大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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被告準備書面(4)要旨

2006年8月28日

(原告準備書面(3)に対する反論)

第1 渡嘉敷島における赤松隊長による自決命令について

 1 渡嘉敷島における集団自決命令の概要

被告準備書面(3)第2、2(12〜14頁)で述べたとおり、渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示したことは、富山氏が証言している(乙12、乙13−197頁)とおりである。

渡嘉敷島の軍を統率する最高責任者である赤松隊長の意思とは無関係に、軍の厳重な管理の下に置かれていたはずの手榴弾が住民に配布され、兵器軍曹が自決命令を発するなどということはあり得ない。この時点で、あらかじめ軍命令、すなわち赤松隊長による自決命令があったのである。

   そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13−197頁)。さらに、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決がおこなわれたのである(乙11−279頁〜287頁:金城重明氏の証言、乙9−768頁〜769頁:古波蔵(米田)惟好氏の証言)。

   以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。

 2 「赤松命令説」が虚偽であるとの評価が定着したとはいえないこと

   原告はまず、渡嘉敷島における赤松隊長による自決命令は、伝聞や風説に基づく「鉄の暴風」により創作されたものであることが、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)によって明らかになり、赤松命令説が虚偽であるとの評価が定着したと主張する(原告準備書面(3)6頁)。

   しかし、「鉄の暴風」は、太田良博著「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接体験者を集めて、実際に集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材して、その証言を記録したものであり(223頁)、伝聞や風説に基づくものではない。

   そして、「ある神話の背景」(甲B18)は、被告準備書面(3)第2、2(5)(17頁)で述べたとおり、集団自決の直接体験者から取材を行い執筆した「鉄の暴風」(乙2)を直接体験者からの取材に基づくものではないとしているほか、安仁屋政昭沖縄国際大学教授が具体的に指摘しているとおり、著者である曽野綾子氏が、兵事主任であった富山(新城)真順氏に取材を行っていることが明らかであるのに(乙11−14頁)、富山氏に会ったことはないなどと証言している(乙24−219頁、90項)こと等からも、一方的な見方によるもので信用性のないものである。

   したがって、赤松隊長による集団自決命令が、「ある神話の背景」によって虚偽であるとの評価が定着したなどということはない。

3 富山証言が信用できるものであること

(1)原告はさらに、前記富山氏の証言について、後日同氏が捏造したものと推測するほかはないなどとも主張している(原告準備書面(3)9頁)。

   しかし、そもそも、富山氏が証言を捏造する理由も必要性も全くない。

   原告は、富山氏の証言について、昭和63年6月16日付朝日新聞(乙12)に掲載される以前の公になっている資料の中に同様の証言がないことから、富山氏の証言は後日捏造したものと推測するようである。

しかし、富山氏の証言は、前記のように詳細であるうえ、上記朝日新聞記事において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を差し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山氏が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山氏は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を、改めて明らかにしたものにすぎない。同証言が富山氏により捏造されたものではないことは明らかである。

    原告が赤松隊長命令がなかったことの根拠としている星雅彦著「集団自決を追って」(甲B17)においても、「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」とされ(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)とされており、富山氏の証言と矛盾しない記述がなされている。

 (2)また、原告は、「ある神話の背景」の著者曽野綾子氏が、同書執筆のための取材過程において、富山氏に会ったことはなく、富山氏が証言した事実について、当時誰からもそのような話はきいていないと証言している(乙24−218頁)ことから、富山証言のような事実は存在しなかったと主張するようである。

    しかし、曽野氏が富山証言のような事実を耳にしなかったから、事実が存在しないという原告の主張は暴論である。

    曽野氏が富山氏に会って取材したことは、安仁屋政昭沖縄国際大学教授により具体的に明らかにされている(乙11−14頁)。したがって、曽野氏が富山証言を聞いていないということ自体疑わしいうえに、前記星雅彦氏でさえ、「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」という事実を取材していたのであり(その防衛隊員から住民は手榴弾を渡されている)、このような事実を取材していない曽野氏が、富山証言のような事実を耳にしなかったから、事実が存在しないなどということには全くならない。

