百舌鳥古墳群めぐり【1】古墳めぐりをする前に

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百舌鳥古墳群めぐり【1】

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古墳めぐりをする前に

樽野 美千代

1.はじめに

 最初に古墳関係の用語をご紹介しましょう。

 古墳の盛り土部分は墳丘(ふんきゅう)と言います。長さ150m前後あるような大きな前方後円墳は3段積み、それ以下の場合は2段積みであることが多いです。

 古墳のまわりの濠は周濠(しゅうごう)と言います。奈良県や大阪府の古墳では水がためられている場合が多いのですが、古墳がつくられたころから水がたまっていたかどうかは、わかりません。江戸時代には、ため池として周辺の田畑の灌漑用水として利用されていたようです。九州や関東地方の前方後円墳にも濠がありますが、空堀(からぼり)で、深さも数センチしかありません。

 古墳にはいろいろな形があります。上から見て、丸いのは円墳(えんぷん)、四角いのは方墳(ほうふん)、丸と四角があわさった前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方部の短い帆立貝形古墳があります。

 前方後円墳ということばは、江戸時代の終わり1801年に『山陵志』という本を出版した蒲生君平が言い始めました。宇都宮藩出身の蒲生君平は、京都・大阪・奈良などの前方後円墳を見てまわり、どの古墳がどの天皇のお墓(陵)か決めようとし、『山陵志』にまとめました。蒲生君平は「初代の神武天皇から孝元天皇までは、山について塚を築いている。垂仁天皇から敏達天皇までの23陵は、山に陵を築き、大小・高低・長短も様々ある。それは、宮車のような形で、前方後円とし、3段に築いており、周囲に 溝をめぐらす」と書いています。この部分が前方後円墳という言葉のもとになったところです。さらに「前の方は真っ直ぐに、後ろの方は円くなり、両方の接続する所はくびれており、俗に車塚といわれている」と説明しています。

 このほか、2つの四角が組み合わされた前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)などいろいろな形の古墳があります。また古墳は、○基と数えます。

2.百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群とは?

 一定の範囲に同じような時期につくられた数基以上の古墳があることを古墳群といいます(註1)。百舌鳥古墳群は、堺市の北西部の堺区・北区・西区などの4km四方に広がる古墳群です。もとは100基以上あったとされていますが、1929(昭和4)年の阪和線の敷設、戦後の住宅建設などのために小さな古墳がたくさん消滅し、現在は44基が残っています。百舌鳥古墳群は、古墳時代中期(4世紀末から5世紀)の代表的な古墳群です。東に10km離れた藤井寺市と羽曳野市には古市古墳群があり、こちらは、もとは130基以上、現在は45基が残っています。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の古墳のうち百舌鳥では23基、古市では26基、合計49基が世界遺産に登録されました。百舌鳥・古市古墳群の合計89基の中から5世紀につくられた保存状態の良い古墳が選ばれています。

(註1)「古墳群」とは、『日本考古学小辞典』(江坂輝彌・芹沢長介・坂詰秀一編ニューサイエンス社1983年)によれば「時期が異なっていても地理的に集合している状態のもの」で「数も数基から100基を超えるまでさまざまで、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などを交える場合が多い。群内の古墳に時間差をみるのが普通」とある。

 古墳は支配者の墓です。5世紀の倭国(関東地方〜南九州地方)の王である大王は、大規模(墳丘長200m以上)な前方後円墳を築き、各地の王(豪族)は中規模(同100m以上)の古墳をつくりました。100m以下の小規模な古墳は家臣や縁者のものか、亡くなった王の武器や宝物をおさめたものと考えられます。ほかの古墳と関係のない独立した古墳もあります。百舌鳥・古市古墳群には、大中小の規模の古墳が揃っています。また、古墳の形は、前方後円墳、前方部の短い帆立貝形古墳、円墳、方墳の4種類があります。これらは、5世紀の倭国の大王を頂点とする支配者の身分秩序を示しているとも言えます。5世紀は、支配者の中に3種類(段階)の人たちが出てきたと言って良いでしょう。

 円筒埴輪の研究がすすんで、各古墳の築造時期がわかるようになって来ました。宮内庁の管理している古墳は、発掘調査はもちろん立ち入りも認められませんが、古墳周辺の道路やガス・水道工事などで埴輪が発見されることがあります。1970年代からの研究の積み重ねでいろいろなことがわかってきました。  

