信太山周辺の歴史散歩

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信太山周辺の歴史散歩

林 耕二

はじめに

 現在の堺市から岬町の地域は天平宝字元(757)年に和泉国となり、大鳥、和泉、日根の三郡にわかれる。その中央部、かつての和泉郡に位置する和泉平野から信太山丘陵にかけての地域は、大阪湾に面し気候が温暖で政権のある畿内中枢にも近いため、古くより人々の生活の営みが連綿と続けられた土地である。弥生時代の環濠集落池上曽根遺跡や信太千塚古墳群、須恵器の最古の生産地帯である陶邑窯跡群、旧国分寺や禅寂寺、和泉五社などの伝統ある寺社と今日に残る伝統的祭祀、聖武天皇の所石頓宮、日本を代表する巡礼の道である熊野街道など古代からの歴史遺産が積み重なっている地域である。そして、そのような歴史を背景として「信太妻」など全国に知られた伝承の伝わる地域でもある。今回は信太山丘陵を中心として、古代から現代の空襲被害をも含めた、この地の歴史と民俗について紙幅の許す限りまとめてみた。

1.百舌鳥古墳群と信太千塚

 4世紀後半から5世紀にかけて、和泉北部と南河内に百舌鳥古墳群、古市古墳群が、大山古墳など全長400mを超す超巨大古墳を擁して築かれる。

 この頃、信太山丘陵に66号墳(王塚・鍋塚・大塚ともいう、直径80m、円墳、写真1)、62号墳(玉塚、直径46m、円墳)が築かれ、その後6世紀の古墳時代後期に入ると直径25m未満の小円墳が多数つくられる。これらが現在85基(泉大津高校地歴部『和泉信太千塚の記録』)確認されている信太千塚古墳群である。信太山は、これらの古墳とは時期が異なるが、古墳時代前期後半の前方後円墳である丸笠山古墳(全長90m)や菩提池西遺跡(方形周溝墓群)、道田池古墳群などと、信太千塚と同時期の古墳時代後期の聖神社古墳群がある(2基のうち1基は消滅)。

↑自衛隊基地内にある王塚

 信太千塚古墳群は、66号墳を盟主墳とする群、43号墳(狐塚・前方後円墳、和泉市山荘バス停横)を盟主墳とする群、62号墳を盟主墳とする群の3つの支群にわけられ、千塚中央部にある狐塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳であり、この古墳を最後に信太山には大型の古墳が築かれなくなった。信太千塚を築いた勢力は、河内と和泉に大古墳群を築いた大王の政権に従属し、特に陶邑ではじまった須恵器生産を統括した豪族とその配下の集団の墳墓群と考えられている。ほとんどの古墳は、住宅開発や自衛隊演習地内の塹壕などに利用されて破壊されているが、30基ほどが現存すると言われ(和泉市教委)、現在見ることのできる古墳は、上記の古墳と野外活動センター内に残されている小円墳が数基程度である。

 信太千塚古墳群の発掘調査、遺跡を守るパトロール活動などを行った泉大津高校地歴部の活動の成果は、『和泉信太千塚の記録』にまとめられ貴重な資料となっているが、遺跡破壊直前に発掘保存された須恵器や埴輪、金属製品などの遺物が現在泉大津高校考古資料室に展示されている。事前に予約すれば見学できる。また2006年に資料室図録が出版されている。

 古墳の見学には、JR阪和線信太山駅下車、徒歩または車で東側の和泉泉南線の伯太町交差点から信太山丘陵にむけて坂道を上ると自衛隊の駐屯地正門に出る。最大の王塚は、基地内にあり、事前に自衛隊に電話で申し込むと見学できる。さらに、正門前を南に基地に沿って進み、市営住宅前交差点を東に坂道を行くと、頂上が球形のタンクの給水塔の下に山荘バス停があり、その横の雑木林奥に、43号墳(狐塚)がある。全長56mの古墳時代後期の前方後円墳であるが、前方部が削られ消失している。バス停を少し戻ると左に細い路地があり、下に下ってゆくと水田地帯に入り、あぜ道を西方向に行くと鏡池附近に62号墳(玉塚)がある。丸笠山古墳(前方後円墳、全長90m)はJR信太山駅を下車、駅前をまっすぐ信太山方向へ坂道を上り、途中二股の道の左側を行くと道の左側に鳥居があり、鳥居をくぐって細い道を行くとつきあたりに丸笠池と雑木で覆われた古墳が見えてくる。

