大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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被告準備書面(7)の要旨

2007年(平成19年)1月19日

第1 自決命令があった事実―被告らの主張(補充)

座間味島、渡嘉敷島の集団自決が軍(隊長)の命令によるものであり、援護法の適用を受けるため軍命令が作出されたものでないことは、すでに繰り返し主張したとおりであるが、さらに以下のとおり主張を補充する。

 1 米軍の「慶良間列島作戦報告書」―「軍の自決命令」の存在

   米軍歩兵第77師団砲兵隊の慶良間列島の作戦報告書が、2006年夏、関東学院大学の林博史教授によって米国公文書館で発見された(乙35の1,2沖縄タイムス記事)。

   1945年(昭和20年)4月3日付の報告には、「約百人の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もうひとつは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」と記されており、別の作戦報告書には、座間味島の状況について、「治療が必要な民間人には第一医療部隊によって応急手当がなされ、さらに第六十八移動外科病院によってきちんとした治療が施された。一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療した負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」と記されている。また、軍政府分遣隊の同年4月1日付作戦報告には、「一人の女性は砲弾の破片によって首に深い傷が口をあいていた。ジョン・マッカートニー軍医大尉が最初に治療したのは、父親の手によって殺されようとして、あるいは自殺しようとして首を切られた母親と赤ん坊であった。殺人あるいは自殺を試みた―そして実際に死んでしまった―ケースはたくさんあり、そうした行為は、日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女たちは強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった」と記されている(乙35−2)。

   以上のとおり、集団自決の直後に米軍に保護された慶良間列島の島民は、その当時から、捕虜になることなく自決するよう軍に命じられていたと証言していたことが明らかである。援護法適用のため実際には存在しなかった軍命令が作出されたとの原告らの主張が誤りであることは明白である。

 2 隊長命令による集団自決は当初から「戦闘参加者」に該当するものとして援護法による補償の対象とされていたこと

 (1)馬淵新治氏(引揚援護局勤務・厚生事務官)執筆資料など

    元大本営船舶参謀であった馬淵新治氏は、復員後厚生事務官となり、昭和30年(1955年)3月から33年(1958年)7月まで総理府事務官として日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務し、沖縄において援護業務に従事していたものであるが、防衛研修所戦史室の依頼により、「住民処理の状況」(乙36。その記載内容から昭和32年初めに執筆されたことが明らかである。陸上自衛隊幹部学校発行「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」昭和35年5月・所収)を執筆し、さらに昭和35年11月には沖縄戦史図上研究会において「沖縄事情の一斑と沖縄戦における島民の行動について」と題する講話をし、その内容は陸上自衛隊幹部学校昭和36年1月発行の『沖縄戦講話録』に収録されている(乙37)。

    馬淵氏は、「住民処理の状況」(乙36)において、沖縄において日本軍人が、住民に無用の圧迫・暴行を加え、威嚇強制のうえ住民を壕から立ち退かせ、非常用食糧を強奪し、母親に強制して赤児を殺害させ、無実の住民をスパイ視して処刑するなどの蛮行を働き、住民に悪感情を持たれていたことなどを指摘している(乙36・17〜26頁)ほか、戦闘協力者(戦闘参加者)として住民を遺族援護法の適用対象とすることについて、「今年(引用者注;昭和32年)は沖縄戦の13周年忌を迎えることになった為、これが早急の処理が強く叫ばれ、近く厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣せられる段階となった。この所謂戦斗協力なるものの実態調査によって、国内戦の一様相が想察せられると思われるので、以下現在迄に調査した主要事項について述べることとする」(乙36・41頁)としたうえで、「戦闘協力者」(戦闘参加者)に該当するものとして、「慶良間群島の集団自決 軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。 自決者 座間味村155名 渡嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。

    また、馬淵氏は、前記講話(乙37)では、「慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております」と述べている(4−31頁)。

    すなわち、馬淵氏は昭和30年(1955年)に赴任して以来、座間味島や渡嘉敷島を訪問し、調査をしていたものであるが(乙36・4−31頁)、両島の住民は部隊長から自決命令があったと証言していたもので、日本政府(沖縄南方連絡事務所)も当初から、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていたものであることが明らかである。すなわち、日本政府が集団自決を「戦闘協力者」(戦闘参加者)には該当しないとしていたのに陳情により対象としたというような経緯はなかったことが明らかである。

 (2)昭和32年(1957年)5月の「戦斗参加者概況表」など

    上記のとおり、馬淵氏は昭和32年初頭に、同年に厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣される予定であるとしているが、琉球政府社会局作成の「援護のあゆみ」(乙38)にも、「昭和32年は偶々沖縄戦関係戦没者の十三回忌に当たったので本年度を期して援護全般、特に死没者の復員処理を劃期的に促進すべく再び厚生省より復員担当の三事務官を招聘して、復員事務の促進と新たに沖縄戦関係戦闘協力者の処理を取り上げ、これが事務の促進を期したのである」と記されている。