 百舌鳥・古市古墳群の各古墳の築造順は次の表1のようになります。

ニサンザイ古墳
泉北高速鉄道の車内から見えるニサンザイ古墳

 とくに大きな前方後円墳(大王墓)は、古市(津堂城山・仲津山)→百舌鳥(上石津ミサンザイ→古市(誉田御廟山)→百舌鳥(大山・大仙)→古市(市野山)→百舌鳥(ニサンザイ)と交互に築造されていることがわかります。百舌鳥古墳群では、ニサンザイ古墳のあと巨大な前方後円墳はつくられなくなり、古市ではやや小規模ながら6世紀以降もつくられます。百舌鳥古墳群ではおよそ100年間、古市古墳群では150年間、大中小さまざまな古墳が次々とつくられていったのです。5世紀、原生林や原野を切り開いて、3段積みの墳丘に葺き石を埋めこむなど、次々と古墳がつくられたのです。ずいぶんにぎやかな地域だったことでしょう。

表1 百舌鳥・古市古墳群の前方後円墳 編年表(築造順のまとめ)

時期

百舌鳥古墳群の古墳

古市古墳群の古墳

4世紀後半

 

津堂城山古墳 古室山古墳

4世紀末

乳岡古墳

仲津山(仲姫命陵)古墳

5世紀初頭

上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳

 

5世紀前半

いたすけ古墳 御廟山古墳

誉田御廟山(応神天皇陵)古墳

5世紀中頃

大仙(仁徳天皇陵)古墳

田出井山(反正天皇陵)古墳

 

5世紀中頃〜後半

 

市野山(允恭天皇陵)古墳

5世紀後半

ニサンザイ古墳

岡ミサンザイ(仲哀天皇陵)古墳、前の山(日本武尊白鳥陵)古墳

5世紀末〜6世紀初頭

 

峯ヶ塚古墳

※小規模な古墳は省いた。百舌鳥古墳群の各古墳は、堺市文化財課『堺の文化財 百舌鳥古墳群 第8版』2019年より。古市古墳群は『古市古墳群を歩こう』
古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議(藤井寺市+羽曳野市)2011年より。
また久世仁士『世界遺産 百舌鳥・古市古墳群をあるく』2019年も参考にした。

 百舌鳥・古市古墳群は、大和政権が瀬戸内海を通って船でやってくる朝鮮半島や九州・中国・四国地方の勢力に対して、大王が自らの権力を示すために造ったものです。百舌鳥古墳群は、海=大阪湾を意識してつくられ、古市古墳群は、当時政権の中心だった大和への道や川からのながめを意識してつくられたようです。

 6世紀になると、大王墓は、今の高槻市あたりにもつくられ、規模が小さくなります。また、関東地方などで100m級の前方後円墳がたくさんつくられ、動物や人物の形の埴輪が立て並べられます。百舌鳥・古市古墳群に多い形象埴輪は、家・盾・蓋(きぬがさ)などですが、百舌鳥・古市古墳群の築造が終わった頃から、さまざまな動物や人物の形の埴輪がつくられはじめます。前方後円墳は支配者の墓であると認められるようになり規模は小さくなります。

3.百舌鳥古墳群の構成と特徴

百舌鳥古墳群を古墳の規模別に分類すると、表4のようになります。墳丘長
200mを超える巨大古墳は、全国に37基しかありません。奈良県に19、大阪に15、岡山に2、群馬に1という内訳です。全国の総数37基のうち11基が百舌鳥・古市古墳群にあります。全国の巨大古墳の30%が集中しているのです。

表4 古墳の規模別

 

大規模

中規模

小規模

総数

百舌鳥

  4

  5

 35

 44

古市

  7 

  8 

 30

 45

 

200m超

100m超

100m以下

 

 表2を見直してから、百舌鳥・古市古墳群の古墳のうち、宮内庁が管理している古墳をまとめた表5を見てください。百舌鳥古墳群は総数44基、そのうち23基が宮内庁管理で立ち入ることはできません。古市古墳群では、45基のうち25基です。
 各都府県の最大古墳は、都府県や市町村の文化財関係の部署が管理している国史跡で、公園化しているところが多いです。同じ古墳でも、どこが管理しているかで、そのようすはずいぶん違います。

表5 陵墓関係(宮内庁管理のうち)

 

陵墓

陵墓参考地

陪塚・陪冢

総数

百舌鳥

 3

  2

  18☆

 23

古市

 9

  2※

  14

 25

 

