歴史教育者協議会全国大会の現地見学

まだ間に合います。F・G・H コースも申込期限を延長しました。7月20日までに申込ください。
  
  大阪の歴史と文化、たたかいにふれる魅力いっぱいの厳選8コース。大阪歴教協の仲間が下見を重ね、新しい出会いと発見が続いています。

Aコース(8/1午後)
豊臣・徳川の城から軍の中枢となった大阪城の戦争と平和をさぐる
  大阪城は、戦争と平和を考える絶好のフィールドです。豊臣の城跡は地下にあり、砲兵工廠は大阪ビジネスパーク(OBP)に姿を変えていますが、新発見の歴史資料や証言も手がかりに、歴史の痕跡を読み解いてゆきます。
  豊臣氏・徳川氏が築いた大阪城と城下町大坂は、西国支配の軍事拠点となりました。明治維新後は、大村益次郎が大阪を陸軍創設の場とし、大阪城を中心に陸軍部隊・兵器工場・病院等の軍事施設を置きました。
 昭和の初め、関一(せきはじめ)大阪市長は、大阪城の公園計画を推進。天守閣復興事業を、陸軍第四師団司令部新築とセットにして、市民の寄付で実現します。軍司令部が置かれた大阪城は軍事拠点としての機能をさらに高めました。一帯への空襲は数回あり、中でも一九四五年八月一四日の砲兵工廠への空襲は徹底的なものでした。民間人や勤労動員生徒が犠牲になり、石垣や櫓にも甚大な被害をもたらしました。
 戦後、占領軍から返還された大阪城は、旧師団司令部の平和利用が実現(旧大阪市立博物館)するなど、市民の公園として生まれかわりました。
  見学では、①軍隊の司令部・砲兵工廠・周辺各種連隊・陸軍病院・軍関係学校などの軍事施設があった場所②大空襲の被害、傷あと③豊臣の城滅亡の上に築いた江戸時代の城の面影④昭和初めの「天守閣再建と公園市民公開」などをさぐります。
 
Bコース(8/1午後) 
大塩平八郎の乱と近代大阪の夜明けの地を訪ねる
 難波の宮や四天王寺に代表される古い歴史を持つ上町台地界隈に対して、その東西に広がる現在の大阪市街の大半は、近世に入り豊臣秀吉による城下町建設、続く江戸幕府の直轄地の大坂三郷となった頃から急速に開発が進みます。中でも天満から北浜界隈は最も早くに開発され、かつては諸藩の蔵屋敷や蔵元・掛屋の屋敷などが並び、現在も大阪の政治・経済・文化の中心地の一つです。今回の見学内容は以下のものを考えています。
 堂島米市場のもととなる淀屋の米市で知られる淀屋橋から出発し、天保期に緒方洪庵が開き、当時日本第一の蘭学塾ともいわれた適塾へと向かいます。この適塾は・大村益次郎・福沢諭吉ら幕末から明治にかけて活躍する人材を多く生み出しています。
 続いて、後の倒幕の動きに大きな影響を与えた大塩の乱関連で、大塩平八郎私塾洗心洞、大塩親子の墓のある成正寺などを訪ねます。
 近代の大阪は愛国社から国会期成同盟へと発展していく自由民権運動の中心地でもありました。その舞台となった太融寺を訪ねます。日本初の近代貨幣鋳造所の大阪造幣局などの見学も予定しています。
 大阪市域は近代以降の都市開発の中、景観は激変し、往時の姿を想像するのは困難です。今回は今に残るその痕跡をながめ、近世から近代初めの大阪の歴史を知る入口となればと考えています。
 
Cコース(8/1午後)
コリアタウンで交流、日韓の歴史と文化を味わう
  大阪市の南部「猪飼(いかい)野(の)」は韓国・朝鮮との交流・共生の歴史と文化が息づく街です。
  5世紀に渡来人の技術で最古の橋「つるのはし」が架けられ、七世紀には、唐や新羅との戦いに敗れた百済の王族ら一族が住み、百済郡や百済川の地名となっています。
  1922年以降、大阪~済州島間に就航した「君が代丸」に乗り、済州島出身者らが居住するようになります。1923年、日本人と朝鮮人労働者たちによって現平野川が開削され、町工場や労働者の居住地域に変容します。その翌年には朝鮮人が集住する6万人の町となりました。
  御幸(みゆき)森(もり)神社には、万葉仮名・和文・ハングル文字で表記された「難波津(なにわづ)の歌」の碑があります。百済の渡来人、王(わ)仁(に)博士(はかせ)が詠んだとされ、朝鮮通信使が書いたものが発見され、ハングル難波津の歌が、平和友好・共生の願いを込めてつくられました。
  日本最大のコリアタウンには、韓国・朝鮮の食材・衣服店、料理店が並び、チマ・チョゴリ専門店、豚足や豚頭が並ぶ精肉店、キムチやチヂミの店、韓国レストランなど130店あり、3分の2は在日コリアンが経営しています。散策や食事・韓茶を楽しみ、韓国・朝鮮文化を体験しましょう。

