百舌鳥古墳群めぐり【4】百舌鳥駅周辺の古墳

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百舌鳥古墳群めぐり【4】

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百舌鳥駅周辺の古墳

樽野 美千代

1.長塚古墳

長塚古墳
長塚古墳

 JR阪和線百舌鳥駅で降りたら、跨線橋(陸橋)に上って見て下さい。北西には大仙古墳の稜線が見え、大仙古墳の大きさが良くわかります。南西側に木立ちが見えるのが長塚古墳です。もとは周濠があったのですが、戦後早い時期に周濠を埋めて墳丘ぎりぎりまで住宅が建ったので、全体が見えにくくなりました。以前は長山古墳とも呼ばれたので、その名前の石碑があります。また仁徳天皇陵参拝道という石碑は、以前踏み切りの横にあったのですが、倒れてしまったのでこちらに移動して来ています。

長塚古墳

前方後円墳(墳丘長106m)

百舌鳥古墳群中10位

5世紀中頃~後半

もとは幅14mほどの周濠あり

国史跡 堺市が管理

2.御廟山古墳

御廟山古墳
御廟山古墳

 跨線橋を東に降りてそのまま進み、信号を渡って最初の角を右へ曲がってしばらく行くと御廟山古墳です。百舌鳥古墳群で4番目、全国で35番目の大きさの古墳です。全国に墳丘長200m以上の前方後円墳は37基ありますが、御廟山古墳は墳丘長203m、巨大古墳のひとつです。前方部の角の堤に上って、古墳全体を見ることができます。前方後円墳が一番美しいのは、前方部の角から見る時と思われます。左側の後円部から右側の前方部まで、一目で古墳全体を見ることができます。前方部沿いに歩いて行くと案内版があり、造り出しから出土した囲い形埴輪の写真があります。前方部の右端付近まで行くと造り出しが見えます。御廟山古墳は天皇陵古墳ではありませんが、応神天皇を最初に葬った古墳という伝承があり、陵墓参考地となっています。墳丘は宮内庁、周濠は堺市が管理しています。2008年に宮内庁と堺市文化財課が同時に調査し、墳丘1段目と2段目の葺石がきちんと葺かれていたこと、1段目テラスには円筒埴輪の列があったことなどがわかりました。

御廟山古墳

百舌鳥陵墓参考地(墳丘は宮内庁)

前方後円墳(墳丘長203m)

5世紀前半

もとは二重濠があった

周濠は堺市が管理

3.善右ヱ門山古墳

善右ヱ門山古墳
善右ヱ門山古墳

 前方部ぞいに歩いて、赤っぽい舗装の道路をたどって善右ヱ門山古墳へ。ここは特別養護老人ホームグリーンハウスの緑地として残された古墳です。百舌鳥古墳群では5基しか残っていない方墳で、「史跡 百舌鳥古墳群」という石碑が建っています。

 

善右ヱ門山古墳

いたすけ古墳の陪塚

方墳(一辺28m)、史跡、個人所有

4.いたすけ古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

 いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群では8番目の大きさの前方後円墳です。
いたすけ古墳の後円部から前方部の方に歩いて行くと、周濠の中に壊れた橋が残っています。いたすけ古墳は、1955(昭和30)年当時の所有者が池の中の住宅地として売り出しました。1945(昭和20)年に堺のまちでは5回の空襲があり、とくに7月10日未明の大空襲では、まちの中~南部がほとんど焼失、戦後の緊急・最大の課題は住宅建設でした。古墳の墳丘の盛り土は粘土と赤土が層状に積み重ねられていて、住宅の壁土に最適だそうです。古墳の所有者は、盛り土は壁土として売り、墳丘を削ってできた平らな土地には住宅を建設しようとしたのです。

 1955年秋に保存運動が起こり、広がりました。今から60年以上前のことなので、文化財とか保存運動ということばもなかったそうです。若い考古学者や市民、労働組合などが「いたすけ古墳を護れ」と立ち上がったのです。「古墳や遺跡があると、地域が発展しないのではないか」という文化財迷惑論があったりしたそうですが、各新聞が保存運動を報道し、地域の中学校などでは10円募金が行われ、古墳所有者も「買い上げてくれるのなら、建設会社でも堺市でも良い」ということで、堺市が買い上げて保存されることになり、このあと各地の文化財保存運動のモデルとなりました。堺市は古墳公園にするため墳丘の木々を伐りました。橋がかかっているときは自由に墳丘に入れたので、後円部から衝角付き冑形埴輪がみつかり、堺市の文化財保存のシンボルマークになっています。現在は墳丘にタヌキが住んでいて、時々橋の上に出てきます。前方部の南角の西百舌鳥校区地域会館の前に立つ案内版をぜひ読んでみて下さい。

いたすけ古墳

堺市が管理 国史跡

前方後円墳(墳丘長146m)

