第2回講演会 『遺骨収集から見えてくる沖縄戦』

第2回講演会 2012年10月12日

具志堅 隆松さん (沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)

「遺骨収集から見えてくる沖縄戦」

 「ガマフヤー」とは何か。それは沖縄戦で亡くなった人の遺骨を掘り出す仕事をする人のことである。

 沖縄には石灰岩でできた自然の洞窟が多数ある。この洞窟を沖縄ではガマと呼ぶ。広いところでは千人も入れるところがある。沖縄戦では、米軍の攻勢 から逃れるために住民はこれらのガマに避難した。しかし、ガマも米軍の攻撃に晒され多くの犠牲者を出した。また凄惨な「強制集団死」の場にもなった。

 戦後67年の歳月で、かつて日米の激戦地であった場所も都市開発が進み景観を変貌させている。しかし、その地下には今なお夥しい数の遺骨や遺品、不発弾などが埋もれている。

 沖縄戦の犠牲者は、日本側の死者・行方不明者18万8136人、うち沖縄県出身者が12万2228人(民間人9万4000人、軍人・軍属2万 8228人)、米軍側の死者・行方不明者1万2520人(沖縄県援護課1976年3月発表)という。今なお多くの遺骨が地中に眠ったままである。

 具志堅隆松さんは、ガマフヤーを30年間ボランティアとして続けてきた。今回は、具志堅さんによる「骨の戦世、遺骨収集から見えてくる沖縄戦」と題して、DVDやスライド写真を通した講演学習会を開催した。その報告をします。

遺骨が千葉県の遺族の元へ

 講演の前に、まず具志堅さんの遺骨収集事業の様子を記録したRBC放送の特集番組をDVDで視聴した。

 番組は、冒頭、「沖縄戦から66年、暗い土の中から見つけ出された一体の遺骨が遺族の元へ返された」というナレーターの言葉から始まる。遺骨が遺族の元に帰ることはほとんどない。多くの掘り出された遺骨は誰のものかわからず、国の戦没者墓苑に収められているという。

 沖縄戦の遺骨が遺族の元に帰ったのは、遺族が千葉県に住む朽方精さんのケースであった。遺骨が掘り出されたのは那覇市の真嘉比地区。この地は米軍 がハーフムーンヒルと名付けた所で、日米両軍が1週間にわたる激戦を繰り広げた所である。この地の戦闘で米軍は2000人、日本軍はそれ以上の兵士が死亡 したといわれている。

 具志堅さんは都市開発が進む真嘉比地区で2か月間の遺骨収集作業を行った。その作業で掘り出された数百体のうちの一体が朽方さんの遺骨であった。

 朽方さんの遺骨が遺族に結び付いたのは、掘り出された遺骨のそばから名前の刻まれた万年筆が発見されたことによる。しかし、この段階ではまだ遺骨がその名前と同一であるかどうかは断定できない。それを遺族の特定にまで結びつけたのはDNA鑑定であった。

 遺骨を掘り出してもそれが誰のものかわからないことがほとんどである。具志堅さんは遺骨をなんとかして遺族の元に届けられないかを考え続けてきたという。

 これまで、815体が遺族の元に返還されているが、それらはシベリア抑留者の遺骨である。気温が低いシベリアの場合、DNAが比較的に遺骨に保存 されているのだそうだ。また、シベリア抑留者の身元が確認しやすいのは、遺骨が墓地に埋葬されており、名前も記録に残されているからだという。

 一方、沖縄戦の遺骨は高温のため分解が進みDNAが抽出しにくい。そういう理由でDNA鑑定は実施されないままできた。

 朽方さんのケースは客観的状況証拠がそろっていたことで、初めて国にDNA鑑定を実施させることができたという。

ナレーターは語る。遺骨返還の事業は国の仕事でなければならないはずなのに、戦後66年たっても制度化されていない。ボランティアの人たちがやっている、と。

具志堅さんのお話

 沖縄戦で亡くなった人の遺骨を山中、原野、豪(ガマ)から掘り出して、その遺骨を遺族に返す仕事、ガマフヤーをやっています。

 遺骨収集を始めて30年になります。28歳の時、ボーイスカウトをやっていたとき、本土のボーイスカウトから遺骨収集作業への協力依頼があり、それに参加したことがきっかけでガマフヤーをやっています。