    また、琉球政府社会局は、すでに昭和32年(1957年)3月22日に、市町村長あて「戦斗協力者の資料送付について」(乙39−2)、「戦斗参加者申立書の記載要領について」(乙39−3)、「沖縄戦における一般戦斗参加者の状況について」(乙39−4)を送付しているが、この中で、「渡嘉敷、座間味の離島において軍命により玉砕と称して多数の住民が集団自決をなし、其の惨状は酸鼻を極め、眼をおおわしむるものがあった」(乙39−4)と記述されており、また、その記載内容から琉球政府が作成したと考えられる昭和32年5月の「戦斗参加者概況表」(乙39−5)には、「座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決」が、戦闘参加者の20類型の一つとして掲げられている。

    そして、昭和32年7月に至り、日本政府厚生省において沖縄戦の戦闘参加者処理要綱が正式に決定されたが(乙16「還らぬ人とともに」94頁)、集団自決は戦闘参加者の20の区分の一つとされた。

 (3)以上のとおり、昭和32年(1957年)初頭から軍人や軍属ではない戦闘協力者を戦闘参加者として遺族援護法の適用対象とすることが検討された際には、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決は、当初より隊長命令によるものとして補償の対象とされていたもので、対象外とされたため隊長命令があったことにして補償の対象としてもらったというようなことはなかったことが明らかである。

 3 宮村幸延氏の陳情の時期について

   原告らは、当初集団自決は援護法の適用対象とされなかったため、座間味村役場の援護係であった宮村幸延氏が厚生省に陳情し、隊長の自決命令があったのならとの示唆を受け、実際にはなかった隊長命令を作出したかのように主張するが、上記のとおり、集団自決は当初より隊長命令によるものとして援護法の適用対象とされていたものである。援護関係表彰にかかる宮村幸延氏の「功績調書」(乙40−2)には、同氏は「1957年(昭和32年)8月に慶良間戦における集団自決補償のため上京」と記録されており、同氏が上京し功績を果たしたのは同年5月の前記「戦斗参加者概況表」や同年7月の前記「戦闘参加者処理要綱」決定の後のことであることが明らかである。乙16によると、処理要綱決定後も適用年齢が問題となり、その後7歳以上で線を引くことになったとあり、幸延氏は適用年齢について陳情をしたと推察される(1963年(昭和38年)10月にさらに0歳まで適用を拡大)。

   原告梅澤の陳述書(甲B1)8頁記載の幸延氏の話として記載された事項は、上記の客観的な経過と著しく相違し信用できないものであるが、同陳述書においても幸延氏の陳情は14歳以下への適用拡大についてのものであるとされている。

   すなわち、宮村幸延氏の適用年齢引き下げの陳情以前に、すでに座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決は、当初から遺族援護法の適用対象とされていたものであり、援護法の適用対象とするため、実際にはなかったのに隊長命令があったことにしたような事実がなかったことは明らかである。

第2 平成18年9月1日付原告準備書面(4)に対する反論

 1 同準備書面第4(原告梅澤の補充陳述書)について

 (1)同2(宮村幸延の『証言』について)について

    否認する。陳述書に記載された原告梅澤の主張は、宮城晴美氏が聴取した宮村幸延氏及びその妻文子氏の事実認識(乙18『仕組まれた『詫び状』117〜118頁、甲B5「母の遺したもの」268〜270頁)と著しく相違するものである。

    すなわち、原告梅澤は、昭和62年(1987年)3月28日に一人で幸延氏を訪問したのではなく、前日から幸延氏が経営する民宿に他の元兵士らと宿泊していたものである。戦友と称する二人の男が前夜から幸延氏に泡盛を飲ませ、当日朝も泡盛を飲ませたものである。幸延氏は酒好きで、酒を飲むと泥酔し前後不覚の状態となってしまうのが通例で、このときもそのような状態となり、妻の文子氏に叱責されていたもので、甲B8の『証言』を書いたことはまったく記憶していなかった。

    また、このとき幸延氏が突然自ら謝罪し援護法を適用するため軍命令を作り出さなければならなかった経緯を語ったという事実はない。すでに繰り返し述べたとおり、また、本準備書面第1に記載したとおり、座間味村では、集団自決が行われた昭和20年当時から、集団自決は日本軍の命令によるものであると認識されていたもので、援護法を適用するために軍命を作り上げたものでなかったことは明らかであり、幸延氏が自らそのようなことを言い謝罪するなどということはありえないことである。

    原告梅澤は何かを書いた紙を幸延氏に差し出し、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ」とせがんだが、幸延氏は文面を確認する気もなく、これを拒否しつづけたものである。もしこのときに甲B8の『証言』が作成されたものであるとするならば、泥酔して前後不覚に陥った幸延氏に原告梅澤がしつこく懇願し無理やり捺印させたものとしか考えられないものである。幸延氏は、平成17年1月上旬に宮城晴美氏から「昭和史研究会報」に掲載された『証言』そのものをはじめて見せられ、怒りでブルブル震え、「あのときは前夜の酒が残った状態で朝から飲まされ、何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由はないし、書けるわけもない」と述べた。幸延氏はその後平成18年7月20日に病気で死亡した。