Dコース 8/5
八尾の新田会所など大和川の今昔と河内木綿をさぐる
  1704(宝永元)年、淀川に合流していた大和川が付け替えられ、鴻池(こうのいけ)新田(しんでん)や深(ふこ)野(の)新田など多くの新田が作られました。新田の棉(和棉)と「河内(かわち)木綿(もめん)」は近世大坂の繁栄の土台をつくったと言えるでしょう。
  大阪の多くの小学校で、4年生が「大和川のつけかえ」を学びます。流域では、研究・教育、環境・水辺活動など、大和川市民ネットワークの活動が発展しています。
  見学は、まず付け替え地点で川の様子や、「築留(つきどめ)治水(ちすい)公園(こうえん)」で「中甚兵衛」の銅像などを見、大和川に住む魚などを見学します。
  昼食では、「綿(めん)実油(じつゆ)」の天ぷらをいただき、綿実油や柏原ワインを購入できます。
  八尾市立歴史民俗資料館に向かいます。河内棉や河内木綿の展示が多く、綿繰りや糸繰りなど体験できます。棉畑では、きれいな棉の花が見られることでしょう。この畑は、河内棉と河内木綿復元に努力された故寺尾和一郎さんの指導によるものです。
  旧植田家住宅・安中新田会所には、膨大な文書と建物が保存され、研究成果や民具が親しみやすく展示されています。途中、長瀬川での環境活動の様子を見学し、旧大和川筋だったJR大和路線を横断します。
 
Eコース 8/5
百舌鳥古墳群と自治都市堺のおもかげ、伝統産業、職人の技に出会う
  百舌鳥(もず)古墳群には、大小百をこす古墳が造られ、全国の巨大古墳十位のうち3基あります。見学では、日本最大の前方後円墳大仙(仁徳陵)古墳で、周辺の陪(ばい)塚(つか)など小古墳をあわせて観察します。
  昨年、宮内庁と堺市が同時調査した「陵墓参考地」ニサンザイ古墳や、市民の保存運動で守られ、朽ちかけた橋にたぬきが出没する「いたすけ古墳」も巡ります。
  大仏造営で活躍した僧・行基が、民衆が寄進した瓦などで築いた土塔では、神亀(じんき)四(727)年と刻まれた瓦が見つかっています。復元され史跡公園となった土塔で、発掘調査・復元担当者からお話をお聞きします。
  自治都市堺のまちは、大坂夏の陣の際の放火で焼失し、ひとまわり大きく再建されました。残された歴史的町並と、築400年近い山口家住宅にそのおもかげを訪ねます。
  江戸時代、堺はものづくりのまちとして発展しました。全国の料理人が使う堺の包丁は、今も鍛冶(かじ)・研ぎ(と)・柄(え)作り・柄付け・刻印・卸・小売りなどの分業で作られています。迫力ある鍛冶の仕事場は感動ものです。昆布加工の作業場では、おぼろ昆布・とろろ昆布などに独特の堺刃物が使われているのも見どころです。
 
Fコース8/5~6
淀川の舟運と京街道・枚方宿、今城塚古墳とキリシタンの里をめぐる
 大阪平野はもともと河内湾と呼ばれる海で、淀川や大和川による堆積物のひろがりで、陸地となっていきました。都が京都に移ると、淀川が大坂と京を結び、秀吉が京街道を開きました。氾濫をくり返した淀川を治めるため、茨田(まんだ)の堤や太閤堤が築かれ、近代にはデ・レーケによる改修工事や新淀川が造られました。重要文化財に指定された旧毛馬(けま)第一閘門(こうもん)や排水機場、淀川資料館を訪ね、それらを学びます。
  淀川と太閤堤の上に築かれた京街道は、参勤交代や庶民の行き来で賑わいました。枚方宿・鍵屋資料館は当時の船宿の様子を残しています。三十石船やくらわんか舟が活躍した時代を学び、「くらわんか弁当」をいただきます。
  継体大王(天皇)は、応神大王の五世の孫であったとされ、それまでの大王との関係ははっきりしていません。その大王墓(陵墓)も、唯一淀川右岸にあります。
  学会の定説は高槻市の今城塚古墳を継体大王陵にとし、宮内庁の治定とくい違っています。そのため、今城塚古墳は発掘・調査・整備され、全国で唯一足を踏み入れることのできる大王墓(「陵墓」)です。墳丘に登って、墳丘の崩れた部分を確認したり、古墳の内堤部に復元した形象埴輪を並べた埴輪祭祀場などを見学しましょう。
  「今城塚古代歴史館」には、日本最大の祭殿風の家型埴輪などの今城塚古墳の出土遺物、3種の石棺などの復元模型を展示しています。
  高槻・茨木近辺は高山右近の領地となっていたため、茨木市千提寺(せんだいじ)などに隠れキリシタンの里が存在しました。神戸市立博物館所蔵のフランシスコザビエルの肖像画はこの千提寺の旧家で発見されました。現在、千提寺に茨木市立キリシタン遺物史料館が設けられており、そこを訪ねます。
 