 子どもの頃から私が住んでいた地域に鉄兜をかぶった骸骨があるということはよく知っていました。よく遊んでいた安里の真嘉比地域では遺骨を簡単に見ることもできました。当時、大人たちからそれには触るな、動かすな、後で家族の人が探しに来るから、と言われてきました。

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 遺骨収集団に参加してショックだったことがあります。親が遺骨を手に取ってみてもそれが自分の子のものかどうかが分からない。何か名前のあるもの がないと遺族の元に帰れない、ということです。何か名前のあるものはないか、認識票など遺骨の下にないかと思って下の方も掘ったりもしました。将校の場合 は認識票に名前が刻銘されているが一般兵は番号しか刻銘されていない。私は番号だけで身元がわかるものだと思っていたのですが、厚労省に問い合わせると、 敗戦時に名簿は焼却してほとんど存在しないというのです。

 兵隊ですら名前のある遺品が出てくることは極めて少ない。ましてや一般住民についてはこれまでのところ全くないのです。

朽方さんの遺骨と特定された経緯

 真嘉比で出てきた朽方さんの遺骨と一緒に名前が書かれた万年筆が出てきて、その名前を平和の礎にある沖縄戦戦没者・検索用コンピューター入力した ら、一発でヒットし、千葉県出身の人であるということが分かりました。共同通信の協力で千葉の新聞にこのことを載せてもらったら、その日のうちに遺族の方 から電話がかかってきました。遺族の方がDNA鑑定を希望されていたことで厚労省を突き動かし、DNA鑑定を実施させることができました。

 この事例によって、厚労省が主張してきた沖縄戦の遺骨からはDNAは抽出できないという認識は完全に覆ったのです。

 以降、厚労省は沖縄戦の場合でもDNA鑑定をやっていくという方向になってきましたが、DNA鑑定を実施するための3つの条件を出してきました。 それは、①遺骨と一緒に名前のある遺品が出ていること、②DNAが採取できること、③遺族がDNA鑑定に同意している、ということです。

国・厚労省は

 私たちは沖縄戦のすべての遺骨と遺族の両方のDNA鑑定をやってくれるよう要求していますがなかなかそうはなりません。

 厚労省は、沖縄戦の遺族の数は多い。費用が一人3万円掛かる。沖縄戦の住民だけでも被害者12万人ですから多額の費用が掛かるというのです。

 国家が国民を戦死させておいて、その責任の取り方として、費用が掛かるとか手間が掛かるとかいうことを言い立てる立場ではないでしょうと追及する と、沖縄戦で遺族の鑑定をやると、沖縄だけでは済まなくなる。硫黄島や南方の遺族の方も手を挙げるだろう、というのです。この厚労省の対応には本当に怒り が湧いてきました。

 私は、沖縄県の41市町村のすべての議会に、国の責任による沖縄戦遺族のDNA鑑定実施を要求する意見書の採択を働きかけました。今のところ18の議会で採択していただいているところです。

新しい発見、住民の遺骨

 今年の5月、八重瀬町安里で遺骨3体が出てきました。30歳ぐらいの女性と3~4歳、7~8歳の子どもの遺骨でした。兵士ではなく住民の方の遺骨 です。それで、新聞を通じて、このような家族構成で亡くなられ方、心当たりの方がおられたら名乗り出てください、と呼びかけました。すると5世帯の人が名 乗り出てくれました。

 県出身の国会議員の協力のもと、厚労省に3体の遺骨のDNA鑑定と5世帯の方のDNA鑑定を実施するように要請しました。現在、厚労省は鑑定作業をやっているところです。これは沖縄県住民の遺骨という意味では初めてのケースです。

