百舌鳥古墳群めぐり【2】古墳入門

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百舌鳥古墳群めぐり【2】

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古墳入門

樽野 美千代

1.古墳とは?

 古墳というのは、土を高く盛り上げて作った支配者のお墓です。3世紀中頃から7世紀にかけてつくられました。このうち前方後円墳がつくられた時代(3世紀中頃から6世紀)を古墳時代と言います。7世紀は飛鳥時代で、支配者の墓は、方墳や八角墳に変わります。

 古墳には、前方後円墳(前方部の短い帆立貝形古墳を含む)、円墳、方墳などがあります。北海道・青森県・秋田県・沖縄県以外の全国43都府県に約16万基の古墳がありますが、一番数が多いのは、直径20mぐらいの大きさの円墳です。前方後円墳は全国に4784基あり、両方とも四角い前方後方墳が424基あります。(註1)古墳全体の3%しかない前方後円墳や前方後方墳は、当時の王さま(全国=関東地方から南九州まで=を支配する大王や各地方の王=豪族)の墓と考えられます。

 古墳時代は4つの時期にわけられます。3世紀中頃、奈良県の南東部にはじめての大きな前方後円墳=箸墓古墳(墳丘長280m)がつくられ、そのあと奈良盆地の南部、東部から西部、北部につくられました(古墳時代前期)。4世紀末には瀬戸内海に面した大阪につくられるようになり、巨大化します。瀬戸内海を船でやってくる朝鮮半島や九州・中国四国地方の人たちに、大王や近畿各地の王たちの力を見せつけるためのようです(古墳時代中期)。6世紀になると大王の古墳も小型化し、各地に村の支配層の人たちの小さい古墳がつくられるようになります。各地で○○百穴や○○千塚と呼ばれる小さい古墳が多数つくられます(古墳時代後期)。7世紀になると、大王の墓は方墳や八角墳になります(飛鳥時代)。

 古墳群は全国に1000以上ありますが、後期の群集墳が多くて百舌鳥古墳群のような中期の古墳群は、古墳群全体の12%だけです。中期の古墳群の代表的なものは、大阪府の古市、百舌鳥古墳群のほか、愛知県の味美(あじよし)古墳群、奈良県の佐紀古墳群、宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群などです。(註2)

 現在天皇陵になっている古墳は、ほとんど江戸時代の学者の研究によるものです。古墳時代から1300年以上経過した江戸時代中期以降には、どの前方後円墳がどの天皇のお墓かがよくわからなくなっていました。また古墳は相当荒れていたようです。今の天皇陵古墳などに生えている木々は明治の中ごろ植林されたものです。江戸時代には古墳は「はげ山」で、今よりも木々は少なく、笹などが生えていたようです。

 200年前の19世紀の初め、栃木県の宇都宮藩出身の蒲生君平(がもうくんぺい)は、前方後円墳を調べてまわり、円と四角が組み合わされた形であることに気づき、中国の宮車(柩車=柩を運ぶ車。お雛様の飾りの牛車のような車)がもとになっているのではないかと考えました。そして各天皇のお墓はどの古墳か決めて『山陵志』という本にまとめました。のちに古墳時代に車はなかったことがわかり、現在蒲生君平の説は成立しませんが、前方後円墳という名前ができたのは、この蒲生君平の山陵探索が始まりです。(註3) 

 さらに幕末に宇都宮藩が「文久の修陵」(1863~65)をはじめ、天皇陵とされた前方後円墳の前方部側に拝所をつくります。この時にどの古墳がどの天皇陵か決められました。前方部を正面とするのは、ここからです。この「文久の修陵」の大きな目的は、神武天皇陵の決定で、総費用227,568両のうち15,062両以上を使っています。大仙(仁徳天皇陵)古墳などの拝所(はいしょ)は500両で、これが平均的な数字です。もうひとつの目的は、鎌倉時代の四条天皇から江戸時代後期の仁孝天皇まで14代の天皇陵のある京都の泉涌寺(せんにゅうじ)の整備です。

 宮内庁が管理している古墳は立ち入り禁止で、発掘調査もできていません。しかし周辺の道路やガス・水道などの工事の時に埴輪のかけらが出てきて、古墳がつくられた時期がわかることがあります。円筒埴輪(大きな植木鉢のような円筒形の埴輪)が各地で見つかっていて、考古学の専門家(各市町村の発掘調査の担当者など)が見ると、その仕上げ方、焼き方などから時期がわかるようになって来ています。古墳の築造順がわかるようになってきたのです。

 戦前は京都大学にしか考古学研究室がありませんでしたが、戦後近畿地方で言えば関西大学、同志社大学、立命館大学、奈良大学、大阪大学、大阪市立大学などにできました。1970年代から各都道府県や市町村に文化財関係の部署ができ、考古学が職業になるようになったからです。古墳の研究が本格的に自由にできるようになったのは、戦後になってからです。1952年(昭和27年)に関西大学の末永雅雄氏が朝日新聞社のセスナ機に乗って撮影された『空から見た古墳』が発行され、初めて鍵穴形の前方後円墳を見て人たちは、驚いたそうです。筆者は、古墳は横からながめるものだと思っています。古墳をつくった古墳時代の人たちと同じように、横から古墳を見上げることをおすすめします。

(註1)古墳の総数 159,636基(現存 137,362+消滅 18,218)

順位

都府県名

古墳数(現存+消滅)

最大前方後円墳(墳丘長m)

