大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOME地裁>被告準備書面(3)要旨

被告準備書面(3)要旨

2006年6月2日

(原告準備書面(2)に対する反論及び被告らの主張)

第1 同書面第1(座間味島における集団自決の神話と実相)について

1 同1(梅澤命令説の神話)について

(1)同(2)(本件書籍における梅澤命令説の記述)について

    本件書籍一『太平洋戦争』に原告引用のとおり記述があることは認める。

    本件書籍二『沖縄ノート』に原告引用のとおり記述があることは認めるが、梅澤命令説にもとづく意見論評であるとの点は否認ないし争う。同書は「慶良間列島にて行われた集団自決は、…日本人の軍隊の…命令に発するとされている」と記載しており、座間味島の集団自決が梅澤隊長の命令によるものであるとはしていないものである。

(2)同(3)(梅澤命令説の根拠と内容)について

 ア 大城将保の『座間味島集団自決事件に関する隊長手記』(甲B14・沖縄史料編集所紀要所収)に、概ね原告主張のとおりの記述があることは認める。

 イ 原告らは、昭和61年6月6日付神戸新聞(甲B10)に、『鉄の暴風』を発行した沖縄タイムス社の牧志伸宏氏の「梅澤命令説などについては、調査不足があったようだ」との談話が掲載されていると指摘する。

   しかし、原告梅澤からの訂正・謝罪要求に対し、沖縄タイムス社は、これを拒否し、今日まで『鉄の暴風』の出版を継続しており(乙2)、梅澤命令説を維持しているものである。したがって、神戸新聞記載のとおり牧志氏が述べたか疑わしいが、いずれにしても、現在でもなお、沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は、原告梅澤が自決命令を発したとしているものである。   

 ウ また、原告らは、原告梅澤の自決命令があったとする座間味村の『座間味戦記』(乙3)は、援護法の適用を求めるためやむを得ず捏造された《悲しい方便》であり、宮城初枝の手記『血に塗られた座間味島』(乙6所収)は『座間味戦記』を引用したウソであったことが、宮村幸延の証言(甲B8)と宮城晴美の『母の遺したもの』(甲B5)により明らかになっていると主張する。

 しかし、援護法(戦傷病者戦没者遺族援護法)が公布されたのは昭和27年4月で、同法が沖縄に適用されたのは昭和28年3月のことである。また、住民などの戦闘協力者が、「戦闘参加者」として同法の給付の対象とする方針が決定され、「集団自決」を含む20のケースを「戦闘参加者」とする処理要綱が決定されたのは同年7月のことであった(乙16「沖縄県遺族連合会30周年記念誌―還らぬ人とともに」)。そして、『鉄の暴風』は、それ以前の昭和25年8月に刊行されたもので、援護法の成立以前から、座間味村の人々は、原告梅澤の自決命令によって集団自決が行われたと証言していたものである。したがって、援護法の適用を得るために自決命令を捏造したものではないことは明らかである。

   また、宮村幸延氏は、甲B8の「証言」を作成し捺印した記憶はなく同氏が作成・捺印したものではないと述べている(乙17宮村幸延氏文書。乙18宮城晴美「仕組まれた『詫び状』」)。同氏は、昭和62年3月26日に、同氏の経営する旅館に宿泊した原告梅澤から、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ」と迫られたが、これを拒否した。翌27日に原告梅澤が同行した宮村氏の戦友と称する2人の男が宮村氏に泡盛を飲ませ、翌朝も同氏に泡盛を飲ませ、同氏は泥酔状態となった。同氏はこの際に上記「証言」を書かせられた可能性があるが、仮にそうであるとしても、これは仕組まれたものであり、同氏の認識や意思にもとづくものとはいえないことが明らかである(乙18「仕組まれた『詫び状』」、甲B5「母が遺したもの」未提出部分268頁)。宮村幸延氏は、集団自決があった当時は山口県で軍務についており、甲B8に記載された事実を証言できる立場になかったものであり、また、実兄の宮里盛秀が自決命令を出したなどと証言するはずもないものであった。

 また、甲B5には、宮城初枝氏は、昭和32年4月の厚生省調査に際し、自ら語ることはせず、「はい、いいえ」で答えたとあるが、同氏は、昭和38年4月に発行された「家の光」に投稿し、「夕刻、梅沢部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と、隊長の自決命令があったことを自ら積極的に述べていたものである(乙19「沖縄戦最後の日」)。

エ 原告梅澤から『鉄の暴風』の記載の訂正と謝罪を求められた沖縄タイムス社は、昭和63年11月3日付「貴村における『集団自決』問題について(照会)」なる文書(乙20)をもって、座間味村村長あて、梅澤部隊長の玉砕命令に関する村当局の公式見解について照会した。

