第7回講演会 『私の沖縄戦体験と新たな島ぐるみ闘争へ』

第7回講演会 2014年6月13日

講師:仲里利信さん

元自民党沖縄県連顧問、元沖縄県議会議長。
2007年9月「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長。 
2014年 自民党を離れ、独自に名護市長選で稲嶺候補を応援。

「私の沖縄戦体験と新たな島ぐるみ闘争へ」

1.わたしの沖縄戦体験

戦争前のころ

 私の生まれたところは南風原町というところです。那覇から東に向かって6キロほどのところで昔は畑の広がる村でしたが、今は那覇と変わらないほど都市化してしまいました。

 戦前は、畑も3千坪あまりやっておりまして、お手伝いさんもいて、私は子守役の乳母に育てられ何一つ不自由のない生活をやっておりました。長男は 校長をやっておりましたがもう79歳になります。私は二男で77歳になります。兄、私、弟、妹、そして末の弟と、おじいさんもおりましたので8名の家族で ありました。

 親父は近衛兵をやっていて、沖縄県から宮城の守りに6名の衛兵が送られ、親父もその一人でありました。親父は、第3師団所属で、宮城に一番近いと ころに配属されていたことを大変自慢にしていました。親父は、戦前は教師をしていましたが、銃剣術(棒の先に布を巻いて突く)で沖縄一になったということ で、教練をしながら青年学級を教えておりました。あるとき親父に「こんな銃剣術がなんの役に立つのか」と聞いたことがあります。親父は、「鬼畜米英は、ヤ ギ目(青い目)をしているので10m先は見えない。したがって飛行機から落下傘で降りてきたところを竹やりで刺すのだ」と言うのです。

 この話は本心だったかどうかは分かりません。通信隊もやっておりましたから本当のことは分かってはいたんだと思いますが、家族には本当のところは言わない。サイパンでも陥落はしていたけれど戦は勝ったんだと言われていた時代です。

 私が通っていた学校は南風原国民学校で、私の家から200mのところにありました。戦争まえの10月から、その学校は野戦病院にされました。その ため私たちの授業は各地域の公民館を使って行われていましたが、実際は授業どころではありませんでした。昭和19年に“10・10の那覇大空襲”がありま した。あの時、港に接岸している船がもうもうと煙を上げて燃えているのが山手にあった私の家からもよく見えました。

野戦病院で

 国民学校であった野戦病院にはいろんな人がおりました。私の家はその野戦病院から丘を隔てたところにありました。一度、野戦病院の患者さんが私の 家に来て食事をいただいて、さらに、イモが3分の2、コメが3分の1入った食糧を飯盒に詰めてもらっていました。その人が、私の家から出ていくとき憲兵に 捕まってしまって、公民館の前で死にはしないかというぐらいひどく叩かれておりました。わが子を兵隊に送り出していた近所のお母さん達は、自分の子どもた ちもこんなにやられているのだろうかと思い、泣きながら見ておられたのを覚えております。

 野戦病院には、毎日のように亡くなった兵隊さんが運ばれていました。便所に設置されていた3段式の寝台の上に死体は置いてありました。向かいに小 高い山があり、ここで松の木を切って組んだものの上に死体を置き、火葬していたのを覚えております。火葬のときはトランペットで「海ゆかば」が演奏されて いました。一度そこへ行ってみたことがありましたが、まだ手が動いている人が火葬されていました。今であれば助かっていたかもしれません。

 終戦後にその病院を中心とする、いわゆる、“ひめゆり部隊”を描いた映画が製作されましたが、その映画の場所が私の生まれた家のすぐ目の前のところでした。
飛行場を友軍が強制的に接収したことがありましたが、その後そこに置いてあったのは茅でつくった飛行機で、それらを並べて見せ掛けをしていました。これがあの当時の日本の姿だったのです。鉄砲どころか何もない、ないない尽くしの中で米軍と対峙していたのです。