※参考資料:石部正志『大阪の古墳』

  泉大津高校地歴部『和泉信太千塚の記録』
  白石太一郎『古墳とヤマト政権』
  泉大津高校『泉大津高校考古資料室図録』

2.陶邑窯跡群

 5世紀に生産がはじまったとされる日本の須恵器は、これまで窯を使用せずいわゆる露天焼きで製作された縄文土器や弥生土器とちがい、登り窯で高温(1100度前後)で焼成する新技術でつくられた硬質の灰色の土器である。この新しい技術は、朝鮮半島から渡来してきた人々によってもたらされた。

 中国からの影響を受けて原三国時代の朝鮮半島で陶質土器の生産がはじまり、半島南部の洛東江流域で生産が盛んにおこなわれ、5世紀の前半には古代に陶邑(すえむら)と称された地域に須恵器生産の技術が伝わったとされる。

 日本書紀の雄略天皇七年に、「百済から手末(てなずえ)の手伎(てひと)来る」という記述があり、また垂仁天皇三年には、新羅系土器の伝播が、崇神天皇七年には、陶邑についての記述が見られる。これらの須恵器は、祭祀に用いられたと考えられ、大和朝廷直轄のもとで作られ、石津川付近に集約され、選別されて大阪湾から大和や各地の豪族などに送られたと考えられている。

 陶邑は、現在の大阪府南部の堺市・和泉市・岸和田市・大阪狭山市にまたがる地域で、現在は陶邑窯跡群という名称がつけられており、1000基を超す窯跡がある。特に信太山の大野池地区には、陶邑窯跡群でも最古の様式の須恵器が出土している(濁り池窯跡、大野西窯跡など)。また窯跡の遺跡地域ごとに信太千塚や陶器千塚などの群集墳が分布しており、須恵器生産に関わった豪族と配下の人々の墳墓と考えられる。

※参考資料:中村 浩『和泉陶邑窯の研究』

3.奈良時代起源とされる和泉五社祭祀と最古のだんじり

 奈良時代、和泉国の各郡に鎮座した鳳(大鳥)、泉穴師、聖、日根、積川(つがわ)の和泉五社は和泉国総社(和泉井上神社)とともに六社一体となって国家鎮護を目的とする祭祀を行なった。養老年間(717~724年)、さらに放生会が加わり、五社による神輿御幸が行われるようになった。

 和泉五社の二の宮にあたる泉穴師神社(泉大津市豊中)では現在、毎年十月初旬から中旬の土日に「飯之山神事」という行事が行われる。真夜中(午前0時)に炊きたての米(粳米1斗8升・もち米5升)をだんじりの中に山形に盛って、明け方近く、泉穴師神社の神前に曳いてゆき、翌日他のだんじりと共に猿田彦以下古式の行列を伴って御旅所まで行く。祭礼終了後米に麹を加えて甘酒を作り氏子に配布するものである。現在この神事は、新暦で月日が変わり、泉大津市豊中町の頭家制度に基づき責任者交代制で同町民が協力して、毎年ほとんどそのかたちを変えずに行われている。神社の由緒では、この「飯之山神事」の起源を以下のように天平年間としている。

 「秋季大祭(飯ノ山神事) 聖武天皇天平十四年壬午六月京中大いに飯を降らし、又霊夢により、橘諸兄公に詔して飯の山饗を総社(在府中、和泉五社総社)に渡し五社に供し余を窮民に賑恤せしめられました後、例にならひ天正年間まで毎年八月十五日総社五社会幸飯の山を渡すの神事を執行して参りましたが、其の後当社のみは古例にならひ社前馬場先の南端に渡御所を設け今に至る迄、当日神輿渡御飯の山御饌鉾を渡すの神事を執行して居ります。」(以下略)