    昭和63年(1988年)当時の座間味村長の沖縄県援護課あての回答(乙21の2)には、A氏(幸延氏)が朝6時頃から旧日本兵二人と酒を飲んでいたところへ、午前10時頃になって原告梅澤が入り込んで来て、「私も年だ妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない。茲に原稿を書いてきてある、私の字体は判るので書き直して捺印を頼む」と強要し、家族だけに見せるもので絶対に公表しないことを堅く約束するとのことで、仕方なく応じ、これはなんの証拠にもならないことを申し添えたとある。

    書面を書き捺印したことを幸延氏が記憶していたかどうかの点で、宮城晴美氏の聴取内容と相違するが、仮に甲B8の『証言』が幸延氏が捺印したものであるとしても、原告梅澤が「家族だけに見せるもので、絶対公表しないことを堅く約束する」と繰り返し懇願、強要し、情に弱く酒に酔って判断能力が著しく低下していた幸延氏が、事実に反する書面に捺印させられてしまったものと考えられる。

    この昭和62年(1987年)3月28日から3週間後の4月18日付の神戸新聞(甲B11)に、Aさんが原告梅澤に対し上記『証言』のような親書を寄せたとの記事が掲載され、騒ぎになったが、このとき幸延氏は、「騙された」と怒りと悔しさ一杯の様子であった(乙41)。

    また、原告梅澤は、沖縄タイムス社の新川明氏らとの会談(昭和63年12月22日)において、甲B8の『証言』を書いた当時幸延氏が酒に酔っていたことを認めており、また、幸延氏から公表しないでほしいと言われたことを認めている。

    以上のとおり、仮に甲B8が幸延氏のものであるとしても、甲B8の『証言』は、原告梅澤が、「妻子に肩身の思いをさせたくない、家族を納得させるためだけのものであり、絶対に公表しない」と騙して、幸延氏から入手したものであり、その記載内容は虚偽である。

    宮村幸延氏にとって、梅澤隊長の自決命令によるとされていた集団自決が自分の兄の宮里盛秀の命令によるものであることを認める書面に公然と捺印するなどということは、それが虚偽であるというだけでなく、集団自決という極めて悲惨かつ重大な出来事の責任を自分の兄や自分がその跡を継いでいる宮村家の責任としてしまうことであり、およそありえないことである。上記『証言』を原告梅澤が自己弁護の宣伝に利用していることを知ったときの幸延氏の怒りと悔しさは計りしれないものがある。

    座間味村の約300名の住民の集団自決は軍の存在、軍の指示・命令なしにありえなかったものであり、村における最高権力者であった原告梅澤にその責任があることは明白である。それにもかかわらず原告梅澤は、宮村幸延氏を酒に酔わせ、家族に見せるだけだからと騙して、虚偽の事実を記載した『証言』に捺印させたうえ、自己弁護のため、これを友人の神戸新聞の記者に見せて記事を書かせたものである。原告梅澤の行為は、家族を思う心に同情した幸延氏の厚意を裏切り踏みにじるものであり、その態度は不公正かつ不当極まりないものといわざるを得ない。

 (2)同3(沖縄タイムス社との会談(昭和63年12月22日)について)について

  原告梅澤は、陳述書(2)(甲B33)において、昭和63年(1988年)12月22日の原告梅澤と沖縄タイムス社との会談について、「最後には、応対した3名が揃って、私が自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪したのです。そして、間違いを訂正するとはっきり約束しました。」(6頁)と述べ、原告はこれに沿った主張をし、かつ、原告梅澤が『鉄の暴風』の自決命令の記事について訂正や謝罪を求めないと言明した事実はないと主張するが、原告梅澤の上記陳述が虚偽を述べたものであり、原告の上記主張が誤りであることは明白である。

  すなわち、沖縄タイムス社の新川明氏らは、原告梅澤の謝罪要求に対する回答文(甲B30)を示して、終始訂正や謝罪を拒否したものであり、原告梅澤は会談の最後に、「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」と述べ、沖縄タイムス社側が捺印を求めた「覚え書」(甲B29、集団自決は部隊命令によるとの座間味村の見解を支持する沖縄タイムスに対して謝罪を要求しないことなどを確認する文書)については、「心配しないでください。わしら二人は侍だからね、こんなもの判つかんでも、全然ご心配なく。こんなもんね、二度と口にしませんから」と言明したもので、立会った原告梅澤の友人であり陸士同期の岩崎氏も、「もうこれから一切この問題について、梅澤に何も言わせません。わしが。同期生として」と述べていたものである。

