百舌鳥古墳群めぐり【5】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)

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百舌鳥古墳群めぐり【5】

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大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(前半)

樽野 美千代

1.JR阪和線百舌鳥駅からスタート

 JR百舌鳥駅(東口)を降りたら、踏み切りではなく、跨線橋に上ってみましょう。北西側に、大仙(大山とも。仁徳天皇陵)古墳の稜線がみえます。途中はピンク色の建物でとぎれますが、このように見えるところは他にありません。大仙古墳の大きさが実感できます。

長塚古墳後円部
長塚古墳後円部…百舌鳥駅跨線橋から

 南西側には、長塚古墳が見えます。もとは周濠がありましたが、戦後早い時期に周濠を埋めて住宅が建ったので、全体像が見えにくくなりました。以前は長山古墳とも呼ばれたので、その名前の石碑があります。また仁徳天皇陵参拝道という石碑は、以前踏み切りの横にあったのですが、倒れてしまったのでこちらに移動して来ています。大仙古墳の近くにありますが、大きい古墳なので陪冢(ばいちょう)ではなく、独立した古墳と考えられています。

長塚古墳

前方後円墳(墳丘長106m)

百舌鳥古墳群中10位

5世紀中頃〜後半

もとは幅14mほどの周濠あり

国史跡 堺市が管理

収塚古墳
収塚古墳

 跨線橋を降りてそのまま西へすすみます。駅から少し歩くと収塚(おさめづか)古墳のある広場です。地面と墳丘のあとは茶色、濠のあとは黄緑色のタイルが敷かれています。収塚古墳は後円部しか残っていませんが、もとは前方部の短い帆立貝形古墳でした。発掘調査で前方部の端が確認されたので、茶色のタイルでもとの姿がわかるようにしてあります。大仙古墳の陪冢とされています。

収(おさめ)塚古墳

帆立貝形古墳(墳丘長57.7m)

大仙古墳・陪冢

5世紀中頃

前方部と周濠は消滅

国史跡 堺市が管理

 もず庵というお土産もの屋さんを過ぎると、大仙公園の駐車場です。大仙公園観光案内所でいろいろな地図やパンフレットなどをもらい、周濠沿いにすすむと、左側に大仙(仁徳天皇陵)古墳の250分の1の模型があります。地上からは鍵穴形の前方後円墳は見えないのでつくられたものです。大きな前方後円墳は3段積みであること、3重の周濠があること、まわりに小さな古墳(陪冢、ばいちょう、陪塚ともいう)があることがよくわかります。

2.大仙(仁徳天皇陵)古墳拝所

 仁徳天皇陵古墳とされている前方後円墳の前方部の周濠の向かい側には、参拝するための場所があります。これは文久3(1863)年に整備された拝所(はいしょ)です。江戸時代のいろいろな学者の研究によって、各天皇陵がきめられ、前方部側に拝所がつくられ、墳丘の前方部側が整備されました。これを「文久の修陵」といいます。儒学者の蒲生君平が各地の古墳をみてまわって「前方後円」という言葉をつくり出したのが200年前、拝所がつくられたのが150年前です。

 大仙(仁徳天皇陵)古墳は、墳丘長486m、日本最大の前方後円墳です。5世紀中頃に造られたと考えられています。(註1)今から約1600年前です。宮内庁では「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名しています。堺市では「仁徳天皇陵古墳」としています。わが国の前方後円墳の中で、三重の濠で囲まれているのは珍しく(註2)、古墳の周囲は2,850mの周遊路になっています。三重の濠を含めて仁徳天皇陵古墳の長さは、南北840m、東西650mあります。面積は、約46万4,000平方メートルで、甲子園球場の12個分、東京ドーム10個分になります。仁徳天皇陵古墳を5世紀の技術で造るには、大林組の試算では1日あたりピーク時で1日2000人が働いて15年8ヶ月かかり、延べ680万人が働いたとされています。

 拝所には、鳥居・玉垣・玉砂利があり、神社のような仕立てになっています。
墳丘は拝所から100mぐらい離れています。墳丘に茂っている木々は、明治の中ごろに植林されたものです。拝所から見える光景は、5世紀中頃の人たちが積み上げた山に、明治中頃の人たちが植えた木々が繁っていると言うことになります。拝所からは自然の森が見えるのではなく、昔の人たちがつくりあげた光景であることを忘れないで下さい。

大仙(仁徳天皇陵)古墳

前方後円墳(墳丘長486m)

全国最大

5世紀中頃

3重の周濠あり、陪冢あり

宮内庁管理

(註1)古墳の築造時期は、古墳に立て並べられた円筒埴輪の研究がすすんで
 わかるようになって来ました。円筒埴輪の表面の仕上げ方、突帯(とったい)
 という帯のような部分、透かし穴という○や□の空気抜きの穴の形や数など
 の研究がすすんで25年間隔ぐらいで焼かれた時期がわかります。円筒埴輪 
 は、古墳築造の最終段階で焼かれると考えられるので、古墳の築造時期が想 
 定できます。

(註2)全国に濠が3重ある古墳は8ヶ所あるようです。千葉県の大堤(おお 
 つつみ)権現塚古墳、群馬県の保渡田(ほとだ)八幡塚古墳、七輿(ななこ
 し)山古墳、埼玉県の鉄砲塚古墳、福岡県の御塚(おんつか)古墳、月岡(つ
 きのおか)古墳、東光寺剣塚古墳と大仙古墳です。