同「照会」は、梅澤部隊長の玉砕命令の事実はなく遺族補償のため命令説を作り上げたと元援護係宮村幸延氏が梅澤氏に証言したとされていること、及び部隊長命令を体験記に書いた宮城初枝氏も梅澤氏に詫びたとされていることを指摘したうえで、「1 梅澤部隊長の『玉砕命令』についての貴村当局の公式見解をご教示ください。2 当時の貴村助役・宮里盛秀氏が『玉砕命令』を出したということは事実でしょうか。3貴村で『遺族補償』の申請を有利にするため『梅澤部隊長による玉砕命令』を作為したということは事実でしょうか。」と質問した。

これに対し、座間味村村長は、同年同月18日付公文書(乙21−1)により、概略次のとおり回答した。

     1.部隊による自決命令はあった。真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している。他の多くの証言者も部隊命令又は軍命令があったと述べている。

     2.集団自決が村の助役の命令で行われたとの記事等は事実無根である。宮村幸延氏は酩酊状態で梅澤氏に強要されて捺印した模様である。同氏は戦争当時山口県で軍務にあり、座間味村にはいなかったものである。

      3.遺族補償の申請を有利にするため玉砕命令を作為した事実はない。補償申請書類は生き残った者の証言により作成したもので、@記載のとおり事実にもとづくものである。

  また、同回答書には沖縄県援護課あて回答文(乙21−2)が添付されており、当時座間味村当局は、沖縄県援護課からの問い合わせに対し、次の趣旨の回答をしている。

     1.戦後42年軍命だとされてきた住民の集団自決が村の助役の命令で行われたとの新聞記事は事実に反する。生き残った者の中に軍命だとはっきりと証言している者が多数いる。

     2.新聞記事にA氏(宮村幸延氏)の証言が記載されているが、同氏は飲酒中に梅澤氏から強要されたもので、妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないからと言われ、何の証拠にもならないことを申し添えていたもので、信憑性がないものである。

     3.真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきりと部隊命令があったと証言している。他の多くの証言者も部隊命令又は軍命令があったと述べている。武器である手榴弾が民間に与えられた。また、自決命令を伝え歩いた地元出身の防衛隊員に兵隊が同行していたとの証言がある。

     4.別記(15名の村民)のとおり、事実を証言できる者がいる。村外まで調査を広げればもっとたくさんの証言者が出てくると思う。

      5.梅澤氏は、村の同意を得ず、偽名を使うなどして慰霊塔の除幕式等に参加してきたようだ。

 オ また、原告梅澤が沖縄タイムス社に対し『鉄の暴風』の記載の訂正と謝罪を求めたことについて、昭和63年12月22日に大阪の三井ガーデンホテルで原告梅澤と沖縄タイムス社との会談が行われ、この席において、沖縄タイムス社側は、『鉄の暴風』の記述は生き残りの人々から直接話を聞いて記録したものであること、座間味村当局から自決命令はあったとする前記公式回答を得ていることを示し理解を求めた。

これに対し、原告梅澤は、沖縄タイムス社とのやりとりの末、「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない。」と述べ、沖縄タイムス社に対しても訂正・謝罪要求はしないことを明言した(乙22)。

すなわち、原告梅澤は、座間味村の前記公式見解を受け入れ、自決命令があったとされていることについて、座間味村や沖縄タイムス社に対し訂正等の要求を一切しないとしていたものである。

カ 以上のとおり、「梅澤命令説」は根拠がないとの原告らの主張は、理由がないことが明らかである。

2 同2(つくられた集団自決命令)について

(1)同(1)(原告梅澤の陳述書)について

 3月25日夜の宮里盛秀助役らと原告梅澤とのやり取りについては否認する。

原告梅澤は、助役らに対し、「決して自決するでない。(中略)村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。」と話したと主張するが、『母が遺したもの』(甲B5)に紹介されている宮城初枝の手記では、助役らの申し出を聞いた梅澤部隊長は沈黙した後、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と答えただけであったとされており(甲B5・39頁)、また、原告梅澤は同夜役場職員らが訪問したこと自体を覚えていなかった様子であったというのであるから(甲B5・262頁)、原告梅澤の主張は信用できない。

昭和19年11月3日の県民総決起大会で「老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑を掛けぬよう自決しようと決議した」との点については、不知。