兵庫県

18,851  (17,647+1,204)

五色(ごしき)塚古墳(194)

鳥取県

13,486  (12,546+940)

北山古墳(110)

京都府

13,016  (11,556+1,460)

網野銚子塚古墳(198)

千葉県

12,765  (10,494+2,271)

内裏(だいり)塚古墳(144)

岡山県

11,810  (11,038+772)

造(つくり)山古墳(350)

広島県

11,311  (10,177+1,134)

三ツ城(じょう)古墳 (92)

福岡県

10,754  (7,909+2,811)

岩戸山古墳(135)

奈良県

 9,700  (8,423+1,277)

(五条野)丸山古墳(310)

三重県

 7,025  (5,981+1,044)

御墓(みはか)山古墳 (188)

10

岐阜県

 5,140  (4,041+1,128)

昼飯(ひるい)大塚古墳(約150)

4年ごとに調査している文化庁の数字による最新の2016年(平成28)の数字

前方後円墳の総数  4,784基      前方後方墳数 424 基

順位

県名

前方後円墳数※

最大前方後円墳

千葉県

693(665+28)

内裏(だいり)塚古墳(144)

茨城県

468(452+16)

水戸愛宕山古墳(136.5)

群馬県

393(362+29+2)

太田天神山古墳(210)

奈良県

326(306+11+9)

(五条野)丸山古墳(310)

福岡県

257(252+5)

岩戸山古墳(135)

鳥取県

248(240+8)

北山古墳(110)

栃木県

238(220+18)

吾妻古墳(117)

大阪府

202(191+9+2)

大山古墳(486)

岡山県

184(159+25)

造(つくり)山古墳(350)

10

宮崎県

165 (165)

女狭穂(めさほ)塚古墳(176)

※前方後円墳数には、前方後方墳数をふくむ。
(前方後円墳数+前方後方墳数+不明ほか)

 前方後円墳データベース(全国版)による。これは、2007~2009年奈良女子大学の「古代文化地域学実習」で作成されたものをもとに、それ以降の研究の成果として公開されています。資料のもとは、近藤義郎編『前方後円墳集成』の東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州・補遺編(1991~1992、2000)および奈良県立橿原考古学研究所編『大和国前方後円墳集成』ほかによります。全国的に同一基準で前方後円墳をまとめたものは、これだけと思われます。

(註2)全国の古墳群

時期

前期

中期

後期

終末期

その他

時期不明

世紀

4世紀

5世紀

6世紀

7世紀

 

 

古墳群数

 59

125

429

 48

205

155

  その他とは、前期~中期、中期~後期、中期~終末期など
  古墳群数の合計は1021
  大塚初重ほか編『日本古墳大辞典』5版 2002年 東京堂出版
  および 同ほか編『続日本古墳大辞典』2002年 同 より作成

前期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

主要古墳

奈良県

大和(おおやまと)・萱生(かよう)

・柳本古墳群

オオヤマト古墳群と総称

西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳など

大阪府

玉手山古墳群

10基

1号墳、10号墳

  長大な竪穴式石室、円筒埴輪創出、三角縁神獣鏡の埋納

奈良県

佐紀古墳群

前期後半~

  中期前半

佐紀陵山古墳、

ヒシアゲ古墳など

  家形・盾形・蓋(きぬがさ)形埴輪、石製模造品、石棺

中期の古墳群

所在地

古墳群

特徴・主要古墳

大阪府

古市古墳群・百舌鳥古墳群

長持形石棺の普及、人物埴輪の

創出、鉄製武器や農工具を副葬

愛知県

味美古墳群

二子山古墳、白山神社古墳など

宮崎県

西都原(さいとばる)古墳群

九州最大の男狭穂(おさほ)塚古墳、女狭穂(めさほ)塚古墳

など。前方後円墳31、円墳279

 

後期の古墳群

所在地

古墳群

特徴

大阪府

一須賀古墳群

総数200基、10~20mの円墳

埼玉県

吉見百穴(よしみひゃくあな)

219基を確認、岩山の表面から数mの小穴を掘った集団墳墓

奈良県

新沢千塚古墳群

総数600基

和歌山県

岩橋(いわせ)千塚古墳群 

丘陵上に400基が残る、ほとんどが円墳

横穴式石室、家形石棺が普及。奈良盆地南部(飛鳥)に大王墓(方墳、八角墳)

表2~4は、若狭徹『古墳時代ガイドブック』2013年 新泉社 
および各市のホームページより作成

(註3)蒲生君平 1768~1813  栃木県宇都宮の人。油屋の福田家の四男   
に生まれましたが、蒲生氏郷の子孫であると知り、学問で身を立てようと決心。儒学を学び、22歳で江戸へ向かいました。1796~97年と1799~1800年の2回近畿・四国の古墳調査を行いました。1808年『山陵志』を出版。1813年赤痢のため46歳で江戸で逝去。宇都宮市には1912(大正元)年、蒲生君平99年祭のとき創建された蒲生神社があります。

(註4)古墳の盛り土部分を墳丘(ふんきゅう)と言います。古墳の大きさは、
 円墳は直径、方墳は一辺の長さ、前方後円墳(帆立貝形古墳をふくむ)は後円部の端から前方部の端までの長さ(墳丘長)で表します。

*古墳めぐりをされる前には、【1】古墳めぐりをする前にもぜひお読みください。

次は「【3】堺東駅周辺から三国ケ丘駅周辺へ