  なお、原告は、甲B28「謝罪の事」は原告梅澤が口述したものを新川明氏が書き取ったものであると主張するが、同書面は新川氏が書いたものではない(乙42)。

  また、以上のことから、原告梅澤は本件訴訟において虚偽の事実を述べ立てていることが明らかであり、原告梅澤の陳述は他の点においても信用することができないものである。

 (3)同4(『母の遺したもの』と初枝からの手紙)について

    宮城初枝氏が原告梅澤に詫びたことが事実であったとしても、それは昭和20年(1945年)3月25日の夜に初枝氏が助役らと原告梅澤に面会した際に原告梅澤から自決命令を受けていなかったということについてであり、だからといって座間味島において日本軍(梅澤隊長)の自決命令がなかったことになるものではない。また、すでに繰り返し指摘しているとおり、梅澤隊長は沈黙したのち沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰りください。お帰りください」とだけ述べたというのであり(甲B5・39頁)、「自決してはならん」と述べてはいない。

    また、初枝氏は、忠魂碑前集合を住民は軍命令だと受けとめていたと述べている(甲B31)。

 2 同第5(記者の陳述書と神戸新聞報道)について

 (1)昭和60年、61年、62年の各神戸新聞記事(甲B9,10,11)の取材・執筆を担当したという記者の陳述書(甲B34)が提出されているが、その成立は不知。また、同陳述書が記者のものであり、上記神戸新聞の記事の取材・執筆を同記者が担当したのが事実であるとしても、同陳述書の記載内容を信用することはできない。

    上記各記事は、座間味島の集団自決が日本軍の隊長命令によるとされてきた確たる歴史的事実について、これを覆す証言がなされたとするもので、極めて重大な報道を行うものである。このような報道を行うについては、事件の現場である座間味島に赴いて自ら関係者を探し、面会取材をするなど綿密な取材をするのが当然と考えられるが、記者は、上記3つの記事とも、座間味島に赴かず、原告梅澤及び同人が紹介した人物などに電話で取材しただけで記事を書いたとしており、新聞記者としての基本を踏み外したものといわざるを得ず、このような安直な取材による記事を信用することは到底できない。また、原告梅澤は友人の神戸新聞の記者に『証言』を見せたらその記者がそれを載せたと述べており(乙43)、記者は友人である原告梅澤の言い分を記事にしたもので、中立公正な立場で記事を書いたものとは言いがたい。

 (2)昭和60年(1985年)の記事(甲B9)には、宮城初枝氏の話として「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」と記載されているが、初枝氏が梅澤隊長のもとを訪れた際に村人たちが忠魂碑の前に集まっていた事実はなく、また、梅澤隊長が上記のように述べた事実がなかったことは、初枝氏の手記(甲B5)から明らかであり、記事に引用された初枝氏の話は記者の取材に対し初枝氏が述べたことを記載したものではないことが明らかである。

 (3)昭和61年(1986年)の記事(甲B10)には、前記記事中の初枝氏の話が誤ったまま記載されているほか、沖縄県史料編集所の大城将保氏の話が記載されているが、大城氏は当時神戸新聞の記者から一切取材を受けていなかったものである(乙44、乙45)。

    同記事に記載されている大城氏の話には同氏が発言するはずがないことが記載されており、この点からも神戸新聞記事は信用することができない。すなわち、同記事には大城氏が「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」と話したことが記載されているが、大城氏は同記事に引用されている紀要(甲B14)で隊長命令説について解説する際に、初枝氏がその手記で隊長命令があったとしていることを紹介しているように、大城氏が初枝氏の話を聞いて隊長命令説はなかったのが真相だと認識したことはなかったもので(乙45)、上記記載は大城氏への取材によるものとは考えられない。また、同記事には大城氏が「新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅澤命令説については訂正することになるだろう」と話したことが記載されているが、当時『沖縄県史資料』というシリーズが始まったばかりで、史料編集所内外で『新沖縄県史』の編集の話はまったくなかったものであり、その後に訂正もされていない(乙45)、この点からも、神戸新聞の記事が大城氏への取材によるものでなかったことが明らかである。

    また、原告らは、大城談話について神戸新聞に抗議がなかったと主張するが、神戸新聞は沖縄では一般に販売されておらず、大城氏あて掲載紙が送付されたこともなかったので、大城氏は最近まで大城談話が掲載された神戸新聞(甲B10)を読んだことがなかったものである(乙45)。

 (4)昭和62年(1987年)の記事(甲B11)にはAさん(宮村幸延氏)の証言のことが記載されており、記者の陳述書には、同記者が宮村幸延氏に電話で取材したと記載されている。しかし、同記事は、その記載の仕方から、戦没者慰霊祭参列のため座間味島を訪れた梅澤元部隊長が聞いた話としてAさんの「親書」の内容を紹介しているにすぎないもので、記者に対するAさんの談話を記載したものではないことが明らかである。このことは、昭和60年及び61年の記事の体裁(談話の記載)との比較からも明らかである。

    また、前記のとおり、仮に甲B8の『証言』が幸延氏のものであるとしても、同『証言』は、原告梅澤が「妻子に肩身の思いをさせたくない、家族を納得させるためだけのものであり、絶対に公表しない」と騙して幸延氏から入手したものであったから、『証言』の内容が約束に反して新聞記者の手に渡ったことを知った幸延氏が、新聞記者の取材に対し『証言』の記載内容を肯定するような話をすることは絶対にありえないことである。幸延氏の妻も当時神戸新聞の記者から電話があった事実はないと述べている(乙41)。