5世紀前半

周辺に陪塚が複数あった

市民運動で保存された

5-1.コースA=上石津ミサンザイ古墳の拝所まで行くコース

上石津ミサンザイ古墳
上石津ミサンザイ古墳

 阪和線沿いの道路に出て、南西(左)方向に進んで踏み切りを渡り、線路沿いに左手に進み、最初の角を右に曲がって行くと、上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳です。上野芝町の邸宅街を通って直進すると、黒い柵が見えてきます。これは宮内庁管理の天皇陵古墳の柵です。柵沿いに南に歩くと、小舟が見えます。宮内庁の職員が墳丘に入るためのものです。柵沿いには緑色のシートが敷かれています。除草剤を染みこませたもののようです。住宅が周濠に近いので、雑草を防ぐため以前から敷かれています。前方部の角の所に小さな公園(上野芝町マツモ公園)があります。ここから見る上石津ミサンザイ古墳は美しいです。上石津ミサンザイ古墳全体をながめられます。

上石津ミサンザイ古墳

履中天皇陵古墳

前方後円墳(墳丘長365m)

5世紀初頭までに築造

もとは二重濠があった

宮内庁管理

 泉北1号線に出て西向きに歩いて行くと拝所があります。大仙古墳の拝所とは規模が相当違いますが、拝所には鳥居・玉垣・玉砂利があることを確認しましょう。2019年3月に鳥居が取り替えられました。

 拝所を出てさらに西に進みます。周濠沿いに住宅が建っているので前方部は見えませんが、前方部の南西の角に出てきます。右手は上野芝町、左手には緑ヶ丘南町の住居表示がみられますが、古墳は石津ヶ丘にあります。古墳のあるところだけが石津ヶ丘なので、石津ヶ丘古墳と呼ばれることもあります。こちらの前方部の角からも古墳全体を見ておきましょう。古墳は、東側が高く西側の方が低い台地の西の端にあることが体感できます。

上石津ミサンザイ古墳のビュースポット
上石津ミサンザイ古墳のビュースポット

 上石津ミサンザイ古墳の西側は桜並木の公園になっています。南の方が高くて北へ歩いて行くほど低くなっていきます。けっこう長い道ですが、歩いてみると古墳の大きさと地形の変化を感じることができます。後円部の端は、塩穴通りです。後円部ぞいに歩くとビュースポットがあり、後円部を真横からながめられます。左手は高く、右手は低いことを確かめましょう。住宅の屋根の見え方が違います。木々が茂っているので、墳丘が3段積みであるのはわかりにくいのですが、周濠の水辺から大きく2段積みになっていることがわかります。ここの周濠の幅は60mぐらいあります。

七観山古墳あと(展望台)
七観山古墳あと(展望台)

 ビュースポットから北側に信号を渡ると、大仙公園平成の森に入ります。大仙公園平成の森の中に大きな土盛りがあります。ここはもと七観(山)古墳のあったところです。古墳は削られてなくなりましたが、平成の森がつくられた時、もと古墳があった場所に土盛りをして展望台になっています。北にあべのハルカスや堺市役所、北西には六甲の山々、西に関電の堺火力発電所、南には上石津ミサンザイ古墳が見えます。小さな古墳でも見晴らしがよいことがよくわかります。

 もとは2段積みの円墳だったので、北側の草の生えている部分が古墳の雰囲気を残しています。七観山古墳は、上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、大正から昭和にかけて3回の発掘調査などが行われました。調査により、甲冑、刀や矢じり、斧、手斧(ちょうな)、ヤリガンナ、金銅製帯金具(おびかなぐ)、馬具などが見つかっています。武器・武具がたくさん埋納された武器庫のようでした。出土品は京都大学にあります。発掘調査の後、この古墳は土取り工事で消滅しました。古墳の盛り土は、日本家屋の壁土にちょうど良いので、戦後多くの小さな古墳が壊されたのです。

寺山南山古墳(案内板のある北側から)
寺山南山古墳(案内板のある北側から)

 横断歩道を渡って大仙公園に入ります。右手の木立ちは寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚で、百舌鳥古墳群には5基しかない方墳です。長方形だったそうで、寺山南山古墳の周濠と上石津ミサンザイ古墳の2重目の周濠は共有、同じ周濠を2つの古墳が使っていたようです。この古墳には以前カイロプラテックの治療院があり、墳丘の2段目は削られています。範囲確認調査が行われたとき、南側に造出しがあったことがわかりました。

寺山南山古墳

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

方墳(44.7m×39.2m)

5-2.コースB=上石津ミサンザイ古墳の後円部のビュースポットまで、ショートカットで行くコース

コースB 東上野芝町1号墳
コースB 東上野芝町1号墳

 いたすけ古墳から阪和線沿いの道路に出て、南西(左)方向に進んで踏み切りを渡り、右手に行きます。ガレージの横に小さな土盛りがあります。東上野芝町1号墳です。

 いたすけ古墳の陪塚と考えられ、円墳だったようですが、線路や道路で相当削られています。

銭塚古墳
銭塚古墳

 右手の生け垣は大阪府立堺支援学校です。この学校の敷地の中(サッカーコートの横)には銭塚古墳があります。後円部は2段目が削られて物置がありましたが、今はなくなっています。

