歴史たんけん堺 夏の講座 2012 8/24 レポート

「行基のふるさと堺 土塔 見学と講演会 レポート」はこちら(PDFファイル)

堺市文化財課の近藤康司さんは「土塔博士」で、1998年からの堺市文化財課による土塔の発掘調査と、2004年からの堺市初めての史跡公園化、さらに2009年からの土塔の講演会の企画・運営に尽力してこられた方です。近藤さんのガイドと講演で、有意義な会となりました。

東百舌鳥中学の新聞部生徒、堺市観光ボランティアガイドさんや教職員60人が参加されました。

会場提供・準備など、東百舌鳥小学校の皆さんにおせわになりました。ありがとうございました。

十三重の土の塔を復元  堺市で初めての史跡公園に

○公園や道路部分も調査したが、奈良時代のものはあまり出ていない。大野寺ができたのは727年とわかっているが、土塔の他にお堂が建てられていたかどうかはわからない。

○下から拝む塔で、上にのぼる施設ではなかったと思われる。
○瓦の葺き方は、建物と同じ。木の塔と同じような見せ方でできている。
○十三重の塔というのは、多武峰の談山神社にある。
○外枠は53.1mで、天平尺29.5 ㎝で180 尺になっている。段の幅は同じではないが、その尺で決めているのではないか。
○土の段は12しかなく、13 重目は木造のお堂だったと想像している。相輪(そうりん 塔の屋頂にのせた飾り)の破片は出てきたが、お堂の遺構は出ていないので、復元しなかった。模型には想定したものをつけている。13重目の基礎は円形の「亀腹」にしている。
○一番下の割った瓦を外周りに積んで造った基壇は、重量で沈むのを防いでいる。

土塔を一周しながら、お聞きしました

講演

○瓦の色が違うのは、窯の中で焼くときの置いた場所による。焚き口に近いと火がよく回り、灰色の硬い瓦ができる。遠いと火の回りが悪く、赤くやわらかいものになる。どちらも使われていたので、復元の時、天理の瓦屋さんに頼んで焼いてもらった。瓦は、基壇の割ったものも入れて7万枚ぐらい使っている。

○南東のすみの瓦片は、出てきたものをそのまま使って復元している。

○ガラスの向こうの盛り土断面は、西側のてっぺん近く、室町時代に掘削された時の部分を、特殊な樹脂で固めてはぎとって、展示している。(⇒)

○粘土は2 種類あるが、土の違いだけのようだ。地元のものだっただろう。終末期の古墳では、版築という撞き固めをするようになり、高松塚のように、腰高の墳丘ができた。土塔ではしていないので、裾すそ広がりのものしかできなかった。

「土塔の発掘と研究からわかったこと」
社会事業をすすめた行基

土塔をつくったのは、堺出身の僧行基です。

行基は、668年、当時の河内国(のち757年(天平宝字元年)和泉国にわかれる)大鳥郡に生まれました。両親ともに有力者の一族で、父は百済系の渡来人です。行基は、生まれた家をのちに家原寺というお寺にしています。15歳の時飛鳥寺で出家しました。行基の先生は、道昭(どうしょう)という僧です。道昭は、社会事業をすすめました。行基は、当時の奈良の都(平城京)で活動し、まちなかで説法をおこないました。当時の「僧尼令」という決まりでは、僧尼は寺の中でのみ活動すべきであるとされていたので、行基の活動は、違反行為でした。また行基は、畿内(きない==今の奈良・大阪・京都・兵庫==大和・河内・和泉・摂津・山城の5つの国)で活動しました。ため池やお寺を作り、橋をかけ、道を整備し、布施屋という休憩所をつくりました。当時は、布(庸)や各地の特産品(調)を税として治め、奈良まで歩いて運ばなければならなかったので、布施屋は喜ばれました。行基の建てたお寺は、記録では50数ヶ所わかっていますが、通常「四十九院(しじゅうくいん)」と言われます。立派な瓦ぶきのお寺をつくったのではなく、民衆に仏教の教えを広めるための簡単な建物だったので、院とよばれたようです。行基や道昭は、社会事業をすすめるに際して、お寺をつくりました。