 聖武天皇の天平十四(742)年6月は、平城京から恭仁京に遷都した翌年、2年前に藤原広嗣の乱が起こり、4年前には新羅を発生源と考えられる天然痘の大流行があって、政権中枢の藤原四兄弟をはじめ一般庶民まで多くの死者を出した。この頃はまた旱魃がひんぱんに起こり、おまけに地震さえたびたび起こった。聖武天皇は「朕の不徳が旱と疫とを招いた」として、大赦と賑給を行っている。争乱、疫病、旱魃さらに地震という苦難におちいった天皇は山城国の恭仁京への遷都を行い、以後、紫香楽、難波、平城と都の移転を続け、大仏の建立をも行った。「飯之山神事」の起源とされている時期はそのような頃であった。

  「京中大いに飯を降らし」とあるのは、続日本紀巻第十四に天平十四年六月五日、「夜、京中のところどころに飯が降った」とあることと一致する。「飯をふらし」という現象は、他にも記録された例があり一種の奇瑞として考えられていたと思われる。そして天皇は「霊夢」により、右大臣橘諸兄に命じ、窮民救済を目的に飯ノ山神事の元となった飯ノ山を載せた神輿御幸を和泉五社で行わせたと伝えられている。

 「五社宮祭礼」について、文亀元(1501)年の『政基公旅引付』に、泉佐野市にある大井関社(日根神社)の五社祭礼で喧嘩があったことが記録されている。元禄十五(1702)年の『大鳥社修復ニ付和泉五社修復願状』によると、聖武天皇以来五社で続けてきた飯之山渡し神事が、秀吉の根来攻めの際に、各社の社領を没収したために中断したことが書かれている。天正年間、秀吉の根来攻めによって中断するまで、奈良時代を起源とすればおよそ800年間五社による飯ノ山神事が続けられ、十六世紀末以後は、現在までこれを行っているのは穴師神社のみとなっている。これが事実であれば穴師神社の飯ノ山神事は、現存する日本最古の山車による祭礼といえるのではないだろうか。

※参考資料:泉穴師神社由緒

 林 耕二「泉穴師神社と飯之山神事の謎」『大阪民衆史研究58号』
 松本芳郎『和泉五社祭礼と「飯之山』渡し』

4.熊野詣と明月記に記された平松、信太王子

 信太山の麓を熊野街道(小栗街道)が通り、中世以後熊野詣がさかんに行われた。律令制下の「七道」のうち都から紀伊・四国など六カ国をむすんだ南海道を受け継いだ熊野街道を行く熊野詣のルートは平安京から淀川を下り、渡辺の津(現在の大阪市天満の八軒家)に上陸し、和泉を経由して紀伊に入り、中辺路を通って熊野本宮に至るのが主なルートであった。

 堺から和泉へのルートでは、摂津と堺との国境であった大小路付近を起点とする。近くには開口神社、住吉神社、文化文政の頃を起源とする説もあるほど古い歴史をもつ山ノ口商店街がある。国道26号線と接し石津川を越える附近に石津神社がある。さらに鳳神社西側を経て、大阪和泉泉南線と交差、併行して黄金塚、高石市取石と和泉市舞町の間を経由して和泉市に入る。この附近には、所石頓宮、取石池と取石宿、舞村などがあった。和泉市市内では、和泉泉南線と併行して太町から王子町、幸町、伯太町を経て和泉中学校付近で和泉泉南線に合流する。この間に、3つの王子跡がある。和泉市宮本町に篠田王子(信太王子)跡、幸町に平松王子跡、井ノ口町に井ノ口王子跡の石碑がある。建仁元年の後鳥羽上皇の熊野御幸では、旧暦十月一日に都を出発した一行は、五日に天王寺到着、一泊、六日に阿倍野王子、住吉神社、境王子、大鳥居新王子を経て篠田(信太)王子、平松王子に至っている。平松王子には「平松新造御所」があり、一行は平松王子で一泊している。翌日、井口王子から一行は泉南方面へ向かい、信達で一泊している。

※参考資料:藤原定家『明月記』

5.信太の森と「信太妻」伝説、舞大夫

「信太妻」物語の類型と特徴

信太の森を舞台とする信太妻伝説(または葛葉伝説)には、さまざまな物語の類型がある。享保十九(1734)年上演の竹田出雲の浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」が典型で、その元をたどれば古浄瑠璃、そして説経節にも原型があるともいわれる。これらの物語に共通するあらすじは、