スライド写真を見ながら・・・

新都心と言われる真嘉比地区。

 ここが激戦地であったということは分かっていたので那覇市は開発の前に遺骨収集をするものだと私は思っていました。しかし、市は遺骨収集はしない と言う。私は、ぜひ開発前に遺骨取集をするように申し入れをしました。過去に同じような激戦地跡であったシュガーローフでは、遺骨が土と一緒にトラックで 持ち出されて、遺骨収集をしないまま都市開発されてしまったからです。それで、私は開発される前に遺骨を見つけて、その事実を琉球新報に載せていただきま した。さらに遺骨収集作業の必要性を訴えた私の投書も掲載させていただきました。こういう経緯の中で市は遺骨収集を実施する方向になりました。

 私一人ではできませんのでこの仕事を一緒にやってくれる人たちを、チラシで募集しました。するとホームレスの人や失業者の人たちが応募してくれました。遺骨収集作業が緊急雇用創出事業として実施されることになったのです。

米軍はハーフムーンと呼んでいた

 ここで掘る深さは1メートルです。不発弾が埋もれている場合があり、事前に磁気探査をかけて不発弾を除去してから遺骨収集をやります。いろんなものが出てきます。

・これは手榴弾です。茶色いのは砲弾の破片です、緑色のものは小榴弾です。薬瓶もありますが日本軍のものです。

 出てきた遺物は、全部記録を取ります。遺骨は日時、場所、形状などを記録した後1日分として残していきます。1日に土嚢半分ぐらいは出てきます。

写真から戦争の形態・状況が分かる

・この破片は米軍の砲弾です。艦船から打ち込んだ大型の砲弾の弾帯です。

・これは105ミリ榴弾砲の破片で陸上に上陸した砲兵隊が打ったものです。60ミリ迫撃砲で米軍の歩兵と一緒に作戦する部隊が打ち込んだものです。 迫撃砲の破片が出てくるということは、接近戦が展開されたということであり、そこには遺骨があるといえます。実際に遺骨が出てきました。

・これは米軍の75ミリの大砲の弾です。同じ場所に日本軍の不発弾とアメリカ軍の不発弾があります。不思議ですね。日本軍がここにいて米軍が砲撃を 加え、日本軍はここから駆逐され、その後に米軍がここを拠点にした。そこに今度は日本軍が砲撃を加えたということになります。攻守入れ替わったことを示す 物的な資料といえます。

・ここでは小銃弾がたくさん出てきています。米軍から発射された小銃弾が511発、日本軍の小銃弾が5発、発見されています。比率からするとまさに 100対1になります。沖縄戦の生存者の話で、1発打ったら100発ぐらい打ち返されたという話があります。真嘉比のこの現実はまさにその通りです。

 ここで日本軍が小銃や機関銃を発射したら薬きょうはここに残ります。その薬きょうの数を調べたら、日本軍の薬きょうは圧倒的に少ない。では、日本 軍は反撃をしなかったのか、と言えばそうではありません。日本軍は確実に敵が射程距離内に入ってくるまでは打つなと言われており、それを守ったのだという ことがよくわかります。

・これは木箱に入っていたものです。これを背負ってアメリカ軍の戦車の下に潜りこんで戦車を破壊させる、自爆攻撃用の爆薬です。真嘉比では破壊された米軍のキャタピラーが発見されています。

・これは防毒マスクのガス吸収管の一部です。日本軍の歩兵が使うためのものです。

 真嘉比では日本軍の毒ガスが2例出てきています。

・吸入式赤弾というものもあります。これが出てきた時は作業を中止させられます。青酸ガスのガラス容器もあります。

・これらの写真から、米軍の攻撃はまず海の向こうから榴弾砲を打ち込み、上陸した砲兵隊が砲撃を加え、その後、歩兵が接近して迫撃砲を打ち込んだということ、そして歩兵戦は超接近戦であったということが分かります。このように戦闘の形態、状況が分かるのです。

遺骨の写真から

 遺骨の部位の位置や方角、ばらつき状態などから死ぬ直前の戦闘状態が分かるという。具志堅さんは、発掘した日時、場所、遺品などを細かく記録し、写真に収め、さらに地図上に記録していくという。後に遺骨が遺族の元に帰る時の重要な資料となるからだという。