    以上のとおり、神戸新聞の記者は原告梅澤からの取材のみで、宮村幸延氏から取材することなく記事を執筆したものといわざるを得ない。

 3 同第6(照屋昇雄元琉球政府職員の証言と赤松命令説の終焉)について

 (1)原告は、平成18年8月27日付産経新聞に掲載された「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」(甲B35)という照屋昇雄氏の証言について、軍の自決命令を証言した人物が一人もいなかったという事実は重大であり、虚偽の自決命令が援護申請のための方便として利用されたというのは、「赤松命令説」をめぐる論争を終焉させる決定的な事実であると主張する(原告ら準備書面(4)17頁)。

    しかし、1950年(昭和25年)8月に発行された「鉄の暴風」(乙2)は、太田良博著の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接経験者を集めて取材し、その証言を記録したものであるが、その「鉄の暴風」に、渡嘉敷島における赤松隊長による自決命令があった事実が記載されている。また、渡嘉敷村遺族会が1953年(昭和28年)3月28日に発行した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」にも、赤松隊長の自決命令が記載されている(乙10・6頁以下)。さらに、前記のとおり、米軍の慶良間列島作戦報告書によって、日本軍からの自決命令があったことは、戦後言われ始めたものではなく、すでに1945年(昭和20年)3月下旬の時点において、島民たちによって語られていたことが明らかであり(乙35−1、2)、このことは渡嘉敷島でも同様だったはずである。したがって、そもそも照屋氏の「当時軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言は到底信用できない。

    また、照屋氏は、集団自決の遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、集団自決が軍命令によるものであるという虚偽の申請を行ったという趣旨の証言をしている。しかし、前記のとおり、すでに座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決ははじめから援護法の適用対象とされていたものであり、援護法の適用対象とするため、実際にはなかったのに隊長命令があったことにしたような事実がなかったことは明らかである。しかも、住民などの戦闘協力者を「戦闘参加者」として援護法の給付の対象とする方針が決定され、「集団自決」を含む20のケースを「戦闘参加者」とする処理要綱が決定されたのは1957年(昭和32年)7月のことであり(乙16)、援護法の適用以前から、赤松隊長による自決命令があったとの証言がなされていたのであるから、援護法適用のために、赤松隊長命令があったとする虚偽の申請を行ったという照屋氏の証言は信用できない。

 (2)また、原告は、「『鉄の暴風』出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅、ある家族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任を追及されることになり、その責任を回避するために軍命令によるものだとせざるを得ず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる(甲B18・108頁)」と主張する(原告準備書面(4)17頁)。

    しかし、この主張は、「ある神話の背景」(甲B18)の著者である曽野綾子氏による単なる憶測に基づく主張にすぎない。

    座間味島においては、集団自決の発生当時、住民は「自決せよ」との軍命令(隊長命令)を受けていたのであり、阿嘉島においては、野田少佐による自決命令の訓示がなされていた(乙9・730頁)。同じ慶良間列島の渡嘉敷島においてのみ、戦後、島に残っていた者の責任回避のために軍命令があったという話が言われ始めたとする原告の主張には、何の根拠もない。

 4 同第7(忠魂碑前集合=軍命令説と手榴弾配布=軍命令説)について

 (1)同2(忠魂碑前集合=軍命令説の破綻)について

    原告らは、宮城初枝氏が原告梅澤あての手紙で「忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思い込んでいたのは事実でございます」と書いていることについて、「村民の誤解を弁明している」としている。しかし、初枝氏が原告梅澤の命令はなかったとしているのは、初枝氏が3月25日の夜助役らとともに原告梅澤に面会した際に具体的な命令がなかったとしているにすぎないものである。

    すでに被告準備書面(5)において指摘したとおり、上記面会時に原告梅澤が自決を具体的に命じなかったとしても、従来から慶良間の日本軍は住民に対し捕虜となることを禁じ、米軍が上陸した際には自決するよう指示していたもので、これにもとづいて助役(兵事主任兼防衛隊長)は伝令(日本軍の正規兵である防衛隊員)を通じて自決のため忠魂碑前に集まるよう住民に指示したものである。村民は誤解したのではなく、まさに軍の命令を伝えられたものである。

    また、原告らは原告梅澤が「生き残るよう」助役らを説得したと主張するが、そのような事実はない。宮城初枝氏の手記によれば、原告梅澤は「今日はお引取りください」と述べたにとどまる。

 (2)同3(手榴弾配布=軍命令説の破綻)について

ア 原告は、大江志乃夫著「花綵の海辺から」(甲B36)の記述、及び林博史著「沖縄戦と民衆」(甲B37)の記述から、米軍上陸前に手榴弾が配布された事実が、赤松隊長による自決命令の根拠とはならないと主張する。

