大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義
大阪歴史教育者協議会委員長
大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長
小 牧 薫
1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決-
2008年3月28日、大阪地裁民事第9部の深見裁判長は、家永三郎『太平洋戦争』、大江健三郎『沖縄ノート』の記述は真実相当性があるとして、原告の訴えをすべて退けた。それだけでなく、「日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」とまで判示した。
《資料(1) 判決要旨》
1 沖縄ノートは,座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ原告梅澤及び赤松大尉であると明示していないが,引用された文献,新聞報道等でその同定は可能であり,本件各書籍の各記載は,原告梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから,原告梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。
2 「太平洋戦争」は,太平洋戦争を評価,研究する歴史研究書であり,沖縄ノートは,日本人とは何かを見つめ,戦後民主主義を問い直した書籍であって,原告梅澤及び赤松大尉に関する本件各記述を掲載した本件各書籍は公共の利害に関する事実に係わり,もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。
3 原告らは,梅澤命令及び赤松命令説は集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であると主張するが,複数の誤記があると認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料価値を有する「鉄の暴風」,米軍の「慶良間列島作戦報告書」が援護法の適用が意識される以前から存在しており,ねつ造に関する主張には疑問があり,原告らの主張に沿う照屋昇雄の発言はその経歴等に照らし,また宮村幸延の「証言」と題する書面も同人が戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして採用できず,「母の遺したもの」によってもねつ造を認めることはできない。
4 座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが,多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること,沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており,渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遣い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか,米軍に庇護された二少年,投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと,米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること,第一,三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であり,慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され,食糧や武器の補給が困難であったこと,沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども,自決命令の伝達経路等が判然としないため,本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。
原告梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え,平成17年度までの教科書検定の対応,集団自決に関する学説の状況,判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断,家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると,原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても,その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから,本件各書籍の各発行時において,家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があったものと認めるのが相当であり,それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。
したがって,被告らによる原告梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず,それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の差し止め請求も理由がない。
5 沖縄ノートには赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが,沖縄ノートの主題等に照らして,被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。
2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか
・皇民化政策と愛国心教育
・「戦陣訓」(生きて虜囚の辱めを受けず)の徹底
・日本軍の駐留-「軍官民共生共死体制」、「合囲地境」の状況
・手榴弾の配布、米軍の攻撃、艦砲射撃、上陸後の戦闘
・日本軍の命令・強制・誘導・指示による強制集団死
(資料(2)産業組合の壕〈宮平春子さんの証言〉 (3)金城重明さんの証言)
・強制集団死(「集団自決」)のおこらなかった島々 → 宮城島の例
資料(2) 体験者の証言
産業組合の壕(5) (沖縄タイムス9月1日朝刊から編集)
「国の命令であの世に」壕内に大人たちの号泣 響く
兵事主任の宮里盛秀の家族は25日の夜、軍命を受け、マチャンの浜から集落奥の内川山の壕へと戻った。父親、盛永が専務だった農業会の壕(通称・産業組合の壕)近くに、連絡がとりやすいように作った壕に、親族約30人で入った。-