(2)同(2)(昭和62年7月30日付神戸新聞)について

  同記事には、宮城初枝氏の話として、「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」と記載されているが、初枝氏は手記ではそのような証言はしておらず、宮城晴美氏も初枝氏からそのような話は聞いていない(甲B5「母が遺したもの」39頁、214頁)。同記事は、原告梅澤が神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり、上記初枝発言は原告梅澤の言い分をもとに記載された疑いがある。

(3)同(3)(大城将保主任専門員の見解)について

   ア 甲B25-1の親書は、原告梅澤から『沖縄県史』の修正を求められた沖縄史料編集所の大城将保氏が、昭和60年11月16日付で原告梅澤に送付したものである。

同親書において大城氏は、修正を求められているのは、同氏が執筆した県史10巻の(1)「午後十時ごろ、梅澤隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑の前に集合し、玉砕すべし』云々」の記述と、(2)「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」の記述であるとし、(1)は、下谷修次『沖縄戦後秘録・悲劇の座間味村』に収録された宮城初枝氏の体験手記に依拠したもので、(2)は、「筆者である大城が直接座間味で調査した結果得られたものであり、村長および村当局を始め、村民の多くの方がこの事実を認めておりました」としている。

   イ 甲B14の沖縄史料編集所紀要(昭和61年3月発行)掲載の大城氏執筆の「隊長手記」は、通説とされてきた隊長命令説に対し、神戸新聞に隊長命令説に疑問を呈する梅澤氏らの談話が掲載され、一方当事者である梅澤氏から異議申立てがある以上、史実を解明する史料としたいとして、隊長命令説についての大城氏のコメントに続いて、梅澤氏の手記「戦斗記録」を掲載しているもので、県史の上記記載を修正したものではないことが明らかである。

    大城氏が県史10巻の実質的修正を行ったとして原告らが引用する紀要の末尾6行部分(甲B14・46頁)は、原告梅澤の手記の末尾に(戦記終わり)と記載されているように、原告梅澤の文として記載されているものである。

また、仮にこの部分が大城氏の見解として記載されているものであるとしても、県史10巻の上記(1)の記述について、宮城初枝氏が隊長命令はなかったと言明していることを付記したにすぎないものである。前記のとおり、大城氏は県史10巻の上記(2)については、自決命令があったと多数の村民が証言していることは事実であるとしており、座間味村作成の『座間味戦記』の自決命令説も維持されているものである。

   ウ 甲B10の神戸新聞記載の大城将保氏のコメントは、大城氏への取材にもつづくものではない。同氏は、「隊長命令がなかったのが真相」との認識は抱いておらず、「新県史では訂正することになるだろう」などとの発言をしたこともまったくないと述べている。

    なお、その後平成元年10月に復刻された「沖縄県史」(乙8、9)においても隊長命令は訂正されておらず、今日に至るまで沖縄県史において隊長命令が訂正されたことはない。

(4)同(4)(宮村幸延元援護係の証言)について

   ア 「証言」(甲B8)について

     同書面が宮村幸延氏の意思にもとづくものなく、真実を記載したものでもないことは前記のとおりである。

   イ 昭和62年4月18日付神戸新聞(甲B11)について

     同新聞掲載のA氏(宮村幸延氏)の話はすべて原告梅沢からの取材にもとづくもので、宮村幸延氏に直接取材したものとは考えられない。

幸延氏は、原告梅澤から、「妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないから」と迫られ、何の証拠にもならないことを申し添えていたもので(乙21−1,2座間味村の回答文)、取材に対し記事記載のように答えたとはとうてい考えられない。

また、記事は、「Aさんと厚生省との折衝でも『十四歳未満の自決者遺族について、適用は無理』との判断が下されたが、Aさんは当時の村長らと協議。自決は『部隊長命令による』との申請を厚生省に再提出し、この結果、三十一年三月、十四歳未満の自決者遺族についても、法制定時にさかのぼって補償が支給されるようになった」としているが、前記のとおり、「戦闘参加者」を遺族援護法の給付の対象とすることが決定されその処理要綱が策定された当初から、「隊長命令による集団自決」が「戦闘参加者」のカテゴリーの一つとされていたものであり(乙16「還らぬ人とともに」95頁。6歳未満は自己の意思で従事したとはいえないとして戦闘参加者から除外された)、記事は事実に反しており、この点からも宮村幸延氏への取材にもとづくものではないことが明らかである。また、14歳以上の自決者の遺族には適用がされていたというのであれば、それ以前から村は部隊長命令による集団自決として遺族補償の給付申請をしていたはずであり、再申請においてはじめて「部隊長命令」としたということはないはずである。