 戦争前までは、私たちは、戦争はそんなに怖いものとは思っていませんでした。

 実際に戦争になりましたら、役場からの通達で、高等2年までの子ども達10万人を九州と台湾に疎開をさせるという計画がありました。例の対馬丸に は、実は私どもの南風原町など3つの地域の子ども達が乗り込んでいましたが、もう一つのおんぼろの貨物船が割り当てられていた那覇の金持の人たちが、“取 り替えろ、なんで那覇の人たちをこんなおんぼろの船に乗せるのか”と騒いだために、南風原の人たちは対馬丸から降ろされて乗り換えさせられたのです。

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山中をさまよい、家族を探す

 戦争のとき、2月、私たちは南風原から北部の宜野座というところに疎開をしました。そこの家は、旦那は防衛隊に召集されていて女の人ばかりでし た。私の家族とおばさんの家族がお世話になりました。4月になると海には米軍の軍艦がずらーと並んでいました。夜昼となく艦砲射撃が打ち込まれます。砲弾 のヒューヒューという音がするときは安心です。どこに向かって飛んでいるかが分かるからです。音がしないときは怖くてたまりませんでした。昼は壕に隠れ、 夜は投宿先に帰るということを繰り返しておりました。

 ある日、私たちが潜んでいる壕に銃剣をもった3名の兵隊が入ってきました。私の3歳になる妹と従妹の3歳の女の子はガマの中が暗くて泣き止まない のです。するとその兵隊たちは毒入りのおむすびを取り出して「これを食べさせなさい」というのです。二人を殺せというわけです。私たち家族は相談して、死 ぬときはみんな一緒だ、この子たちだけを殺すわけにはいかないという話になり、私たち家族はそのガマを出ることにしました。

 そこを出て新たなところを探し求めて歩きました。その途中で、突然グラマン戦闘機が目の前に現れたのです。ガラスのメガネをした操縦士がはっきり と見えました。けれども私たちが女・子供ばかりだったからでしょうか、そのグラマンは機関銃を打ってきませんでした。その時はいつやられるかわからないと いう恐怖感がありましたが、“鬼畜米英”と言われてはいるが、そんなに悪い人たちではないんだなということを後に思うようになりました。

 隠れる場所をさがしていると古い石積みの墓が見つかり、その墓の中に隠れました。中には大きいムカデが何匹もいて、「これに刺されると命はないよ」とおばあさんが言いました。ハブの毒と同じぐらいだというのでみんな縮こまって動かないようにしていました。

 私とおふくろは新たな壕を作らんといかんと思い、毎日宜野座の山に出かけて、私が弟をおんぶして、おふくろが壕を掘りました。掘り終わって明日は 家族を呼び寄せようと思って山を下りました。すると途中で顔をパンパンに腫らした状態の友軍兵士が何人も倒れていたのです。それまでは米軍が上陸している とは知らなかったのです。私と母はすでに米軍が上陸していることを感じ緊張しました。私は家財道具の品々を棒で担いで歩いていました。おふくろが「向こう に兵隊がいるのが見えるが脚絆(ゲートル)をしているか?」と言うものですから、よく見ると脚絆はしていないのです(*日本軍は脚絆をつけているが米軍は つけていない)。それでびっくりして家財道具も投げ捨てて逃げました。その時に家族とは離れ離れになってしまったのです。

 いろんな人の情報で、私たちの家族は宜野座から反対側の恩納村へ行ったという話を聞き、山の中を歩いて西の方にいったらライトが煌々と照っていま す。これは友軍ではないと判断し、引き返している途中、辺野古の久志へ行ったという話があり、また山の中を歩いて久志へ向かいました。ところが南部の人た ちは金武へ向かったという情報が入って、何も食べずに小川の水だけで3~4日かけてやっと金武にたどり着きました。そこに家族はおりました。家族と合流は できましたが私がおぶっていた弟は、栄養失調で、生まれた日の生まれた時間に亡くなったのです。

