大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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被告準備書面(6)要旨

2006年11月10日

(原告ら準備書面(4)第3(不法行為責任の発生時期について)に対する反論)

1 本件書籍一「太平洋戦争」について

 原告らは、座間味島の集団自決について、梅澤命令説は、宮城初枝氏が「家の光」に寄せた手記が唯一最大の根拠としたうえで、1985年(昭和60年)7月30日付神戸新聞記事(甲B9)が掲載された時点で、梅澤命令説の根拠が失われて、相当性が揺らぐことになり、1987年(昭和62年)4月18日付神戸新聞に、宮村幸延氏の「証言」(甲B8)とインタビュー記事が掲載されたことにより、梅澤命令説の虚偽性が明らかになり、宮城晴美氏の「母が遺したもの」(甲B5)が出版されたことにより、梅澤命令説の虚偽性が広く知られるようになったと主張する。

しかし、すでに詳細に主張したとおり、座間味島における集団自決については、隊長命令若しくは軍の命令があったことを示す資料が多数存在し(被告ら準備書面(5)8頁以下)、宮城初枝氏が「家の光」に寄せた手記が梅澤命令説の唯一最大の根拠ということはない。

 座間味村が作成した「座間味戦記」(乙3−7頁、甲B23−10頁)は、多数の村民の証言をもとに、隊長の自決命令があったとしており、沖縄タイムス社の問いあわせに対する座間味村の回答文書(乙21−1、2)も、「部隊による自決命令はあった。真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している。他の多くの証言者も部隊命令又は軍命令があったと述べている。」とし、多数の証人の氏名を掲げている。また、大城将保氏も、同氏が直接座間味島で調査した結果として、「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」としている(甲B25)。「母が遺したもの」(甲B5)によると、宮城初枝氏は、1977年(昭和52年)3月になって、1945年(昭和20年)3月25日夜に原告梅澤に会った際には隊長の自決命令はなかったと宮城晴美氏に告白するに至ったとされているが、これは、この面会の際に隊長命令がなかったということにはなっても、これによって日本軍の隊長命令がなかったことにはならない。

また、宮村幸延氏は、同氏の「証言」(甲B8)を作成した記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べているほか、仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられた同氏が、原告梅澤から「妻子に肩身の狭い思いをさせたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないから」と言われ、何の証拠にもならないことを申し添えた上で作成したもので、同氏の認識や意思に基づくものとはいえない(被告準備書面(3)3〜5頁参照)。

そして、上記1985年(昭和60年)7月30日付及び1987年(昭和62年)4月18日付神戸新聞記事の掲載後も、沖縄タイムス社の問い合わせに対する座間味村の回答(昭和63年1月30日付 乙21―1)において、部隊命令が存在したことが明確に記載され、座間味村の沖縄県援護課等への回答書(乙21―2)においても、自決命令があったとする多数の証言があることが記載されている。また、1989年(平成元年)10月に復刻された「沖縄県史 第10巻」(乙9)においても、梅澤隊長の自決命令は、訂正されることなく記述され、2000年(平成12年)に「母が遺したもの」が出版された後においても、現在に至るまで、「鉄の暴風」(昭和25年8月15日発行 乙2)や「沖縄県史 第10巻」(乙9)などの梅澤隊長の自決命令の記述は訂正されることなく、出版されている。

したがって、上記各神戸新聞記事の掲載によって、梅澤隊長による自決命令の存在の根拠が失われた、あるいは梅澤命令説の虚偽性が明らかになった、などとは到底いえず、また「母が遺したもの」(甲B5)によって、梅澤命令説の虚偽性が広く知られるようになったなどということもない。

原告は、2002年(平成14年)に本件書籍一「太平洋戦争」(文庫版)が出版された当初から不法行為が成立すると主張するが、以上のとおり、梅澤隊長による自決命令が存在したことは真実であり、また、本件書籍一が出版された平成14年においても、現在においても、これを真実と信じるにつき相当の理由があるものである。

2 本件書籍三「沖縄ノート」について

  原告らは、1973年(昭和48年)5月に曽野綾子著「ある神話の背景」が発行され、赤松隊長命令を真実と信じる根拠は全く失われ、相当性の欠如が明らかになったと主張する。

  しかし、すでに述べたとおり、「ある神話の背景」の記載は一方的なものであって、事実の記述について信用性があるとはいえない(被告準備書面(3)17頁以下)。また、すでに詳細に主張したとおり、渡嘉敷島における集団自決について、赤松隊長による自決命令が存在したことは、赤松隊長命令の存在について記載した多数の資料から明らかである(被告準備書面(5)14頁以下)。

  したがって、1973年(昭和48年)5月の「ある神話の背景」の発行によって、赤松隊長命令を真実と信じる根拠が失われ、相当性の欠如が明らかになったなどということはない。

  「ある神話の背景」が発行された1973年(昭和48年)以後今日まで、赤松隊長命令について記載した「鉄の暴風」(昭和25年8月15日発行 乙2)や「沖縄県史第8巻」(昭和46年4月28日発行 乙8)等の記載は訂正されていない。「ある神話の背景」の発行後も、1988年(昭和63年)6月16日付朝日新聞記事(乙12)に、1945年(昭和20年)3月20日ころ、赤松隊の指示により集められた村民に対し、兵器軍曹が手榴弾を2個づつ配り、「1個は敵に投げ、残る1個で自決せよ」と訓示し、同月27日、赤松隊長は兵事主任を通じて住民を軍陣地近くに終結させ、翌28日に住民が集団自決を図ったとの富山真順氏(元兵事主任)の証言が掲載され、赤松隊長による自決命令の存在を裏付ける事実が公表されている。そして、1990年(平成2年)3月31日に発行された「渡嘉敷村史」(乙13)においても、赤松隊長による集団自決命令があったことが明記されており、これらの記載は、現在に至るまで訂正されていない。

  以上の点から、赤松隊長による自決命令が存在したことは真実であり、虚偽でないことは明らかである。

以  上

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