しかし、「花綵の海辺から」(甲B36)の記述は、特段の根拠なく「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。」「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」と記述しているのみであり、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう」との記述は、大江志乃夫氏の感想にすぎない。また林氏は、「沖縄戦と民衆」(甲B37)において、「赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる(大江志乃夫『花綵の海辺から』27頁)。」とするのみであり、大江志乃夫氏の感想を引用しているにすぎない。

したがって、両書籍により、赤松隊長による自決命令がなかったことにはならない。

イ 渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊からの伝令が、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされた。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決がおこなわれた。このように、渡嘉敷島においては、住民に対して、軍から手榴弾が配布され、これを使って自決せよとの命令があったということは、明らかである(被告ら準備書面(5)1〜2頁)。

これは、日本軍の「軍官民共生共死の一体化」方針により、住民を戦争に総動員し、住民に対しても捕虜となることを許さず、玉砕を強いた結果であるが(被告ら準備書面(5)4頁)、渡嘉敷島における日本軍の最高責任者は赤松隊長であるから、軍による住民に対する自決命令は、赤松隊長による自決命令にほかならない。

第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論

 1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について

 (1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、従来からの軍命の伝達方法に従い、防衛隊長である助役から指示された伝令役の防衛隊員が、「忠魂碑前で玉砕するから集まるように」との指示を座間味島の村民に伝え、村民はこれを軍の玉砕(自決)命令であると受け止めたことを認めるに至った。また、この指示は「軍の命令」ととれるかのような形で村内に伝えられたことも認めるに至った(以上、原告準備書面(5)5〜7頁)。

    ただし、原告らは、上記指示は助役ら座間味村幹部が行ったもので、「軍命令」「梅澤隊長命令」ではなかったと主張する。

    原告らは、その根拠として、「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」との神戸新聞掲載の宮城初枝氏の談話及び同新聞に紹介された宮村幸延氏の話を引用している。しかし、前記のとおり、初枝氏の上記談話は、「母の遺したもの」などに掲載されている初枝氏の手記の記載内容に反するものであり、幸延氏の話も同氏への取材にもとづくものとはいえない。

 (2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、沖縄戦において日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採っており、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されるなどと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう言い渡していたものである。

    座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、海上挺進戦隊第一大隊(梅澤隊長)と海上挺進基地第一大隊(小沢義廣隊長)が駐留することになった1944年(昭和19年)9月10日以降は、村民は日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」と指示されていた(甲B5「母の遺したもの」97〜98頁。海上挺進隊の基地化について同161頁以下)。また、上記駐留開始直後、小沢隊長は座間味島の浜辺に島の青年団を集合させ、米軍が上陸したら耳や鼻を切られるなどの虐待をされ、女は乱暴されるから自決するよう指示している(乙41)。

    前記のとおり、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、防衛隊長である助役の指示により、防衛隊員が伝令として、玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう村民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものであるが、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ、自決のため集合させたことは明らかであり、この自決命令は軍の命令にほかならない。村民たちが軍の自決命令が出たと認識していたことは前記のとおりである。

    また、村民に自決のために手榴弾が渡されているが、手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられ、実際にも、手榴弾は防衛隊員その他の兵士から渡されている。

 2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について

 (1)同2(県史の実質的修正について)について

    原告らは、紀要(甲B14)末尾6行部分は原告梅澤が記した文ではなく、大城将保氏が書いたものであると主張する。しかし、同部分は原告梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったので、手記の掲載にあたり後半部分をカットし、その代わりに末尾6行に原告梅澤の結論を加筆し付加したものである(乙45)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城将保氏の談話が本人への取材によるものでなく、事実に反するものであることは前記のとおりである。)

 (2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について

    『証言』が真実を記載したものでないことは、前記(第2,1(1))のとおりである。

 (3)同4(宮城初枝証言について)について

    原告らは、3月25日夜の原告梅澤と助役らとの会談について、宮城初枝氏の手記と原告梅澤の陳述書との食い違いは些末であると主張するが、重大な食い違いである。原告梅澤は陳述書で、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」と述べたとしているが、初枝氏は手記において、原告梅澤は「今晩は一応お帰りください。お帰りください」とだけ述べたとしている(甲B5・39頁)。初枝氏は玉砕するという助役の言葉に驚いたというのであるから、梅澤隊長が「自決するでない」と言ったのであれば、当然このことを記憶し手記に記載しているはずである。また、初枝氏はこのときのことを心の重荷として記憶し続けていたというものであるのに対し、原告梅澤は1980年(昭和55年)12月に初枝氏から告げられるまで、このときのことを覚えていなかったというのであるから(甲B5・262頁)、初枝氏の手記の記載に照らし原告梅澤の陳述書の記載は到底信用することはできない。