 安倍保名が信太明神で若狐が猟師に追われているところを救う。人間となった狐と保名がむすばれて子供(安倍童子)が生まれ、童子は7歳の時、狐の正体を現した母を見る。母狐は童子と夫から別れ信太の森に帰る際に、「恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉」という和歌を書き残す。夫と童子は信太の森に母を訪ねるという「異類婚姻」説話が前半部分。後半は、童子は成長して安倍晴明を名乗り、陰陽師としての秘術を身につけ、都で芦屋道満との呪術比べで勝利し、天皇に仕えて出世するという安倍晴明説話である。

 1647年頃の「??抄」や1662年刊の仮名草子『安倍晴明』に類似の内容があり、江戸時代初期に晴明伝承と信太妻伝説にはつながりがあったと考えられる。

物語の舞台、信太の森周辺

 狐と安倍保名が出会った場所が信太の森と聖神社である。近年、信太山丘陵のふもと、JR北信太駅近くにある葛葉稲荷神社の方が有名となっているが、伝承にある信太明神とは、駅から信太山方向へ丘陵を登って行き和泉市鶴山台の住宅地に近接する聖神社のことである。和泉国の三の宮である。創建は白鳳時代とされ、百済系豪族の信太首との関係が指摘されている。

 祭神は素戔嗚尊の孫にあたる聖神とされている。境内に古墳2基があって(聖神社古墳群)、2号墳はカマド塚(古墳の玄室がカマド槨で被葬者が火葬されている古墳、11体の大人、子供の人骨が発見された。現在は消滅)のため須恵器生産に関わる豪族との関係が指摘されている。

 1号墳は現在も境内西端にあり径18mの円墳である。江戸時代以前の境内の広さは、東西二四町、南北九町、約260haあり、信太山の大半が神社の境内であった。現在の本殿は、豊臣秀頼が慶長九(1604)年に再建したもので国の重要文化財に指定されている。

「信太妻」と舞大夫

 「信太妻」の物語形成について考える時、信太の森、安倍晴明説話(土御門家と陰陽道)の要素の接点にいるのが舞村の舞大夫である。

 信太山の麓、熊野街道沿い、現在は和泉市北東部の舞町は江戸時代までは泉郡信太郷舞村と呼ばれた。街道をはさんで向かいが取石である。慶長九年の舞村指出帳(検地報告書)があり、少なくとも江戸初期には村が実在した。

 舞村の名の由来は、舞大夫と呼ばれる芸能者が住んでいたことによる。「泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝」に、「砥芦須舞大夫弐人あり信太明神祭礼の時役儀相勤める」「諸役赦免陰陽師四,五人あり暦国中に出す」とあり、砥芦須(とろす、現在の高石市取石のこと)に舞大夫二人が住み、聖神社の祭礼に役儀(舞)を奉納し、諸役を免除された陰陽師が4,5名おり、暦を販売していたとされる。舞大夫とは舞々ともいい、14世紀には全国各地(舞の名の付く地名が多い)に分布し、曲舞の寺社への奉納、陰陽師としての職能を行っていた。中世頃より「声聞師」と呼ばれた人々の一員である。そして、和泉の舞村に住み、明治まで舞大夫として聖神社と関係を持ち、和泉暦の頒布と陰陽師の職能を行ってきたのが藤村家である。

 暦研究家の渡辺敏夫氏と民俗学者小谷方明氏は、信太陰陽師であり舞大夫の末裔の藤村義政氏夫人ヨシエ氏への聞き取りで、「聖神社に三人の大夫があり、その中に藤村家があった。先代の甚三郎氏はその一人であった」としている。藤村家の配った和泉暦は晴明の子孫である土御門家の関わるものであり、藤村家は土御門家から許可状をもらって陰陽師の活動を行っていたのである。

 平安時代中期に「道の傑出者」として陰陽道の名人と高く評価された安倍晴明は、中世から近世にかけて物語の世界で次第に神格化されてゆくが、土御門家配下の各地の陰陽師集団による宣伝活動によるところが大きいと思われる。狐と人間の異類婚姻は、現代流布されているような「差別問題」の物語ではなく、晴明の「超能力」を脚色する説話である。信太陰陽師の藤村家は信太の森と聖神社、安倍晴明説話との接点にいる存在であり、この舞村の舞大夫の近辺で「信太妻」の物語の原型が形成されたことが考えられるのである。