Gコース8/5~6
サヌカイト・古市古墳群・河内源氏の里・富田林寺内町をめぐる
  羽曳野市翠(すい)鳥(ちょう)園(えん)遺跡は、1992年に市街地中央で発見されました。二上山で産出するサヌカイトを加工する打製石器の工房跡がそのままの姿で出土し、遺跡公園でその様子を再現・展示しています。
  羽曳野市から藤井寺市一帯は、誉田(こんだ)御廟山(ごびょうやま)古墳(伝応神陵)をはじめ大小百を超す古墳が点在する古市(ふるいち)古墳群です。誉田御廟山古墳(伝応神陵)は大きすぎて全容が見えないので、墳丘長200mの前ノ山古墳を見学します。宮内庁はこの古墳を「日本武尊(やまとたけるのみこと)白鳥陵」と治定しています。
  前九年・後三年の役の源氏の棟梁(とうりょう)頼義・義家は南河内に拠点を構えていました。武士団が本格的に摂河泉地方に出現したのは、10世紀後半です。源氏一族は摂関家などの侍になって仕えるとともに、諸国の受領などを歴任して勢力の形成に努めました。「道長の近習(きんしゅう)」と言われた源頼信から頼義・義家三代の墓や壷井(つぼい)八幡(はちまん)を訪ね、武家政権誕生の時代について考えます。
  明治中期、南河内山麓でブドウ栽培が行われるようになり、昭和初期には生産高日本一を誇りました。1935年創業の「河内ワイン」を訪ね、ワイン製造について学び、試飲も楽しみましょう。
 太子町から河南町にまたがる丘陵の尾根筋に分布する一須賀古墳群は、六~七世紀にかけて築造された群集墳で、蘇我氏など渡来系氏族の集団墓と考えられています。この一帯を近(ちか)つ飛鳥(あすか)風土記の丘と呼び、古代史の研究の成果を展示する府立近つ飛鳥博物館が建てられています。
  富田林(とんだばやし)寺内(じない)町(まち)は、戦国時代に生まれました。一向宗(現在の浄土真宗)の本山である大坂本願寺が、現在の大阪城付近にあったため、その庇護のもと、ここにも寺内町が成立しました。
  富田林寺内町は土居で囲み、出入り口に門を設けて整然とした町割をしていました。その面影がよく残されています。重要文化財杉山家住宅は大地主・酒造家で、明治の歌人、石上(いそのかみ)露子(つゆこ)が暮らした家でもあります。露子の悲恋と人生、美文や反戦短歌など、この時代を学ぶヒントになるでしょう。

Hコース8/5~6
日根荘と京大原子炉実験所、反戦水兵の碑とだんじり会館など民衆の歴史を学ぶ
 日根荘は、「日根荘日根野村荒野開発絵図」など荘園関連の資料が豊富に残されています。研究成果が歴史館いずみさのに展示され、九条家が日根荘を支配していた時代の人々の様子がよくわかる内容です。
 日根神社や井川(ゆかわ)、十二(じゅうじ)谷池(たにいけ)、八重(やえ)治(じ)池(いけ)、尼津(あまつ)池(いけ)など、当時の様子が良好な状態で現在まで残されているので、当時の様子が想像しやすくなっています。
 京都大学原子炉実験所は、医学・工学・農学・化学など全国の大学の共同研究施設です。研究用に中性子を取り出すための原子炉で、商業用の原発と違い出力五〇〇〇kw、家庭用の湯船ぐらいの大きさです。原発災害を警告してきた元研究所教員の案内で、原子炉を見学し、原発問題を学びます。
  和泉市の貝吹山古墳は、江戸時代の千原(ちはら)騒動(そうどう)で農民が集結した場所です。千原騒動は、1782(天明二)年に一橋領54か村の棉作百姓がおこした百姓一揆です。厳しい身分制度の下での農民の連帯が評価されています。
 1902年、和泉市黒鳥町で生まれた阪口喜一郎は、『聳(そび)えるマスト』発行など呉海軍基地内での反戦活動を理由に処刑されました。黒鳥山公園入り口に反戦兵士・阪口喜一郎の碑が建てられています。公園には、戦争犠牲者をまつる忠霊塔や明治天皇が和泉平野を見下ろして陸軍大演習を指揮した場所もあります。
 泉大津市ではロシア軍兵士の墓を訪ねます。日露戦争時の捕虜の扱いは紳士的だったと伝えられ、今も美しく保たれています。
 岸和田は、江戸時代、岡部氏が治めた城下町です。岸和田のだんじり(地車)は、お城にも曳行することでも有名で、城下町のだんじり祭として受け継がれてきました。
  岡部氏の茶屋跡である五風(ごふう)荘(そう)で、昼食をいただき、だんじりの由来を示す三の丸神社と、岸和田祭をイメージゆたかに伝えるだんじり会館を見学します。