夜10時ごろだったか。どこかへ行っていた盛秀が戻り、壕奥にいた父・盛永と話すのを、盛秀の妹、宮平春子(80)が聞いた。盛秀は思い詰めた様子だった。「明日か、あさってに上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」壕内部でも照明弾で空が明るくなり、島中の山が燃えている様子が分かる。米軍上陸が目前なのは明らかだった。
盛秀の言葉に対して盛永は黙りこんでいた。「軍からだったらしょうがない」。しばらくし、納得し難いように答えた。
当時33歳の盛秀には長男英樹=当時(7)、長女郁子(6)、二女美枝子(3)、11カ月の三女ヒロ子、四人の子がおりかわいがっていた。子どもたちをそばに引き寄せた。「今までずっと育ててきたのにね、この手にかけて玉砕するのか。生まれてこなければよかったね。許してね。手をかけることは、とても苦しいことではあるが、お父さんもついているから、一緒だから、怖がらないでね」。盛秀はついに、ぼろぼろと泣きだした。「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは…」。震えながら、きつく子どもたちを抱きしめた。年長の英樹は意味も分からず、大きな瞳でまばたきするばかりだった。
厳格な長兄の盛秀が、なりふり構わず家族の面前で泣き崩れている。軍の指示を住民に伝える兵事主任という役割と、子どもたちへの愛情の間で、板挟みになって慟哭する兄。兄のつらさが春子には痛いほど分かった。壕内には、盛秀の号泣と春子やほかの大人たちの泣き声が響き続けた。
時は迫り、壕では死への準備が始まった。子どもたちに晴れ着が着せられた。田んぼの水で米を炊き、おにぎりを最期の食事にした。作りたての温かく真っ白なおにぎり。子どもたちは小さな手でおいしそうに平らげた。死のための食事は、大人は食べることができなかった。「食べられるだけ、食べさせなさい」。何も知らない子どもたちだけが、無心にほお張った。
(編集委員・謝花直美)
資料(3) 体験者・金城重明さんの証言(2007年6月8日付「沖縄タイムス」)
(1)北山(にしやま)への集結命令について
昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。
27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。
(2)軍の自決命令について
北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。
母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。
「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。
この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。
(3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について
米軍上陸1週間くらい前に兵器軍曹が役場に青年団や職員を集め、手榴弾を1人2個ずつ渡し「1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。
(4)「集団自決」の状況について
村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて「集団自決」が行われた。手榴弾は不発の物が多く手榴弾による死傷者は多くなく、これが悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟が姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。
(5)「集団自決」後の状況について
兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、玉砕したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年2人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。
(6)「集団自決」が起こった理由について
米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第1段階だった。3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなけれはならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。
これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書において、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない。
3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい
文科省は、2006年度の高校日本史教科書の検定において、沖縄戦「集団自決」に関わる日本軍の命令、強制を認めず、書き直させた。その行政処分に対する沖縄県民の対応が、冒頭の昨年9月29日に開かれた11万人集会、「教科書検定意見撤回、記述回復を求める沖縄県民大会」である(資料(4) 教科書検定による記述の書き換え、(5)県民大会での高校生の発言)。
※ 文科省による検定のねらいは?
・自由主義史観研究会・「つくる会」の三点セット(南京・慰安婦・沖縄)の削除
・「つくる会」・右翼・右翼政治家・文科省の一部による合作
・政治的圧力による教科書書きかえ → すでに、中学・高校でもっとも多く使われている教科書では、「集団自決」も「住民殺害」も記述がない → 彼らのねらいは、すべての教科書から日本軍による「住民殺害」を削除すること
・「軍隊は住民を守らない」の教訓を抹消し、軍隊にすすんで協力する国民づくりのために
資料(4) 東京書籍『日本史A 現代からの歴史』
申請図書の記述(06年4月)
沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や集団で「自決」を強いられたものもあった。
(1)沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。
〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より)
およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。わたしたち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました。
見本本の記述(07年3月)
沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、「集団自決」に追いやられたり、日本軍によってスパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。(脚注・囲み資料はそのまま)
訂正申請で認められた記述(07年12月)
沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍によって「集団自決」(2)においこまれたり(3)、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。
【側注】(1) 沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。
(2) これを「強制集団死」とよぶことがある。
(3) 敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。
〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より)
・・・・・日本軍はすでに三月二十日ごろには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の捕虜になる危険性が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。・・・・・よいよ二十八日の運命の日がやってきました。
およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。
私たち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました.【追加】 また、国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の「集団自決」に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(4)。
【側注】 (4)沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見の撤回を求める意見書が決議され、どう年9月には大規模な県民大会が開催された。
↑本文・側注で、丸つき数字は(数字)に置き換えました(JIS外のため)
資料(5) 9.29沖縄県民大会での高校生の発言
津嘉山拡大(こうだい)くん
「沖縄戦での集団自決に日本軍の強制があったという記述は、沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現である」
ある日の朝、私の目に飛び込んできたこの新聞記事。
私は“誤解”という検定意見書の言葉に目を奪われました。この記述を無くそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじいやおばあ達が嘘をついていると言いたいのでしょうか。それとも思い違いだったと言いたいのでしょうか。
私たちは戦争を知りません。ですが、一緒に住むおじいおばあ達の話を聞いたり、戦跡を巡ったりして沖縄戦について学んできました。おじいおばあ達は重い口を開き、苦しい過去を教えてくれました。死体の山を越え、誰が敵で誰が味方はわからなくなる恐ろしさ、大事な人を目の前で失う悲しさ、そして悲惨な集団自決があったことを。
なぜ沖縄戦で自ら命を絶ったり、肉親同士が命を奪い合うという残酷なことが起こったのでしょうか。住民は事前に「敵に捕まるくらいなら死を選べ」「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は乱暴され殺される」という教育や指示を受けていたと言います。さらに手榴弾が配布されました。極限状態に置かれた住民達はどう感じたでしょうか。
手榴弾を配った日本軍は明らかに自決を強制していると思います。
私たちが住んでいる読谷村には、集団自決が起こった「チビチリガマ」があります。ガマの中は、窒息死のために火をつけた布団の煙が充満し、死を求める住民が毒の入った注射器の前に列をなしました。母がわが子に手をかけたり、互いを刃物で刺しあい80人以上もの尊い命が奪われました。その中には年寄りから5歳にもならない子どもまでもがいました。」
照屋奈津実さん
集団自決や教科書検定のことは私たち高校生の話題にも上がります。「教科書から集団自決の真相が消されるなんて考えられない」「たくさんの犠牲者が実際に出てるのにどうしてそんなことをするんだろう」私たちは集団自決に軍の関与があったということは、明らかな事実だと考えています。なぜ、戦後60年以上をすぎた今になって、記述内容を変える必要があるのでしょうか。実際にガマの中にいた人たちや、肉親を失った人たちの証言を、否定できるのでしょうか。
私は将来高校で日本史を教える教師になりたいと思い勉強しています。このまま検定意見が通れば、私が歴史を教える立場になったとき、教科書の記述通り事実ではないことを教えなければ行けません。分厚い教科書のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります。二度と戦争は繰り返してはいけないという沖縄県民の強いも思いがあるのです。教科書から集団自決の本当の記述がなくなれば、次は日本軍による住民虐殺の記述まで消されてしまう心配があります。
嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子ども達に真実を伝えたいのです。」
津嘉山くん
「教科書から軍の関与を消さないでください。あの醜い戦争を美化しないでください。」
二人 「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい。」
4.政府・文科省の対応
政府・文科省は、教科書検定には、政治介入できないとして検定意見撤回を拒否(もともとが「政治介入」なのに) → 検定の最終権限は文科大臣にある
首相・文科相が「沖縄県民の気持ちは重く受けとめる」(教科書会社による訂正申請には応じる)としたが、訂正申請で責任を出版社・執筆者に押しつけ
訂正申請でも、密室検定で、調査官による強要があり、「命令」「強制」は復活せず
5.沖縄戦をどうとらえるか
(誤)1945年4月1日にはじまった。日本での唯一の地上戦。本土決戦の捨て石作戦。集団自決は殉国死。沖縄戦終結は6月23日。日本兵のなかには住民を守ろうとした者もいた。
(正) 1945年3月26日の座間味島上陸ではじまった。全住民をまきこんだ日本での最大の地上戦。「国体護持」のための捨て石。強制集団死であり住民殺害。沖縄戦終結は9月7日。軍隊は住民(国民)を守らなかった。
6.最後に
・裁判で明らかになった新証拠、資料をもとに教科書検定意見を撤回させ、記述を回復させる
・大阪高等裁判所に、直ちに控訴棄却を言い渡し、第一審判決を維持するよう要請する
・沖縄戦の真実を明らかにし、沖縄の心をすべての人のものに