 

 

東上野芝町1号墳

いたすけ古墳の陪塚かも

円墳(大きさは不明)

銭塚古墳

大阪府の管理、国史跡

帆立貝形古墳(墳丘長72m)

寺山南古墳
寺山南古墳(駐車場の中・右側から
左手奥は上石津ミサンザイ古墳)

 東上野芝町1号墳の北側の道を歩いて住宅街を抜けていくと、駐車場があります。大仙公園の新しい駐車場です。ここを抜けていくと左手に見えてくる木立ちが寺山南山古墳です。上石津ミサンザイ古墳と同じ頃、5世紀前半に造られたと考えられています。長いほうの一辺が40m以上の二段積みの方墳です。上石津ミサンザイ古墳の陪塚。国の史跡で、堺市が管理しています。かつては濠があり、上石津ミサンザイ古墳の外濠と一部重なっていました。濠を共有していたのです。
2016(平成28)年に発掘調査が行われ、墳丘の東側で9m以上の幅の造り出しが確認されました。そして造り出しの所から、円筒埴輪列・囲形(かこいがた)埴輪・家形埴輪が出土したことから、この場所で儀式がされていたようです。

寺山南山古墳

国の史跡で堺市が管理

長方形の方墳

5世紀前半

一辺40m以上

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 寺山南山古墳からフェンス沿いに左手に歩き、信号を2回渡ると上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳のビュースポットです。後円部を横からながめることができます。ビュースポットの案内は4頁をご覧下さい。

 南西入り口から大仙公園に入ります。七観音(しちかんのん)古墳は、5世紀前半に造られたようです。直径32.5mの円墳で、上石津ミサンザイ古墳の陪塚。現在は、国の史跡で、堺市が管理しています。大仙公園のつつじ山として整備されています。

 東方向に歩いて行くと、旗塚古墳が見えてきます。5世紀中頃に造られた墳丘長57.9mの二段積みの帆立貝形前方後円墳で独立した古墳です。国の史跡で、堺市が管理しています。旗塚古墳の周濠には水がほとんどありません。旗塚古墳では、灰色の粘土と褐色の土が層になって積み上げられているようすが確認されています。隣にあるグワショウ坊古墳でもこの古墳独特の土の積み上げ方が確認されています。

 グワショウ坊古墳は、5世紀後半に造られた、長いほうの軸の長さが61mの卵形をした円墳です。円墳としては百舌鳥古墳群中で二番目の大きさです。独立した古墳。国の史跡で、堺市が管理しています。墳丘の上の部分は大きく削られています。

七観音古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径32.5m)

5世紀前半

上石津ミサンザイ古墳の陪塚

 

旗塚古墳

国の史跡で堺市が管理

帆立貝形古墳(57.9m)

5世紀中頃

独立した古墳

 

グワショウ坊古墳

国の史跡で堺市が管理

円墳(直径61m)

5世紀後半

独立した古墳

群中2位の大きさ

 寺山南山・七観音・旗塚・グワショウ坊の4つの古墳は、他の小さな古墳とあわせて2014(平成26)年に史跡百舌鳥古墳群として史跡となりました。共通の史跡の石碑があります。

 グワショウ坊古墳を過ぎて、左にまがると鳶塚と原山の2つの古墳の跡地に墳丘のような土盛りがつくられています。住宅建設のため昭和30年頃に消滅しましたが、大仙公園を拡張したとき(1999年=平成11年度)、復元されました。鳶塚古墳跡には木が植えられていて、少し離れた原山古墳跡は芝地になっています。両方とも5世紀中頃につくられた円墳で、直径20m台です。小さな説明用の陶板があります。全国的に見るとこれぐらいの大きさの円墳が多いそうです。

 百舌鳥古墳群には、上石津ミサンザイ古墳など巨大な前方後円墳からいろいろな大きさと形の古墳が揃っていることを実感していただけたと思います。これは、同時期の他の地域の古墳群には見られません。5世紀の大王の古墳が残っていること、大中小さまざまな古墳が当時の支配者のようすを表していることは、世界文化遺産にふさわしいことです。前方後円墳は、有力な王や豪族の墓で、その大きさによって実力が示されていると考えられています。

 左手の方に堺市博物館が見えてきます。入館する前に、左手にあるいたすけ古墳出土の衝角付冑形埴輪のモニュメントを見てください。堺市博物館は1980(昭和55)年、市制90周年記念に、市民の寄付もあつめて開館。堺市の歴史・文化を広く展示研究されています。講演会なども開かれます。百舌鳥古墳群の古墳からの出土品や須恵器など、多くの展示品を楽しむことができます。

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