*10時から16時半までは、堺観光ボランティア協会のガイドがいます。無料の案内をお楽しみください

3.大仙(仁徳天皇陵)古墳の前方部側と西側の古墳

孫太夫山古墳
孫太夫山古墳

 大仙古墳の拝所の向かいにある木立ちは、孫太夫山古墳です。江戸時代このあたりは中筋村という村で、その村の庄屋の南孫太夫が管理しており、明治維新のときに新政府に献上したそうです。孫太夫山古墳は、大仙古墳の縦の真ん中の線(主軸線)上という特別な場所にあり、範囲確認調査で出土した円筒埴輪は、大仙古墳と同じく5世紀中頃と確認されたので、大仙古墳の陪冢であると考えられています。後円部には木が生えていますが、前方部は草だけです。これは大仙公園が作られた昭和40年代につけ足された部分です。孫太夫山古墳の調査が行われたとき、古墳時代当時の形であると確認されました。孫太夫山古墳の前方部の西側あたりから大仙古墳をながめると、大仙古墳の大きさが実感できます。孫太夫山古墳は、前方部の短い帆立貝形古墳で、墳丘長65m。

孫太夫山古墳

墳丘のほとんどは宮内庁

帆立貝形前方後円墳

5世紀中頃

墳丘長65m 陪冢

大仙古墳の主軸線上にあり

竜佐山古墳
竜佐山古墳

 西の方にすすむと憩いの広場があり、竜佐(たつさ)山古墳があります。大仙公園が整備されるとき墳丘のすそに小石が敷かれました。竜佐山古墳は、大仙古墳よりもあとに造られた、長さ61mの帆立貝形前方後円墳です。大仙古墳の陪塚の一つとされ、墳丘は宮内庁が管理しています。御陵通(北)側が橋になっているのは、濠を保存するためです。

竜佐山古墳

墳丘は宮内庁 周濠は堺市

帆立貝形前方後円墳

5世紀後半

墳丘長61m 

陪冢

 竜佐山古墳から少し西にすすむと、大仙公園の北西角の入り口です。イチョウ並木があり、正面に平和記念塔があります。これは、1945(昭和20)年の堺空襲で亡くなった方々の慰霊塔なので、上には上れません。

 大仙公園の北西には狐山古墳があります。狐山古墳は、竜佐山古墳と同じ時期、大仙古墳よりも30年ぐらいあとに造られた古墳です。直径約30mの円墳で、大仙古墳の陪塚の一つです。

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

銅亀山古墳
銅亀山古墳

 信号を北へ渡って行くと銅亀山古墳です。銅亀山古墳は、大仙古墳とほぼ同時期、5世紀中ごろに造られた古墳です。一辺の長さ26mの二段積みの方墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。百舌鳥古墳群では方墳は少なく、現在残っているのは5つだけですが、その一つです。地元では「どんがめやま」と呼ばれることもあります。            

狐山古墳

宮内庁

円墳

5世紀後半

直径30m

陪冢

 北の方に進んでいくと歌碑があります。
 仁徳天皇皇后磐之媛(いわのひめ)の歌碑

  ありつつも 君をば待たむ うちなびく 
        吾(あ)が黒髪に 霜の置くまでに
    意味:このまま いつまでも貴方の訪れを待っていましょう 
       風になびく 私の黒髪が 霜を置いたように白くなるまで

磐之媛は、仁徳天皇の皇后で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘です。民間から皇后になった最初の女性です。そのお墓(古墳)は、奈良市の平城京跡の北の佐紀古墳群にあるヒシアゲ古墳とされています。万葉仮名で歌を書かれたのは、大阪大学名誉教授で万葉学者として有名だった犬養孝氏。この近くに大仙(仁徳天皇陵)古墳の唯一の案内板があります。

 大仙古墳の三重目の濠の中の樋の谷古墳が見えます。この古墳は直径47mの円墳。大仙古墳の陪塚の一つで、宮内庁が管理しています。濠の水が流れ出す所に近いので「樋の谷」と名付けられたようです。また、濠をさらった時の盛り土という説もあり、古墳ではないかもしれません。

樋の谷古墳

直径47m

円墳か

5世紀中頃か

陪冢か

大仙古墳の第3濠内

 まっすぐ進んでいくと、初霜坂です。初霜坂は、平成元年(1989)の堺市制百周年記念事業の一環で整備されました。平成2年(1990)、当時の建設省、現在の現国土交通省の「手作り郷土(ふるさと)賞・ふるさと坂道30選」に選ばれています。欄干には三十六歌仙の一人である凡(おおし)河内躬(こうちのみ)恒(つね)の初霜をよんだ和歌が刻まれています。この歌は百人一首のひとつです。
 
 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどわせる 白菊の花 
  意味:あてずっぽうに折ってみようかな。真っ白な初霜が一面におりて
     霜なのか白菊なのか わからなくさせている 白菊の花さん

 大阪府立だいせん聴覚高等支援学校(もとは大阪府立白菊高校・衛生看護科がありました)の校門の前を右へ曲がります。右へ曲がって坂を登り、更に右へ曲がって、大仙古墳の濠沿いに歩くと樋の谷古墳がよく見えます。

 フェンス沿いに進んで左へ曲がると、丸保山古墳です。5世紀中頃に造られた長さ87mの帆立形前方後円墳です。大仙古墳の陪塚かもしれません。後円部は宮内庁が管理し、前方部と濠は堺市、古墳全体は国の史跡になっています。前方部は、低く削られています。案内板は、後円部の西側にあります。

丸保山古墳(全体が国史跡)

後円部は宮内庁

前方部と周濠は堺市

5世紀中頃

墳丘長87m(群中10位)

陪冢

「【6】大仙(仁徳天皇陵)古墳一周(後半)」に続く