土塔で見つかった瓦(「土師長 」の文字瓦)

土の塔は堺と奈良の2つだけ 史跡指定で救われた土塔お寺には、金堂、講堂などの建物の他に木造の三重・五重・七重などの塔が建てられますが、大野寺には土を積み上げて十三重に作った土塔がつくられました。全国で土を積み上げて作った塔は、土塔と奈良市の東大寺の頭塔(ずとう)だけです。

行基は、多くの付き従う人々(信者、弟子)と行動をともにし、その人々は「知識」と呼ばれました。行基は、東大寺の大仏建立に協力し、大仏の完成以前に亡くなりました。奈良県生駒市の竹林寺にお墓があります。鎌倉時代にこのお墓が発掘され、三重の容器に納められた骨壺の外面に行基の墓であるという墓誌が刻まれていました。

平安時代には、『行基年譜』がまとめられ、行基がいつ、どこで、何をしたかが書かれています。大野寺土塔は、神亀4(727)年につくられはじめたと書いてあります。鎌倉時代には『行基絵伝』が描かれ、大野寺のようすがわかります。

戦後まもなく土塔は、個人の地主さんのものとなり、住宅の壁土として北東部の四分の一ぐらいが削られました。それを発見し、大阪府が買い上げて1963(昭和38)年に史跡指定されました。この時中心になって頑張られたのは、当時大阪府の藤澤一夫氏です。

民衆がつくった土塔、大きさも つくり方も 時期もわかった

堺市の発掘調査では、いろいろなことがわかりました。土塔は、十三重の塔で、一辺は53.1mでした。

土塔は、一辺30cmの粘土ブロックを積み上げ、その内部に土を埋めています。土塔を積むとき、まず高さ120cm の基壇を築きます。その上に12段の土壇を築いていきますが、各段の外周に、35cm×23cm×10cmぐらいの直方体の粘土ブロックを列のように並べて積み上げ、その中に土を入れていきました。粘土ブロックの列は、土を盛り上げるときの基準になります。
十三重目(最上段)は、粘土ブロックの列が、相撲の土俵のように丸くなっていて、土塔の横にある模型のように最上段には、お堂が建てられていたようです。

木造の塔は、上(屋根)から作っていきますが、土塔は下から積んでいきます。盛り土が完成したあと、表面に瓦を葺いています。この方法は、木造の塔を建てるときのような特別の知識や技術は必要がなく、測量ができれば完成する方法です。土を積み上げる作業は誰でも参加できます。

土塔は、約七万枚の瓦で葺かれていました。土塔から200mぐらい離れたところで、瓦を焼いた窯あとが発見されています。土塔でみつかった瓦の中には、文字を刻んだ瓦が1300点ありました。人名を刻んだものが多く、行基にしたがった「知識」の人たちの名前で、土塔づくりの作業に参加した証しと考えられます。

発掘調査で最大の発見は、神亀4(727)年と刻まれた瓦がみつかったことです。『行基年譜』に書かれていたことが証明されたのです。室町時代に、土塔を掘削したあともみつかりました。お寺の塔は、本来シャカの骨(舎利)をおさめるストゥーパなので、舎利を探そうとしたようです。

史跡公園にするため、奈良県天理市の瓦屋さんで瓦を焼いてもらって、土塔の南側と西側に瓦葺きを復元しています。瓦を焼くときの火の廻り方のちがいで、赤く焼けた瓦や灰色のものもあります。北側と東側には、コグマザサを植えています。

主催 大阪歴史教育者協議会堺支部& 堺たんけんクラブ
 (小松) fax072-254-1717
後援 堺市教育委員会