天皇陵・皇后陵

※白鳥陵古墳を含む

☆丸保山古墳を含む

 

  表6と7で、全体としてはよく似ている百舌鳥・古市古墳群のそれぞれの特徴をまとめました。百舌鳥古墳群は円墳が多く、古市古墳群は方墳が多いです。その理由は、まだよくわかっていません。1970年代から本格的な研究が始められ、発掘調査の成果も増えてきているところなので、目的、理由や原因などは、わからないことの方が多いのです。5世紀は、文字を読んだり、書いたりできる人はほとんどいない時代なので、記録が残っていません。「なぜ前方後円形なのか」「正面はどちらなのか」「被葬者はだれか」という謎に、考古学の研究成果から答えるのは難しいです。

表6 形別

 

前方後円墳

円墳

方墳

不明

総数

百舌鳥

   22

17

 5

 0

 44

 もと

   37

58

 9

 0

104

古市

   21

 6

17

 1

 45

 もと

   31

38

52

 9

130

     前方後円墳のなかには、帆立貝形古墳を含む

表7 百舌鳥古墳群と古市古墳群の違い    

 

古墳の形

前期古墳

 

周濠

百舌鳥

円墳が多い

近くに前期古墳なし

 

広くて浅い

古市

方墳が多い

近くに前期古墳あり

玉手山古墳群

狭くて深い

4.世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群

 2019年7月、百舌鳥・古市古墳群はユネスコの専門機関ICOMOSで満場一致で世界遺産への登録がみとめられました。現地に視察に来られたICOMOSの委員の方たちは、市民運動で守られたいたすけ古墳のことや、5世紀につくられた古墳が1600年後の今もそのまま市街地の中に残っていることを高く評価されました。議長が「反対意見はありませんか」と確認されるぐらい、満場一致の賛成でした。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産の暫定一覧表に記載されたのは、2010年のことです。大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市が「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」という組織をつくって推薦書原案を国に提出、2017年に日本の推薦資産候補になり、2018年正式の推薦書がユネスコに提出され、ICOMOSの審査・現地調査のあと、2019年の世界遺産委員会で登録が決定しました。堺市では2008年から発掘調査をすすめて、古墳の範囲を確認し、基礎的な資料を集めて文化財保護法などで保護できるように史跡指定をしていきました。10年以上の準備作業があり、やっと世界遺産になりました。   

 古墳は、小山のように土を積み上げてつくった遺跡なので、いつでも見学できます。「すぐそこに実物がある」遺跡です。2018年からは、各古墳の案内板も設置されはじめ、わかりやすくなりました。

百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳
百舌鳥駅跨線橋から見える大仙古墳

 多くの観光客の方は、大仙古墳の拝所に来て写真を撮って帰られますが、大仙古墳では、1600年前の5世紀の人たちが積んだ山に、今から120〜130年前の明治中頃の人たちが植林した木々が茂っているので、ただの森ではありません。百舌鳥古墳群として世界遺産になったのですから、半日かけて、いくつかの古墳めぐりをすると、いろいろな古墳を見学できて、それぞれ個性あふれる古墳を楽しめます。

 大きくて有名な大仙古墳だけでなく、中小の古墳も世界遺産になり、これ以上破壊され、消滅することはなくなりました。世界遺産として残されるようになったのです。いろいろな理由で世界遺産にならなかった古墳もありますが、古墳を見学すれば、1600年間保存され、残ってきた古墳の値打ちや魅力が理解できるでしょう。

 テレビや新聞、雑誌が古墳を扱うことも増えました。取材不足や間違いも多く、天皇陵古墳を、天皇の肖像画つきであつかうというような書籍もだされていますが、考古学の専門家が書かれているしっかりした内容の本も増えました。

 古墳の呼称について、世界遺産では「仁徳天皇陵古墳」と呼ばれる古墳は、宮内庁は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」としています。遺跡名は「大山(仙)古墳」です。ひとつの古墳に3つも呼び名があるのです。表2のように古墳の管理者にはいろいろあります。世界遺産になるには、宮内庁の理解・協力が不可欠なので、大阪府・堺市・藤井寺市・羽曳野市は、○○天皇陵古墳という呼び名で調整したようです。

 ここでは、大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、田出井山古墳(反正天皇陵古墳)の呼び名で統一しています。

  表2 所管別

 