    以上のことから、富山氏の証言が捏造などというものではないことは明らかであり、真実を証言したものであって、信用できるものである。

第2 座間味島における原告梅澤による自決命令について

 1 宮村盛永氏の自叙伝

   座間味島において、座間味村の忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じるという、原告梅澤による自決命令がなされたことは、「鉄の暴風」(乙2)、「座間味戦記」(乙3)、「沖縄県史第8巻」(乙8)、「沖縄県史第10巻」(乙9)等の資料、直接体験者の証言などから明らかである。

   原告は、昭和63年11月18日付座間味村の回答に、「真相を執筆し宮村盛永らが原告梅澤による自決命令があった旨をはっきり証言している」とあるが、その証言内容が沖縄県史等に記録されておらず、宮村盛永氏の「自叙伝」に軍命令や軍命令の存在をうかがわせるような記述も一切ないとし、同回答中において宮村盛永が作成したとされる陳情書が援護法の適用を受けるための方便であり、そのための政治的文書であったと主張する(原告準備書面(3)3頁)。

  しかし、宮村盛永氏の「自叙伝」(乙28)には、原告が本田靖春著「第一戦隊長の証言」(甲B26)から引用した部分のあとに、「その時、今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった」との記載があり(乙28−71頁)、宮村盛永氏の「自叙伝」にも原告梅澤による自決命令があったことを示す記述が存在する。

  また、同「自叙伝」には、「3月26日座間味島に米軍が上陸以後の詳細については、沖縄市町村長會編地方自治七周年記念誌に登載されてあるので省畧する」(乙28−67頁)とあるが、その「地方自治七周年記念誌」(乙29)には、昭和20年3月25日の座間味島において、「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった」(同451頁)と記述されており、原告梅澤による自決命令があったと明記した記述が存在する。

  さらに、沖縄タイムス社の問い合わせに対して、座間味村が、公式に、宮村盛永氏(当時の産業組合長、元村長)、有力村会議員中村盛久が、部隊命令があったことをはっきり証言しており、他の多くの証言者も部隊命令又は軍命令があったと述べていると回答している(乙21の1)。

したがって、座間味村の回答中において宮村盛永氏が作成したとされる陳情書は、援護法の適用を受けるための方便ではなく、原告梅澤による自決命令があったという真実を記載したものである。

 2 梅澤隊長による自決命令は援護法適用のための方便ではない

  被告準備書面(3)第1、1(2)ウ(2頁)で述べたとおり、集団自決の被害者に対して「戦闘参加者」として援護法が適用されることとなったのは昭和28年7月のことであるが、それ以前に、すでに「鉄の暴風」(乙2)には、原告梅澤が守備隊長であった座間味島において、部隊による自決命令があったことが記載されている。

したがって、「隊長による『自決命令』が援護法適用のための方便である」との原告の主張が失当であることは明らかであり、座間味村の回答中の宮村盛永氏による陳情書が、援護法適用のための方便ではなく、政治的な文書でないことも明らかである。

第3 百人斬り訴訟事件判決の本件への適合性

 1 遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為の成立要件について

 死者の名誉が毀損された場合に、死者に対する敬愛追慕の情といった主観的感情を害したからといって、それだけで違法性を有し不法行為を構成するとはいえず、死者に対する遺族の敬愛追慕の情を害する程度が極めて顕著で、遺族の人権を違法に侵害すると評価すべき特別な場合に限り、不法行為が成立するというべきである。

 すなわち、死者の名誉を毀損するものであり、摘示した事実が虚偽であって、かつ、その事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合に限り、違法となり、不法行為が成立するものと解すべきである(東京高裁昭和54年3月14日判決(判時918号21頁))。

 また、死者に関する事実は、時の経過ともに歴史的事実となり、人々の論議の対象となり、時代によって様々な評価を与えられることになるものであり、死者の社会的評価を低下させる事柄であっても、歴史的事実探求の自由やこれについての表現の自由が重視されるべきであるから、歴史的事実に関するものである場合は、上記の虚偽性の要件については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」ないし「全く虚偽」であることを要するというべきである(前同判決、東京地裁平成17年8月23日判決(乙1)、東京高裁平成18年5月24日判決(乙27))。

