第1回講演会 『第32軍司令部壕・説明板記述削除への思い』

第1回講演 2012年6月8日

村上 有慶さん (元・沖縄平和ネットワーク共同代表、戦跡保存全国ネット共同代表)

 「関西・沖縄戦を考える会」発足集会後、第32軍司令部壕・説明板問題で「説明板検討委員会」の委員である村上有慶さんに講演をいただいた。村上 さんは、沖縄平和ネットワーク元共同代表で、沖縄での大江・岩波沖縄戦裁判支援活動も担ってこられ、沖縄平和運動で中心的な位置におられる方です。現在 「戦跡保存全国ネット」の共同代表、「平和ガイドの会」などでも活躍されています。

「第32軍司令部壕・説明板記述削除への思い」

 今日、関西・沖縄戦を考える会の発足ということで感慨深いものがあります。「沖縄戦を考える会」という組織はかつて沖縄にも1977年に存在して いたし、その後この組織が現在の平和ネットワークに引き継がれているわけです。今、私は戦跡保存の運動を全国ですすめていますが、本日のテーマはその戦争 遺跡を保存する取り組みとも関連しています。東京・沖縄戦を考える会というものもありました。会長が藤原彰さんで、事務局長が高島伸欣さん、若手研究者に 林博史さんもいました。大阪でこのような運動が立ち上がったことを喜びたいと思います

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はじめに 32軍問題と今沖縄で起こっていること

 この首里司令部壕というのは大分以前から議論されてきました。1965年に沖縄の観光事業団が何とか海軍壕と同じように英霊を讃えるような形で観 光に使えないかというようなことで調査をしました。しかし、中心のところは爆破されていて、米軍の資料からでも中に入るのは難しいことが分かりました。で すから、遺骨や不発弾は地下に眠ったままです。掘り起すことは不可能に近いのが現状です。これを何とかしようと1992年に琉球新報社の記者と提携して1 フィート運動を起こし、首里城地下壕について1年間連載記事を書いてきました。証言を集め全県的な話題にしてきました。その結果、大田県政の時、1997 年に公開保存のための調査が行われました。その延長線上に今回の説明板設置の問題があるのです。

ここにそのときの「報告書」があります。

 報告書に「基本方針」というかたちで纏めてあります。今回委員になった時、その時の目的・意義を受けて書きたいというのが私たち委員4人の共通した想いでした。

*検討委員会委員の4氏

  • 赤嶺雅氏(沖縄県立芸術大学准教授)
  • 新城俊昭氏(沖縄大学客員教授)
  • 池田榮史氏(琉球大学教授)
  • 村上有慶氏(沖縄職業能力開発大学校教員)

〔1997年の基本方針の目的・意義〕

(1) 司令部壕は沖縄戦の実相を伝える語り部である。沖縄戦の本質は本土防衛のための時間稼ぎとしての沖縄戦であり、捨て石作戦であった。沖縄戦 は軍隊のみならず全ての住民を巻き添えにした総動員体制による戦争であった。このような沖縄戦の実相を後世に伝えていくということは元々県の方針であっ た。

(2) 文化の問題・・・(省略)

(3) 基本方針で、32軍壕は今日の沖縄を決定付けた歴史的戦跡であること。太平洋戦争、沖縄戦から半世紀をすぎた今日、沖縄戦に端を発する基地 問題が平和を望む県民生活に重くのしかかっている。32軍壕は今日の沖縄県民の苦難の歴史を決定付けた日本軍司令部壕として後世に伝えていかなければなら ない戦跡である、と確認しているのです。現代の沖縄基地問題の原因を作ったのは日本軍司令部壕であったと言い切っているのです。ですから沖縄戦の問題と今 日の基地問題は一本線でつながっている問題として議論していかなければならないのです。

 さらに基本方針の中では、次のようにも書いてあります。

 戦後世代が過半数を占め、戦争体験や教訓の風化が懸念される中、戦争の非情さ残酷さや醜悪さとともに、平和の尊さを学ぶ平和教育の学習の場として活用していく。

 だから保存のためにお金を掛けて補強し、残していくことを確認しているわけです。

 この基本方針に則って県は「説明板」を設置しようとしたわけであり、それを受けて私たち検討委員会が作られたのです。今回の県当局の措置は、このような経過が前提にあることを県自身が忘れているといわざるをえないのです。

