百舌鳥古墳群めぐり【8】中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ

百舌鳥古墳群めぐり>|【7】【8】大仙公園内の古墳をあるく

百舌鳥古墳群めぐり【8】

PDFアイコン【8】中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ(このページと同じ内容です)

中百舌鳥駅周辺~百舌鳥駅へ

樽野 美千代

1.御廟表塚古墳

御廟表塚古墳
御廟表塚古墳

 地下鉄御堂筋線・南海高野線・泉北高速鉄道の中百舌鳥駅南出口を降りて、バスターミナルを過ぎて進んでいくと西高野街道にでます。右へ入っていくと、土塀の横に駐車場があり、その右奥にこんもりとした墳丘が見えます。ここは御廟表塚古墳です。2段積みの帆立貝形前方後円墳ですが、前方部は壊され、後円部と周濠の一部が残っています。墳丘上に上ることが出来ます。

 古墳の左(東)側にある大きな門構えは谷家(筒井家)住宅で、中百舌鳥町の旧家です。江戸時代のはじめに、夕雲開(せきうんびらき)という新田村の開発の中心であったお宅です。2019年秋に登録有形文化財になりました。座敷棟(主屋=おもや)・茶室・土蔵・門長屋などからなる住宅で、門前の大きなクスの木は樹齢800~1000年と言われる巨大なもの。地域の人たちから雨乞いの霊木として信仰されているそうです。

御廟表塚古墳

堺市(後円部は径67.6m)

帆立貝形古墳(墳丘長84.8m)

5世紀後半

前方部は消滅

国史跡 堺市が管理

2.定の山古墳

定の山古墳
定の山古墳

 西高野街道に戻って右(南)方向へ進むと、国道310号線との交差点があり、信号を渡って下り坂を降りると、百舌鳥川が流れています。小さな橋を渡って今度は上り坂です。左手の方に城の山公園があり、奥の方の小山は定の山(じょうのやま)古墳です。1968(昭和43)年に土地区画整理事業の工事で前方部と後円部の裾は、削られてしまいました。定の山古墳は、足もとに気をつけて上ることができます。春には、桜が美しいです。

定の山古墳

堺市(城の山公園内)

帆立貝形古墳(墳丘長69m)

5世紀後半

周濠があった

堺市が管理

 
3.ニサンザイ古墳

ニサンザイ古墳
ニサンザイ古墳

 定の山古墳を出て左手に歩くと、「ときはま線」という交通量の多い道路にでます。信号を渡って右手(西側)に15分ぐらい歩くとニサンザイ古墳です。前方部側にある御陵山公園からも大きな墳丘が見えています。北側の堤に登ってみると、墳丘長300m超の美しいニサンザイ古墳を眺められます。全国7位の大きさで左側が後円部、右側が前方部です。このように一目で墳丘全体を眺めることのできる古墳はなかなかありません。ニサンザイ古墳は、5世紀後半、古墳づくりの技術が最高に発達した時期につくられ、前方部が発達した美しい前方後円墳です。

 後円部の方へまわると、造り出しがよく見えます。後円部の周濠では、木橋と考えられる柱の列がみつかっています。葺き石は、1段目の斜面にはほとんどなく、2段目にはかなり大きな石がまばらに使われていたそうです。葺き石の省略が始まっているのかもしれないと考えられています。周濠にいつでも水が満々とあるので、波がおこって墳丘の裾を削っているので、宮内庁がフェンスをまげて石を積み、金属製の細長い籠に海辺の石を入れて、墳丘を守ろうとしています。

 その上には、草の種子を埋め込んだ土嚢を積んであります。

 前方部沿いに南へ進むと、真ん中あたりに案内板があります。時間があれば、前方部の南西部まで行って見て下さい。こちらから見る古墳全体も美しいです。

 ニサンザイ古墳は、反正天皇が初めて埋葬された古墳として陵墓参考地になっています。

ニサンザイ古墳

陵墓参考地(宮内庁)

前方後円墳(300m)

5世紀後半

2重の周濠があった

周濠は堺市が管理

4.百舌鳥八幡宮

 周堤を降りて公園から「ときはま線」を渡り、そのまま進み百舌鳥梅町の中の細い道を通っていくと、百舌鳥八幡宮にでます。祀っているのは、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・住吉大神・春日大神です。

 社伝では、神功皇后が朝鮮半島からの帰りに、この地で幾万代までの天下太平を祈られたので、当地を万代(もず)とよぶようになったとされています。平安時代末には、石清水八幡宮の別宮となり、江戸時代には、堺奉行が祭に参加しているそうです。百舌鳥八幡宮の祭と言えば、中秋の名月のころに大小17基のふとん太鼓がくりだす月見祭(ふとん太鼓)が有名です。