 したがって、歴史的事実にかかわる本件各書籍について、原告らが敬愛追慕の情の侵害の不法行為を主張するには、少なくとも、原告らにおいて、摘示された事実が「一見明白に虚偽」ないし「全く虚偽」であるにもかかわらず、あえてこれを摘示した場合であって、かつ、その内容が重大で、時間的経過にもかかわらず、また、歴史的事実に関する表現の自由の重要性を考慮してもなお、敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したことを立証しなければならないというべきである。

 2 本件は歴史的事実が対象となっていること

 原告は、大阪地裁平成元年12月27日判決(判時1341号53頁)、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(判時1071号33頁)、東京地裁昭和58年5月26日判決(判時1094号78頁)を挙げ、これらの裁判例が、死者の名誉毀損による遺族の敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化するという判断はなされていない、と主張する(原告準備書面(3)17頁)。

 しかし、上記大阪地裁平成元年12月27日判決は、後天性免疫不全症候群に罹患して死亡した人物のプライバシー侵害に相当する事実及び名誉を毀損する事実を、その死からわずか10日後に報道した事案に関する判決であり、本件と全く事案を異にする。この事件の場合、歴史的事実探求の自由あるいはこれについての表現の自由への慎重な配慮は全く必要ないため、同判決は、生存している者に対する名誉毀損に準ずるものとして、真実性の立証責任を転換せず、要件を厳格化しない基準を採用したものと考えるべきである。したがって、このような事案に用いられた判断基準が、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否の判断基準であるべきであるとする原告の主張は失当である。

 なお、前記東京地裁昭和58年5月26日判決は、問題となった記事の記載について、故人の「名誉を毀損する内容を有するものであると認めることはできない」と判示して、請求を棄却しており、摘示事実の真実性の立証責任について何ら言及していない。同判決は、遺族の敬愛追慕の情の侵害が問題となる事案において、真実性の立証責任を転換しないと判断したものではない。

 また、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決は、「被告小堺は『密告』の著作者として、本件文章により、何ら根拠のない憶測に基づき三鬼を特高のスパイであると断定し、しかも、実録小説という形式をとったことにより、読者に右虚偽の事実を真実と思い込ませ」たことにより、敬愛追慕の情を侵害したと判示しており、根拠のない憶測に基づく事実摘示、すなわち、虚偽事実の摘示を、敬愛追慕の情侵害の不法行為の要件として判断している。

 したがって、大阪地裁平成元年12月27日判決、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決、東京地裁昭和58年5月26日判決が、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであることを根拠に、虚偽性の面で立証責任を転換したり特段に要件を厳格化するという判断はなされていないとする原告の主張は誤りである。

 3 百人斬り訴訟判決の基準は書籍が生前に出版された事案にも妥当する

 (1)原告は、本件書籍二、三が、赤松隊長の生前に出版されたものであり、その時点で摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くないと主張する(原告準備書面(3)17頁)。

 しかし、ある事実が、歴史的事実となるか否かは、表現行為が、表現の対象者の生前になされたかどうかとは直接関係はない。事実が「歴史的事実」となるかどうかは、死亡から事実摘示までの期間ではなく、当該事実が発生してから、摘示されたときまでの時間こそが重要なのである。

 前記東京高裁昭和54年3月14日判決は、「死者に関する事実も時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行して行くものということができるので、年月を経るに従い、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への配慮が優位に立つに至ると考えるべきである」とし、前記東京地裁平成17年8月23日判決も、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していく・・・・・・相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取上げる場合には、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」としているとおり、死後、事実摘示がなされるまでの期間のみならず、当該事実が発生してから、摘示されるまでの期間の経過を、表現の自由への配慮の根拠としている。

 (2)本件においては、本件書籍二、三は、赤松隊長の生前に出版されている(本件書籍二は1965年、本件書籍三は1968年に出版されている)が、その出版時点で、すでに自決命令(1945年)から20年以上が経過しており、提訴時には60年経過している。このような赤松隊長による自決命令は、「歴史的事実」となっているものである。

 したがって、本件においても、本件書籍二、三が赤松隊長の生前に出版されていたとしても、歴史的事実探求のために表現の自由に配慮すべきという前記東京高裁昭和54年3月14日判決、さらに百人斬り訴訟判決の判断基準が妥当することは明らかである。

以  上

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