宮内庁

大阪府

堺市

民間

総数

百舌鳥

 23☆

  1

 15

 5

 44

古市

 25

  不明

 不明

 不明

 45

  ☆丸保山古墳(後円部は宮内庁、前方部と周濠は堺市)を含む

 世界遺産になったときの各新聞の呼称は、表3の通りです。ある新聞社の記者の方は「今まで仁徳天皇陵古墳とは呼んだことがないので、呼び方は校閲部と協議してきめました。」と言われていました。

表3 2019年5月14日の各紙朝刊(最終版)   日本経済新聞は夕刊

新聞名

一面 大見出し

一面 中見出し

読売新聞

仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群49基

朝日新聞

伝仁徳陵 世界遺産へ

百舌鳥・古市古墳群

産経新聞

百舌鳥・古市古墳群 世界遺産へ

ユネスコ機関勧告 大阪で初  

毎日新聞

「百舌鳥・古市」世界遺産へ

大山古墳など49基

イコモス「登録が適当」

日本経済新聞

「仁徳陵」世界遺産へ

守った景観 世界の宝に 

 1970年代に同志社大学の森浩一氏が人名を古墳名にするのはやめて、他の時代の遺跡と同じように地名で呼ぼうと提起され、40年間大山古墳と呼んできましたが、世界遺産になると仁徳天皇陵古墳になります。堺市などが発行している地図やパンフレットも仁徳天皇陵古墳です。一般的にはそちらの方がよく知られているのですが、なかなか難しい問題です。一般的な呼び名では遺跡名として問題があるし、遺跡名では一般的に通用しません。せめて両方の名前を併記すべきだと思います。仁徳天皇陵と呼ばれている古墳という意味で「伝仁徳天皇陵」と呼ばれることもあります。

 天皇陵以外の小さな古墳の名前は、1971年ごろ堺市に文化財担当の職員の方が採用されて、まず市内の遺跡や古墳の所在地の一覧表をつくられ、古墳のまわりに住む方々に「この古墳を何とよんでいますか」とたずねて古墳名を決めたそうです。

 テレビ番組やニュースでは、大仙古墳の航空写真から始まることが多く、「上からながめたい」という希望も多いです。5世紀の人たちが積んだ山なので、墳丘長486mと長いのですが、後円部頂は35m、前方部頂は34mと低いです。

 明治の中頃に植林された木々が大きく育って、樹齢120〜130年になり、墳丘の頂上付近は、標高55mぐらいになります。飛行機、セスナ機、ヘリコプターなどに乗って上空300m以上に上がらないと鍵穴形には見えません。あべのハルカスが横にあれば、鍵穴形に見えますが、百舌鳥古墳群周辺では高さ制限15mという堺市の条例ができています。上から見下ろして古墳群を見るには、相当の知識が必要です。古墳時代のように横から見上げるのが良いと思います。

 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産になって、古墳の重要性が認められ、古墳の保存があたりまえのことになりました。百舌鳥古墳群で1987年に消滅した一本松古墳は、民有地で代替わりのときに売られて住宅が建ちました。古墳を個人的に持っていると、固定資産税は免除される場合もありますが、土地としての相続税がかかります。最近も個人の住宅内にあった古墳のまわりが売られて、古墳は残るものの墳丘に生えていた樹木は伐られ、芝が植えられるということがありました。

 古墳は、地域の人々によって守られてきました。もと100以上あった百舌鳥古墳群の古墳は、44基に減ってしまいましたが、それぞれの古墳の個性をいかして、誰でも、いつでも古墳を学び、楽しめるようになって欲しいです。まずは、半日かけて百舌鳥古墳群をいろいろなルートで歩いて見て下さい。レンタサイクルも良いのですが、一日でたくさんの古墳を見学すると、印象がごちゃごちゃになり、よくわからなくなります。古墳の近くの道は細くてわかりにくいことがあるので、交通事故に注意して下さい。ひとりで古墳を見てまわるときは、写真を撮って印象をメモする、お仲間と古墳の印象を話し合いながら、徒歩で10基ぐらいまでの古墳めぐりをおすすめします。

 古墳めぐりは、まち歩きなので、お茶や水を持って、歩きやすい服装でお越し下さい。夏でもヤブ蚊がいますから、長袖・長ズボンをおすすめします。
帽子・日傘は必需品です。公園にお手洗いはありますが、お手洗いのないルートもあります。駅などで必ずお手洗いをすませてお出かけ下さい。

*古墳めぐりをされる前には、【2】古墳入門もぜひお読みください。