 真嘉比の遺骨の特徴は、骨がバラバラに砕けていて、全身骨で出てくることはとても少ないとのこと。片足しかなかったり一部しか出なかったりする。アメリカ軍の記録では「ミンチ状態」と記しているそうだ。

ここからは、遺骨の写真をもとに具体的な説明が続いていく。

・この遺骨から分かること。この人は蛸壺の中に隠れていて、敵が来たら打つという戦術をとっていたものと考えられます。蛸壺は直径90センチ、深さ 110センチ以上掘ったものです。自分の体を隠しつつ敵を打つという作戦であるが、敵がどんどんやってきたら逃げ場がなくなり、非常に生存率の低い使い捨 ての古い戦術といえます。

・この人は蛸壺の中で座ったまま亡くなっています。狙撃兵だった可能性が高い。

 この蛸壺の中にこの人が打った小銃弾の薬きょうがたくさんあります。鉄兜をかぶったまま打たれています。頭蓋骨に穴が開いていて、頭蓋骨の中から 105ミリ榴弾砲の破片が出てきています。榴散弾とは塹壕や蛸壺に隠れている日本軍を狙って、爆弾を空中爆発させて上空から攻撃する兵器です。

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・次の写真は、上半身ばらばらになっている遺骨の近くに五銭玉が一緒に出てきたものです。奥さんか母親がやってくれたのか出征する兵士のお守りとし て千人針の中に縫い込んでありました。4銭(死線)の次は五銭、すなわち死線を越えて生還するようにとの願いが込められていますね。本人も生きて帰りた かっただろうと思います。

・これはかんざしです。男の兵隊がかんざしを2本持っています。沖縄では出征する兵士にお守りとしてかんざしなどを持たせるということがあります。この人はウチナンチュウの人だったのでしょう。

 これらの遺骨や遺品は何を語るか、見る者に死の無数の有様と無念さをリアルに想像させる。遺骨たちは一体誰のために何を守るために死んでいったのか、沖縄戦とは何であったのかを深く考えさせる写真でした。(松浦)

最後に具志堅さんは・・・

 この作業に参加したホームレスの人は昼休みになっても5時の終了時間になっても作業を止めません。黙々と作業をやり続けるんです。決して怠け者で はありません。彼らはこの沖縄戦遺骨収集作業に参加して、自分の生き方と重ね合わせていろいろなことを考えることがあったようです。あるホームレスの人 は、「自分は沖縄に死ぬために来た」と言っていました。しかし、遺骨取集作業に参加して、死者と向き合い、生きていることや死ぬことの意味などを自分なり に消化して、自分の可能性とかまだやり直せることなどに気付いていったようです。
遺骨収集事業は「命の教育」でもあったのです。

 沖縄戦を学習するということは、生存のための学習だという言い方を私はしています。私たちが住んでいる足元から次々に死んだ人、殺された人の骨が出てくる。

 なんでこの人たちはここで殺されねばならなかったのかを考えるわけです。
私たちは二度とこのようなことは起こり得ないという保障を手にし ているのでしょうか。なぜ、こんなにひどいことが起こったのか、いつの時点で止めることができなくなったのか。そういう思いがずっと私にはあります。沖縄 戦を体験した人の話を聞くと、軍に対して異を唱えられる状況ではなかった、異議を唱えると非国民として見られてしまう、という。

 日本という国は、当時、大政翼賛会で国家の上から下まで国民自身含めて戦争に突き進んでいった。死ぬことでさえ名誉と言われた。みんなが間違った方向に突っ走っていった。それが動き出した時、誰も声を上げることができなかったわけです。

 今の我々だったら、主権在民、国民主権の立場から、異を唱えることができることになっています。しかし、その主権在民をほんとに自分のものにしているでしょうか。

 今、沖縄では、普天間でオスプレイ反対のゲート封鎖行動をやっています。はじめて沖縄の住民が軍と対峙して普天間の入り口を塞いでいます。そこに 警察がやってきて封鎖している住民と車を排除しようとしています。女性が乗っている車をバンバン叩いてガラスを割ってでも排除すると言っています。“警察 が米軍を守るために住民に牙をむいて噛みついた”というように私はとらえています。許されないことです。