1 検討委員会とは何であり、何を議論したのか

 2011年9月に私たちに県から打診がありました。第一回が10月25日に開かれ、4人の委員が集まりました。県の事務局員から32軍司令部壕の 説明板設置の提案がありましたが、県から提案された文案には沖縄戦の本質に関わることは書かれていなかったのです。摩文仁の資料館から引用した簡単な事実 経過だけしか書いてないので、私たちの議論の中でそれではダメだということになり、我々が改めて書くことになりました。委員会での議論は、碑の設置位置や 大きさ、高さなどの議論でした。限られた枠なので文字数は600字ぐらいでやってほしいといわれました。第一回の委員会は結局、事務局案をボツにするとい うかたちで終わったのです。

 11月22日に各委員が書いてきた文案を検討しました。それぞれが書いてきた文案を削りに削ってなんとか原案ができました。600字の制限の中で できたこの原案で沖縄戦の首里司令部の役割が表現できたかといえば正直、不満の気持ちは残っています。それでも、とにかく原案はできたのです。

 ところが2月16日に原案から「慰安婦」「住民虐殺」の記述を削除するという電話が事務局から池田委員長に入ってきたのです。池田委員長の了解を もらえればいいという言い方であったというのです。池田さんからその経過についてのメールが私に届き、私は当局のやり方に疑義の意思を伝えました。すると 私のところへも説明にやってきました。何で削除するのかと聞いたら「確証がない」、誰が決済したのかと聞けば、「部長です」、何があったのかと聞くと、 「一部からの反対意見があった」という。

 そこで、責任者である下地環境生活部長に会見の要請をしたがそれも実現しない。それで事態をマスコミに知らせ、県議会でも取り上げていただきまし た。知事は、最初は知らない、分からないというだけだったが、翌日になって「不適当だったから削除した」と答弁。その後、下地部長と2回話し合ったが、議 論にならない。共通理解を得るというのではなく一方的に削除するというだけでありました。

 状況打開のために、委員4人の連名で2月23日に検討委員会として、撤回を求める「意見書」を出しました。これ以降、新聞やマスコミで取り上げら れるようになったのです。それでも不誠実な態度が改善されないので3月28日に、仲井真知事と下地部長に対して同じく4名連名で「抗議声明」を出しました。

〔抗議声明の要旨〕

…検討委員会の委員で作成した「第32軍司令部壕説明文」の案文から「慰安婦」「住民虐殺」の文言を一方的に無断で削除した件をめぐり、委員長が検 討委員会開催の「要望書」を提出し、2月28日に下地部長と会う約束を取り交わしていたにもかかわらず、県当局は何の連絡もなく、会見より前の2月24日 に削除したままの説明板を設置してしまった。これは検討委員に対する何という不誠実な行為であろうか。二重三重の裏切りである。・・・検討委員会とは何 だったのか。議論させ、説明文を検討させておきながら、『参考意見を聞いただけ』という態度はまったくの侮辱というほかありません。・・・「沖縄戦の実相 を伝える」ものと謳っていながら、その根幹となる「慰安婦」や「住民虐殺」を削除し、翻訳文からは、「捨て石」「南部撤退が住民の戦没者を増加させた」ま で消し去った。

 ・・・沖縄戦の研究の到達点や沖縄戦の事実を語る普遍性をないがしろにして学問的、歴史的事実を沖縄県の名によって踏みにじった事実は厳正に受け止めるべきだ。

・・・わたしたちは、説明板が沖縄県民の総意の下に製作されたものになるまで検討委員会委員としての職務を遂行する覚悟である。それが行政からの依頼ではなく県民からの付託に応えるということだと信じる。

2012年3月28日

 県の「設置要綱」では委員会は委員長が召集するとなっているがこの設置要綱でさえないがしろにした非常に稚拙な行政の手法であった。公的委員として腹立たしいかぎりである。

 一部右翼から抗議があったことで削除したのかなと私も憶測はしました。実際に池田委員長のところへ嫌がらせの電話があり、メールが80何通(発信 元は一箇所の可能性あり)届いております。しかし文書で来ているのは1通だけである。下地部長自身、右翼の攻撃があったから削除したということではありま せん、と明確に述べている。ですから今回の問題は右翼の嫌がらせに屈して削除したというようには考えにくいのです。