 ウ 昭和62年4月23日付東京新聞(甲B12)について

     上記神戸新聞記事にもとづくものであることが明らかであり、独自の取材によるものではないと考えられる。

(5)同(5)(宮城晴美著『母の遺したもの』)について

      本書によれば、宮城初枝氏は、昭和32年4月に行われた厚生省の調査の際に、「住民は隊長命令で自決したと言っているが、そうか」という内容の問に、「はい」とだけ答えたとされているが、当時から生き残った多数の村民が隊長の自決命令があったと証言していたものである。

たとえば、座間味村が作成した「座間味戦記」(乙3・7頁、甲B23・10頁)は、多数の村民の証言をもとに、隊長の自決命令があったとしている。前記座間味村の回答文書(乙21−1,2)も、「部隊による自決命令はあった。真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している。他の多くの証言者も部隊命令又は軍命令があったと述べている。」とし、多数の証人の氏名を掲げている。また、大城将保氏も、同氏が直接座間味で調査した結果として、「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」としている(甲B25)。

「母が遺したもの」によると、初枝氏は、昭和52年3月になって、昭和20年3月25日夜に原告梅澤に会った際には隊長の自決命令はなかったと、宮城晴美氏に告白するに至ったとされているが、これは、この面会の際に隊長命令がなかったということにはなっても、これによって日本軍の隊長命令がなかったことにはならないものである。

初枝氏自身、軍の命令で弾薬箱を運搬するため出発する際に、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をやりなさい」と言われ、手榴弾を渡されており、この手榴弾で自決を図っている(乙6・45頁、乙9・756頁、甲B5・46頁)。また、宮平重信一家及び数人の村民は、「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」と日本兵から手榴弾を手渡されている(甲B5「母が遺したもの」未提出部分100頁)。

  (6)同(6)(まとめ)について

     以上のとおり、「梅澤命令説」は援護法適用のための方便として造られたウソである、との原告らの主張が誤りであることは明らかである。

 3 同3(座間味島における集団自決の実相)について

(1)同(1)(集団自決の心理と了解)について

    原告らは、集団自決という平時の感覚では理解しがたいことが生じたことを一般人が了解するために、「軍隊の命令で強制された」というウソが広まったのだと主張するが、軍の責任を回避するための根拠のない憶測というべきである。

(2)同(2)から(8)の住民の手記について

   ア 原告らは、座間味島での集団自決が軍命令によるものではないとする根拠として、沖縄県史第10巻(乙9)に掲載された住民の手記を引用している。

しかし、沖縄県史第10巻に収録された住民の手記には、軍から自決をするよう指示されたことや、集団自決をするため集められたことなどが記載されている。

   イ これらの手記のなかには、住民が自決を覚悟していたことも記載されているが、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである(乙11「裁かれた沖縄戦」所収安仁屋政昭証言32,56〜57頁、甲B5「母が遺したもの」未提出部分97頁など)。

そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のため集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。

第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について

 1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について

   本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。

2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について

(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯

   ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。

   イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。

     そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13−197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示したのである。

     渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。

     そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13−197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11−279頁〜287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9−768頁〜769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。

     以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。

 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について

   ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。

     しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人)とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。

     筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。

     しかも、「集団自決を追って」は、「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。

   イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。

     すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17−208頁中段。なお赤松大尉自身「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2−217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。

     このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」と言って見ていたとされる人物であり(乙9−768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。

3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について

(1)同(1)(赤松命令説の発端)について

   渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。

(2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について

  ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。

イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。

ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。

(3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について

   ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。

     しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。

  すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁〜227頁)。

以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。

太田良博自身、「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」としている(225頁)。

   イ また原告らは、「鉄の暴風」について、沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。

 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について

    原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。

    しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。

(5)「ある神話の背景」の信用性について

   また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。

ア まず、「ある神話の背景」によれば、「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。

イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。

  しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11−14頁)のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。

  安仁屋教授も「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11−14頁〜15頁)としている。

ウ なお、「ある神話の背景」は、渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。

  しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24−210〜212頁 曽野証言68〜71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。

エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。

4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について

  原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。

  しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。

5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について

  原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。

  前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。

 6 同6(自決命令の言い換え)について

 (1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について

    原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。

    まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9−768頁〜769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。

    古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。

    原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。

 (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について

    原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。

    また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。

 7 同7(「陣中日誌」)について

   原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。

   しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。

   なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18−131頁)。

 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について

 (1)同(1)について

    原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。

 (2)同(2)について

    不知。

    なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。

 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について

   原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。

10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について

   原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。

   しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。

11 同11(「神話の背景」以後)について

 (1)同(1)について

    「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。

 (2)同(2)について

    「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。

    「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。

 (3)同(3)について

    「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。

第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充)

   被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。

   このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。

以 上

HOME   準備書面(4)