 (4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)について

   ア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について

     宮村盛永氏が梅澤隊長の自決命令があったとしていることは、昭和63年(1988年)11月18日付の座間味村村長の沖縄タイムスあて回答(乙21の1、正式な公文書)に、宮村盛永氏が部隊長命令があったと明言していると記載されていること、「自叙伝」(乙28)に「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとの事であった」(71頁)との記載があること(息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」と記載されていることから、命令とは盛秀の命令ではなく軍の命令であることが明らかである)、「自叙伝」が詳細を参照するよう指摘している「地方自治七周年記念誌」(乙29)に、「夕刻に至って部隊長よりの命によって住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった」(451頁)と記載されていることから明らかである。

   イ 同(2)(住民手記について)について

     原告らは、玉砕命令があったとの住民の手記に命令の主体が記載されていないと指摘するが、軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、「命令」は軍の命令以外にありえないものである。

     また、原告らは、野田部隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示は梅澤隊長の自決命令があったことの根拠とはならないと主張するが、これらの事実は、慶良間諸島に駐留していた日本軍が、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり、軍の命令(梅澤隊長命令)が存在したことの根拠となるものである。

   ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について

     原告らは、座間味村が集団自決を援護法の適用対象とするため部隊長命令を作出したので、部隊長命令を維持せざるをえないのだと主張するが、前記のとおり、集団自決が部隊長命令によるものであることは昭和20年(1945年)当時から村民の共通の認識であり、戦闘参加者処理要綱を決定する以前から集団自決はこれに該当するとされており、部隊長命令がなければ適用対象にできないと言われたから部隊長命令があったことにしたものでないことは明らかである。また、宮村幸延氏の厚生省への陳情は、上記処理要綱が決定された後に、適用年齢を14歳未満へ引き下げることについて行われたものである。したがって、原告らの主張は理由がない。

     また、原告が指摘する本田靖春氏の「第一戦隊長の証言」(甲B26)記載の援護法申請に関する厚生省係官の発言等は、原告梅澤の手記をもとにしたものにすぎず、その内容は信用できない。

     原告ら引用の神戸新聞記載の幸延氏の話も、幸延氏への取材によるものではなく、記者が友人である原告梅澤から聞いた幸延氏の話を記載したものにすぎない(前出)。

 3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について

 (1)同2ないし7について

原告は、「鉄の暴風」に記述された赤松隊長による自決命令は、根拠の薄弱な噂ないし風説に基づくものであるとし、援護法適用以前にそのような「噂や風説が成立した理由」として縷々主張し、その前提として、「沖縄県史第10巻」(乙9)における徳平秀雄郵便局長、金城ナヘの手記、及び「沖縄県警察史第2巻」(甲B16)における安里喜順の手記、1971年(昭和46年)「潮」11月号(甲B17)における星雅彦のエッセイに基づいて、渡嘉敷島における集団自決は、赤松隊長の命令によるものではなく、村の責任者の協議により決定され、古波蔵村長の主導で自決に至ったものだとして、集団自決が発生したのは、主として古波蔵村長の責任であるかのように主張している(原告準備書面(5)24頁〜27頁)。

しかし、渡嘉敷島における集団自決の前に、村の有力者の協議があり、古波蔵村長による演説があったとしても、その点を捉えて、集団自決が村の有力者や古波蔵村長によって決定されたなどということには全くならない。

前記のとおり、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日に、赤松隊長の命令によって集められた20数名の住民に対して、赤松隊の兵器軍曹から、手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされている。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した同年3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決が行われたのである。したがって、村長ら有力者による協議および古波蔵村長による演説等があったとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長らの主導によるものなどでは全くない。

 (2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について

    原告は、古波蔵村長が集団自決の音頭を取っていながら生き残った村長としての責任を軽減するために、存在しない赤松隊長による自決命令を生み出したと解するのが合理的であると主張する(原告準備書面(5)29頁〜32頁)。

    しかし、前記のように、古波蔵村長が住民に対して演説を行っていたとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長が存在しない自決命令を生み出したなどという原告の主張は誤りである。

 (3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について

    原告は、「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)が琉球新報に掲載されていたことが、赤松命令説がもはや沖縄でも虚偽であることが広く認識されていることを意味していると主張する。

この「沖縄戦ショウダウン」には、「赤松隊長は悪人ではない、それどころか立派な人だった」(金城武則)、「村の人で赤松さんのことを悪くいうものはいないでしょう」(大城良平)、「赤松嘉次さんは人間の鑑です」(安里喜順)、「尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」(知念朝睦)という赤松隊長を賛美する住民らの発言が多数引用されている。

しかし、赤松隊長は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松隊長は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200〜201頁)、投降を呼びかけに来た少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安氏を、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁、乙9・693頁)。このように、赤松隊長は、罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」に引用されている住民らは、赤松隊長を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している。

「沖縄戦ショウダウン」は、このように赤松隊長を一方的に評価している者の証言だけから執筆されたものであって信用性がなく、これにより、赤松命令説が沖縄でも虚偽であることが広く認識されているとはいえない。