 実はそこに大きな落とし穴や問題があると考えています。文科省や国から言われた不条理なことについては、沖縄県民は大きな集会を何度も開いてき た。そして跳ね返してもきた。しかし、今回は違う。県知事自身が削除してきたのです。県の中から起きてきた問題、だから県民大会を開いてどうこうしていく というようにはなっていないのです。

2 第32軍司令部壕で何を語るべきか

「第32軍司令部壕説明文」を見てください。

 県の職員が打って、削除の二重線をいれたのも県の職員です。項目が三つあります。

 第32軍司令部壕説明文

第32軍司の創設と司令部壕の構築

 1944(昭和19)年、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、沖縄師範学校など多くの 学徒や地域住民が動員されました。1945(昭和20)年3月、空襲が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。

 壕内は五つの坑道で結ばれていましたが、現在、坑口は塞がれ、中に入ることはできません。

第32軍司令部壕内のようす

 司令部壕内には、牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属・慰安婦などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二,三段ベッドが並べられました。壕生活は立ち込める熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました。

司令部壕周辺では、日本軍に「スパイ視」された沖縄住民の虐殺などもおこりました。

第32軍司令部の南部撤退

 1945年5月22日、日本軍司令部は、沖縄島南部の摩文仁への撤退を決定しました。本土決戦を遅らせるための、沖縄を「捨て石」にした持久作戦をとるためでした。

 5月27日夜、本格的な撤退が始まり、司令部壕の主要部分と坑口は破壊されました。司令部の撤退にともなう、軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。

 5月31日首里は米軍に占領されましたが、沖縄戦によって、首里城正殿をはじめとする琉球王国の歴史を物語る貴重な文化遺産は失われてしまいました。

 

(1) 「第32軍の創設と司令部壕の構築」では、学徒動員や防衛召集があって、沖縄の将来ある貴重な学徒たちが犠牲になっていったことを書きた かった。根こそぎ動員が基本方針であったのです。さらに、食糧強奪、壕追い出しなど、中国戦線で侵略軍として三光作戦をやった軍隊が沖縄守備軍であったと いうことも書きたかった。しかし字数の制約でそれらは書けなかった。結果として非常に不十分になってしまった。

(2) 「第32軍司令部壕内の様子」では、日本軍は慰安所を設置した。朝鮮人慰安婦がいた。慰安婦がいたことは事実なので「慰安婦」の3文字を原 案に書き込んだ。しかし、「慰安婦」と「日本軍にスパイ視された沖縄住民の虐殺などもおこりました」の文には二重線が引かれ削除されたのです。

(3) 「第32軍司令部の南部撤退」では、日本軍司令部は南部の摩文仁に撤退、本土決戦を遅らせるための、沖縄を「捨て石」にした持久作戦であっ た。沖縄戦で10数万人の死亡があったが、5月の首里司令部壕から南部撤退以降に死んだ人が半分以上であった。なぜこんなに多くの人が死んでいったのか、 それは首里を撤退したからである。

 最後に、琉球王国の歴史を物語る貴重な文化遺産が失われたということ。今、首里城は立て直されて世界遺産とされているが、本当の文化遺産はこの地下にありますよ、と言いたいのです。

3 「沖縄住民スパイ視による住民虐殺」と「慰安婦がいた」証拠資料について

〔根拠となる史料〕

<「住民スパイ視による住民虐殺」について>

(1) 1944年8月31日「牛島司令官訓示」、7つの訓示で「現地自給ニ徹スベシ」「防諜ニ厳ニ注意スベシ」と最初から沖縄戦の方針をこのように決めていた。

(2) 沖縄戦とは何だったのかを端的に示したものが、1945年1月19日「帝国陸海軍作戦大綱」

 「皇土防衛ノ為縦深作戦、…前縁ハ南千島、小笠原、沖縄本島以南の南西諸島、台湾、上海、…敵ノ上陸ヲ見ル場合モ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且ツ敵航 空基盤造成ヲ妨害ス」。これによれば、沖縄は日本国内と考えられていたのだろうか、軍事的には沖縄は外地扱いにされていたと思わざるを得ない。米軍に出血 消耗を強制し、本土攻撃のための空港を作らせないという作戦意図も読み取れる。

(3) スパイについては、1945年4月9日「球軍会報」「日々命令録」がある。「…標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲモッテ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分」とある。