 現在の社殿は、本殿が1726(享保11)年、拝殿が1830(文政13)年の建立。拝殿の右側には、大きなクスの木が生えています。樹齢(じゅれい)は700年とも800年ともされる古木です。

5.御廟山古墳

御廟山古墳
御廟山古墳

 百舌鳥八幡宮の西側に御廟山古墳があります。百舌鳥古墳群で4番目、全国で35番目の大きさの古墳です。全国に墳丘長200m以上の前方後円墳は37基ありますが、御廟山古墳は墳丘長203mです。後円部をじっくり見てから、古墳の横を歩いて行きましょう。前方部の角の堤に上って、古墳全体を見ることができます。前方後円墳が一番美しいのは、前方部の角から見る時と思われます。左側の後円部から右側の前方部まで、一目で古墳全体を見ることができます。前方部沿いに歩いて行くと案内版があり、造り出しから出土した囲い形埴輪の写真があります。前方部の右端付近まで行くと造り出しが見えます。御廟山古墳は天皇陵古墳ではありませんが、応神天皇を最初に葬った古墳という伝承があり、陵墓参考地となっています。墳丘は宮内庁、周濠は堺市が管理しています。2008年に宮内庁と堺市文化財課が同時に調査し、墳丘1段目と2段目の葺石がきちんと葺かれていたこと、1段目テラスには円筒埴輪の列があったことなどがわかりました。

御廟山古墳

百舌鳥陵墓参考地(墳丘は宮内庁)

前方後円墳(墳丘長203m)

5世紀前半

もとは二重濠があった

周濠は堺市が管理

 前方部ぞいに歩いて、赤っぽい舗装の道路をたどって善右ヱ門山古墳へ。ここは特別養護老人ホームグリーンハウスの緑地として残された古墳です。百舌鳥古墳群では5基しか残っていない方墳で、「史跡 百舌鳥古墳群」という石碑が建っています。

善右ヱ門山古墳

いたすけ古墳の陪塚

方墳(一辺28m)、史跡、個人所有

6.いたすけ古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

 右手にあるいたすけ古墳は、百舌鳥古墳群では8番目の大きさの前方後円墳です。いたすけ古墳の後円部から前方部の方に歩いて行くと、周濠の中に壊れた橋が残っています。いたすけ古墳は、1955(昭和30)年当時の所有者が池の中の住宅地として売り出しました。1945(昭和20)年に堺のまちでは5回の空襲があり、とくに7月10日未明の大空襲では、まちの中~南部がほとんど焼失、戦後の緊急・最大の課題は住宅建設でした。古墳の墳丘の盛り土は粘土と赤土が層状に積み重ねられていて、住宅の壁土に最適だそうです。古墳の所有者は、盛り土は壁土として売り、墳丘を削ってできた平らな土地には住宅を建設しようとしたのです。

 1955年秋に保存運動が起こり、広がりました。今から60年以上前のことなので、文化財とか保存運動ということばもなかったそうです。若い考古学者や市民、労働組合などが「いたすけ古墳を護れ」と立ち上がったのです。「古墳や遺跡があると、地域が発展しないのではないか」という文化財迷惑論があったりしたそうですが、各新聞が保存運動を報道し、地域の中学校などでは10円募金が行われ、古墳所有者も「買い上げてくれるのなら、建設会社でも堺市でも良い」ということで、堺市が買い上げて保存されることになり、このあと各地の文化財保存運動のモデルとなりました。堺市は古墳公園にするため墳丘の木々を伐りました。橋がかかっているときは自由に墳丘に入れたので、後円部から衝角付き冑形埴輪がみつかり、堺市の文化財保存のシンボルマークになっています。現在は墳丘にタヌキが住んでいて、時々橋の上に出てきます。前方部の南角の西百舌鳥校区地域会館の前に立つ案内版をぜひ読んでみて下さい。

いたすけ古墳

堺市が管理 国史跡

前方後円墳(墳丘長146m)

5世紀前半

周辺に陪塚が複数あった

市民運動で保存された

 阪和線の線路に沿って百舌鳥駅方面に戻りましょう。この道は交通量が多く、たくさんの自動車や自転車が通るので、十分注意して下さい。踏み切りを渡ると大仙公園です。公園内の小さな古墳を見学するのも良いし、大仙古墳まで行ってみるのも良いでしょう。

 百舌鳥古墳群には、墳丘長300m超のニサンザイ古墳から、小さな古墳まで、大小さまざまな古墳があることがよくわかります。
これは、同時期の他の地域の古墳群には見られません。5世紀の大王のお墓の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいことです。前方後円墳は、有力な王や豪族の墓で、その大きさによって実力が示されていると考えられています。いろいろな形と大きさの古墳を楽しみ、それぞれの古墳の美しさや魅力をお楽しみ下さい。