 4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について

 (1)同1(手榴弾配布について)について

   ア 原告は、「3月20日、21日は、第一次戦闘配備計画作業完了により、戦隊の各隊は休養日に充て、戦隊長は村民の労を慰うために村長以下各指導者と会食している(甲B19・7頁)」として、「このような日に戦隊が17才未満の少年と村役場職員を集めて手榴弾を配り、自決命令を下すことはあり得ない」などと主張する。

     しかし、まず富山証言は、「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか」(乙12)と証言しており、「3月20日」と断定しているわけではない。そして仮に3月20日、21日が戦隊の休養日だったとしても、「兵器軍曹と呼ばれる下士官」が、役場に来て、訓示するということは十分考えられるのであり(むしろ休養日であったからこそ行えたとも考えられる)、戦隊が自決命令を下すことはありえない、などは全くいえない。

   イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も、渡嘉敷島への米軍の上陸を全く予想していなかったので、米軍の上陸を予想しない赤松部隊が米軍の上陸した場合の戦闘に備えて17才未満の少年や役場職員に手榴弾を配布する必要がない、と主張するようである。

     しかし、安仁屋意見書(乙11・155頁)にあるとおり、「第32軍は、慶良間諸島について米軍とは全く違った戦略的判断をしていた。慶良間諸島は地形の険しい島々で飛行場に適する平地もないから、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に上陸することはあっても、沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えた」だけであり、仮に日本軍の想定通り、米軍が沖縄本島に上陸し、その上陸船舶団に対し、背後から渡嘉敷の第3戦隊が海上特攻を行って、「玉砕」した場合、米軍が海上特攻の拠点地を攻撃するために渡嘉敷島に上陸することは当然考えられるのであり、その場合に備えて住民に「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残り1発で自決せよ」と訓示することは、何ら不自然なことではない。

     原告が「富山証言は荒唐無稽なデッチアゲそのものである」などと主張する根拠は全くない。

   ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。

     しかし、原告が例として挙げる住民の証言は、「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」という、わずか1人のそれも盗んだとする者とは別の人間の証言にすぎず、また盗んだとする者が正規兵である防衛隊員(したがって手榴弾を盗まなくても正式に入手できる)であるという点からしても、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったという根拠にはならない。

     原告が主張の拠りどころとする陣中日誌(甲B19)の3月24日(米軍上陸3日前)の欄にも、「戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉 田所秀彦、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並に連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を撤して行う。」とあり、赤松隊が弾薬を厳重な管理の下に置いていたことがわかる。

     また「赤松隊長は村民に手榴弾が渡ることを予想していなかった」などとも主張するが、渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、このような主張は言い逃れにすぎない。

   エ 原告は、「金城重明の話は、最初は、@自決命令にふれなかったが、次には、A自決命令があったことを明らかにし、その後、B村の指導者を通じて軍から命令が出たと時間が経過するにつれて変遷する」と主張する。

     しかし、金城氏が「最初は、@自決命令にふれなかった」とする根拠というのは、曽野綾子氏が金城氏に取材した際に「(自決命令については)その当時は伺いませんでした」と証言していることだけであり、真実曽野氏が取材の際に金城氏から自決命令のことを聞かなかったとしても、それだけで話が「変遷」したということには全くならないうえ、金城氏は曽野氏に当初から自決命令のことを述べており(甲B18・155頁)、金城証言が変遷しているなどということは全くない。

 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について

    原告は、太田良博氏と曽野綾子氏の沖縄タイムス紙上の論争を引用して、太田良博氏の「鉄の暴風」における赤松隊長の自決命令説は信用性がない、と主張する。

    しかし、太田良博氏の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)、「沖縄戦に神話はない−『ある神話の背景』反論」(甲B40)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(乙23・223頁)。証言者の中には、渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏(乙23・224頁)や、国民学校の校長であった宇久真成氏(乙23・226頁〜227頁)がおり、「鉄の暴風」は、伝聞に基づくものではなく、集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。

    そして太田良博氏が「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」とする(乙23・225頁)のももっともである。

    そして太田良博氏が「赤松大尉の命令、または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である」(乙23・231頁、甲B40・4月13日分)と指摘したのに対して、曽野氏が反論できなかったことも事実である。

    以上のとおり、「鉄の暴風」の記述に信用性がないとはいえない。

 (3) 同3(富山証言の信用性について)について

    原告の富山証言に信用性がないという主張に理由がないことはすでに述べたとおりである。

    原告は「赤松隊長の自決命令説を維持するために登場したのが、富山証言であり、富山氏は3月20日の手榴弾配布と自決命令説を主張して、既に露見した自決命令の虚偽の隠蔽をはかったのである」などと主張する。

    しかし富山氏が虚偽の事実を言う必要など全くない。原告の主張はその一点において失当というほかない。

    繰り返しになるが、富山氏が「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」(乙12)と、証言するとおりである。

第4 百人斬り競争事件上告審決定について

 死者への敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件について、摘示された事実が全くの虚偽であることを要するとした東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)に対する上告審において、最高裁判所は、平成18年12月22日、上告棄却決定及び上告不受理決定を行い(乙46)、上記東京高裁判決は確定した。

以上

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