(4) 「捨て石作戦」については、1945年5月22日「新作戦計画」で「多クノ敵兵力ヲ牽制抑留スルトトモニ、出血ヲ強要シ、モッテ国軍全般作戦ニ最後ノ寄与ヲスル」と記されている。

(5) 1945年6月19日「最終命令」では、「今ヤ刀折レ矢尽キ運命旦夕ニ迫ル。軍司令官ノ指揮ハ至難とナレリ、各部隊ハ…生存者中ノ上級者之ヲ指揮シ、最後マデ敢闘シ、悠久ノ大義ニ生クベシ」となっている。

 首里で戦争が終っておれば多くの沖縄県民は死ななくてもよかったのではないか、実は32軍司令部は、沖縄戦の最後は首里で終りたいと考えていたよ うに思われる。西原方面で5月3,4,5日、天皇の命令で総反撃に打って出るという激戦が戦われた。北海道出身で編成された部隊が全滅に近い戦死者をだし た。だが天皇の命令があり大本営は首里での降伏を許さなかった。それで首里を撤退し、南部へ移動し敵を引き付けて時間稼ぎをする。

 かつて中国で戦闘した部隊は沖縄を外地と考え、沖縄人をスパイ視した。このことは、八原参謀長の作戦を読めば分かることです。沖縄戦での軍の作戦は中国侵略軍の意識から変わったものとは考えられない一貫したものであったことが分かります。

<「慰安婦」の問題について>

 元「慰安婦」だった人で「わたしが慰安婦でした」と証言している人はいない。自ら証言する人がいないから「根拠がない」という人がいる。それで私たちの作業は外堀から埋めて「慰安婦」の存在を証明していくことになります。

具体例、

(1) 大迫亘(長勇の特務員)が「薩摩のボッケモン」を1980年代に書いている。そこに偕行社があり、20名を募集し沖縄までつれてきた。偕行社とは将校クラブみたいなものです。軍の命令で慰安所が設置されたのは間違いないことです。

(2) 山川泰邦(那覇警察署員)証言、「各部隊ハ競ウテ慰安所を設置」という記録がある。

(3) 1945年5月10日の「球軍日日命令107号」には、第一、第二、第三、第四梯団まであり、それぞれの梯団を首里司令部壕から脱出させた と記されている。そこには「若藤及病院」という記述がある。若藤とは「若藤楼」のことであり、ここの女性たちを第4坑道から脱出させたと書いてある。若藤 楼に居た女性たちは「球クラブ」と呼ばれて首里の司令部にいたという記述もあるのです。

(4) さらに当時の状況、周辺の状況については、1944年9月の「石兵団会報」に「本島に置いても強姦罪多くなり…一兵に至るまで指導教育のこ と」という記録があります。野里洋「汚名第26代沖縄県知事 泉守紀」では女性をめぐって兵隊たちの殺気立った様子が記されている。

 1945年5月10日の命令書には34名の実名まで記されています。

 ここまで資料があるのに、県当局は「確証がない」と言い張るばかりです。議論にならないのです。それで、この説明板の原文は私たちが書いたものだから著作権は私たちにあると主張しているのです。元の原文に戻せという権利が我々にはある。

4 オーラルヒストリーに裏付けられた戦跡を残し、文化財として指定し、伝えていく視点

(1) 沖縄戦を語るには住民の声で反論していく。大江裁判では梅澤たちの言葉より、多くの住民の証言の方に迫真性、真実性があると認定した。家永裁判では当時の文部省は沖縄県史を馬鹿にし、第一級の史料ではないといってきたが住民の視点で語ることが大切である。

(2) 証言に裏付けられた戦跡を文化財として残していく。戦跡、遺跡は全国で180箇所あり、私たちはそれらを文化財に指定せよと文化庁に要求し ています。戦跡の本の発刊に向けて文化庁に原稿を提出しているが一年も経つのにまだ発刊できていない。その背景には沖縄戦の記述問題が関係しているように 思われます。これも今後争点になりそうです。

(3) 「負の遺産」として事実を客観的に伝えていく。これまで負の遺産として最初に登録されたのは「アウシュビッツ」でした。原爆ドームを世界遺 産に登録していく時、当時、なかなかそうはならなかった。何がネックになっていたか、それは日本政府がこれを文化財と認めようとしなかったからでした。世 界の進歩に日本の進歩が追いついていないということです。歴史的事実があり、そこで何が語られるべきか、という視点が大切だと私は考えているのです。

