5世紀中頃

独立した古墳

 

グワショウ坊古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径61m)

5世紀後半

独立した古墳

群中2位の大きさ

8.鳶塚・原山から堺市博物館へ

 グワショウ坊古墳を過ぎて、左にまがると鳶塚と原山の2つの古墳の跡地に土盛りがつくられています。2つの古墳は、住宅建設のため昭和30年頃に消滅しましたが、1999(平成11)年度に大仙公園を拡張したとき復元されました。鳶塚古墳跡には木が植えられていて、少し離れた原山古墳跡は芝地になっています。両方とも5世紀中頃につくられた円墳で、直径20m台です。小さな説明用の陶板があります。全国的に見るとこれぐらいの大きさの円墳が多いそうです。百舌鳥古墳群には、墳丘長486mの大仙古墳から、直径20m台の小さな円墳まで、大小さまざまな古墳があることがよくわかります。

 右手の方に堺市博物館が見えてきます。入館する前に、左手にあるいたすけ古墳出土の衝角付冑形埴輪のモニュメントを見てください。堺市博物館は1980(昭和55)年、市制90周年記念に、市民の寄付もあつめて開館。堺市の歴史・文化を広く展示研究されています。講演会なども開かれています。

 これで大仙公園内の古墳めぐりは終了です。5世紀の大王の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいとされ、他ではなかなか見られません。

 この行程はおよそ一時間、大仙公園や日本庭園では四季折々の花々や木々を楽しめます。堺市緑化センターもすぐ近くです。いろいろな形と大きさの古墳を見学してそれぞれの古墳の美しさや魅力をお楽しみ下さい。

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