※参考資料:和泉市『和泉市史(旧)第2巻』

      林 耕二「舞大夫としての信太陰陽師」『歴史民俗学25号 特集陰陽師の末裔たち』
      渡辺敏夫「再び泉州暦について」『日本天文研究会報文』
      藤村義彰『伝説信太の森』
      林 淳他『陰陽道の講義』

6.もうひとつの大阪大空襲 和泉市阪本・東阪本町空襲事件

大阪大空襲

 1945年3月13日から14日の深夜、大阪市内へ最初の本格的大空襲が行われた。B29爆撃機計295機が大阪市上空で13日午後11時57分頃、14日の午前3時25分まで激しい空爆を続け、被害は全焼13万4744戸、死者3987人、罹災者50万1578人など壊滅的な打撃を大阪市民にもたらした。このとき、堺市その他の地域に若干被害のあったことが報告されている。

和泉市(和泉町)へのB29来襲

 和泉市阪本町・東阪本町(当時は和泉町阪本村)上空にB29があらわれたのは、3月14日の午前2時から3時頃であった。東阪本町の赤松美津子さん(聞き取り当時67才、以下同様)は、当時堺市の美木多にいて、高等小学校を卒業したばかりであった。「午前3時ごろ、大阪市内の空襲が終わって、「B29 が潮岬に去った」という放送があってからB29一機がやってきた。最初に照明弾を落とし、空一面が明るくなったとおもうと焼夷弾が落ちてきた」と当時の様子を語る。この地域は信太山の陸軍演習場の東南2キロほどの位置にあり、まったくの農村地域であった。阪本町の横田常雄さん(90才)は「近くにある工場が電灯をつけていたため(B29に)発見された。」と爆撃の原因について話した。電灯の灯りが発見されたという工場については、現在「光陽レース」という会社が現地にあるが、当時はレンズを製作する軍需工場で付近の住民が挺身隊に徴用されレンズ磨き労働(1日8時間ほど)に通っていたという。

 焼夷弾は現在の阪本町から東阪本町へ、北は信太山、南は一面の水田・畑に囲まれた平和な村の上に投下された。「家の屋根を4つの不発焼夷弾がつきぬけて屋内に落ちた。」「近所で家が燃えだし、その火が家の屋根に燃え移った。燃えた家ではおじいさんと子ども二人が死んだ」(阪本町の横田ふみこさん・82才の証言)

もっとも激しい被害をうけた東阪本の状況・・赤松家の場合

 もっともはげしい被害をうけたのは東阪本地区である。

 被害の中心地に地元の旧家である赤松家の本家があった。

 藤木雪子さん(62才・旧姓赤松、当時7才)は空襲警報のサイレンを聞いて、家のむかいにある工場(大津織物)のひさしの下の防空壕にとびこんだ。壕の中には兄二人、姉、妹と母親の楠枝さん(当時45,6才)の6名が入った。防空壕のふたは厚い木でできていて、表面にブリキが貼ってあった。集落の道路沿いに焼夷弾が投下され、付近の家と田畑の上に重油の燃える筒が次々落下、突き刺さった。現在、東阪本の公民館付近にあった有本家と、その牛小屋に焼夷弾が落ち、幼児ひとり、牛が一頭犠牲となった。赤松家では、むかいの工場のひさしの上に落ちた焼夷弾が防空壕のふたの上に落ちて燃えたため、防空壕の入り口のすきまから火が入ってきた。外へ出ようとしたが入り口が斜面になっていて、焼夷弾の油脂らしいものでズルズルすべってなかなか出られなかった。母親の楠枝さんは、いったん外に出たが、再び防空壕の中へ入って子どもたちを救い出そうとしたため大やけどを負ってしまった。そのうち、父親の秋太郎さんが、この一帯が一番被害がひどいために戻ってきて、皆を救い出した。

 現在も赤松家の屋根裏には焼夷弾が突き抜ささった時の焼けこげた跡がある。

※参考資料:小山仁崇『米軍資料 日本空襲の全容』
      西角桂花『泉大津年代記』
      林 耕二「もうひとつの大阪空襲 和泉市空襲事件」『大阪民衆史研究43号』

(はやしこうじ 大阪府立和泉総合高校)