5 沖縄から見えること

 アメリカと日本政府の官僚は賢いということ、どうやって住民の口封じをやっていくかということを巧妙にやってきた。復帰40年経って議論になって いることだけでも明らかになった密約が5点あります。沖縄返還とは何のためだったのか、日本軍への肩代わりと強力な軍事基地を維持強化するためであった。 それが現在でも沖縄に基地があり続ける原因である。オスプレィを今年沖縄に配備すると言っている。これは体を張って阻止しなければならないと考えていま す。

 今、反戦地主の運動は窮地に追い込まれています。1982年に特措法適用があった。その後、特措法の改悪が相次いで進んだ。それまでは、沖縄の人 の土地を民主的手続きなしに勝手に取り上げることはできなかった。きちんと所有者の意見を聞いて公開審理していかなければならなかった。その適用法が一転 して総理大臣のハンコで取り上げることができるようになってしまった。反戦地主に物を言わさないという状況になった。違憲訴訟の闘いも今闘う材料がない、 法的に闘う手段が奪われてしまったのです。

 なぜ沖縄では、こんなにも様々な問題で騒ぎになるのか。石垣市で靖国派の中山市長が当選した。宜野湾市でもそうです。大阪市で橋下が当選したのと 変わらない事態が起きている。なぜ、全国的にこうなっているのだろうか。アメリカとの安保条約を最優先するという国家になっているからだと思います。昔は 社会党、共産党が国会で反安保の論陣を張って戦っていた。今、行政の中では安保論議をする必要がない、行け行けどんどん状態。このような状況になった原因 の一つは1997年の新ガイドライン、これが一里塚だったといえます。2005年以降の日米共同声明を読んでいくと、アメリカが何を考えているかが分かっ てきます。中国主敵論がある。中国といかに戦争するか、そのために極東の軍事配備をどうするかということです。北朝鮮のテポドンの問題もあるが、それで戦 争になるという考えは幼稚としか言いようがない。

 では中国と本当に戦争ができるでしょうか。できないと思う。日本の主要工場は中国に相当数進出しているし、食糧は圧倒的に中国に依存している。日 中は経済的に相互依存し合っている。仲良くすべきであり、問題を起さないように外交というのはじっくり議論していくものなのです。中山市長が尖閣列島に上 陸したり、石原知事が尖閣を買うなどと公言したりして日本内外を刺激している。それで沖縄の漁業者の危機感は高まっているのです。多くの人は安心して漁業 をしたいと考えているのです。だれも中国と事を構えたいとは思っていません。愛国心を煽ったりしているのはまったくばかげている。本当に中国と戦争してい い、北朝鮮と事を構えていい、と考えている人がいるのでしょうか。いないと思います。

 今日、安保問題などを国会できちんと議論すべきなのに、それは飛ばされて政府からの「発表」だけが示されてくる。今の日本は、日米安保の再改悪、 軍国主義に走っている。それが沖縄から見えてくる今の日本の姿です。野田さんはそんなことを理解しているでしょうか、日本の安全を本気に考えているでしょ うか。このようなことと、今回の首里の問題、「慰安婦」、「集団虐殺」を削ることとは関連があると思います。このような流れと関連して島嶼の子どもたちに 育鵬社の教科書を渡し愛国心を煽る必要があったのです。竹富町の23人の中学生たちには住民のカンパで東京書籍の教科書が手渡されました。しかし何も解決 していません。大江・岩波裁判は勝ちましたが文科省は教科書検定を撤回しましたか?何も動いていない。民主主義、憲法などまったく無視する一方的な手法で 日本がどんどん悪くなっていっています。

 高江で8歳の子どもを妨害したとして訴えたり、県庁では早朝4時に防衛省の環境評価書を搬入するなどという無茶苦茶がまかり通っている。やること が馬鹿げている、子どもじみている。それほど軍国主義化せざるを得ない状況に日本という国は追い込まれている。単に「慰安婦」、「住民虐殺」の文字が削ら れたというだけではなく、このような問題は必ず全国化していくものです。私たちは説明板が設置されたから負けた、と言うことではなく、今後も粘り強く書き 換えの運動をしていきます。大阪からも声を上げて支援していただきたいのです。(拍手)