戦後の暮らし

 戦争が終わって、ないない尽くしの中で生きてきました。それは大変でした。
一番可哀そうだったのは、疎開から家に帰ってみると家族が全滅 していて、住むところもなく、親戚のうちに預けられた子ども達のことです。その子たちは、小学生のときから大人並みの仕事をさせられていました。ほんとう に戦争というものは絶対にさせてはいけないとつくづく思いました。

 当時、油がありませんでした。米軍のオイル=モビールをつかって配給されたメリケン粉で“てんぷら”を作ったりもしました。オイルは消化できませ んから学校で下痢ばかりするのです。あるおばあさんは田んぼにいるカニをとってきて食べたために、鼻や口から泡を吹いて死んだということもありました。ソ テツを食べて死ぬ人もいました。ソテツは乾燥させないと猛毒なんです。サツマイモの葉を勝手にとったということで投獄された人もいました。

 このような食糧不足の時代の中でも生きてこられたのは、恩納村の方に米軍基地があり、米軍がトラックからドラム缶ごと降ろした残飯があったからで す。私たちは朝4時くらいからそこへ行って米軍の残飯を腹いっぱいに食べました。そして、家族の分も袋やポケットに詰め込んで持って帰るという生活をして きました。

 昭和21年の4月ごろ、故郷、南風原にかえりました。故郷の家は45坪の瓦葺きの家でしたが、瓦のかけらさえなく200坪の家の敷地には艦砲が7 発撃ちこまれていて穴が開いていました。水を入れる大きなタンクがありますが、しばらくはそこにテントを張って寝泊まりしました。その後米軍から支給され た材料で家を作って暮らしました。

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2.教科書検定意見、撤回を求める県民大会・実行委員長をつとめて

 大江岩波裁判の教科書検定意見問題で、「集団自決」に関して「日本軍によって」という主語が抜き取られ、“住民が自ら進んで天皇陛下万歳と言って 死んでいった”というすり替えに対して、戦争体験者として許せないと思いました。沖縄の皆さんの心の中には戦争反対という気持ちが強くあり、私はマスコミ 等にも回ってぜひこの問題を取り上げてほしいと働きかけをしてきました。

 私たちは戦争中にいろんな辛い経験してきました。山中を逃げまどったこと、豪での出来事など、戦争をやれば人間が人間でなくなるのを見てきました。「集団自決」の問題もそうです。ですから戦争は絶対にさせてはいけないという強い意思があります。

 検定意見撤回県民大会に向けた準備の中で、私は戦争体験者として、自分の体験を話しました。すると、みなさんも小異を捨てて大同についてやりましょうということになり、保守も革新も一緒になって県民大会をやることになりました。
大会・実行委員長を務めさせてもらいましたが、何より心強かったのは、昭和9年生まれの子ども会会長・玉寄哲永さん、そして婦人連合会会長・小渡ハル子さんという方、このお二人の存在でした。二人とも沖縄戦の体験者でありました。
若 い人たちからは、そんなに目くじら立ててまでやる必要があるのかという意見もありましたが、沖縄戦体験者の「軍命削除」は絶対に許せないという強い気持ち が、11万6千人という復帰以来の最大の大会を実現させた原動力になったのだと思います。本島と同時に宮古、八重山でもそれぞれ3千人の結集で大会が実現 しました。

 あのとき、本島会場へ向かう道は車と人が溢れ、車が完全に動かない状況になり、バスから降りて歩いて来る人もいました。那覇空港から宜野湾の海浜公園まで13キロですが“2時間半もかかってやってきました”と菅直人さんは言っていました。

3.名護市長選で辺野古基地建設反対を訴える

西銘議員の裏切り

 私は、自民党衆議院議員・西銘恒三郎(西銘順治の3男)の後援会会長を2年半引き受けていました。彼とは1日200軒も名刺をもって回ったことも ありました。行く先々で基地のことで質問があるたびに“基地は県外・国外です”と言ってきました。おかげさまで選挙は圧勝させていただきました。

 けれども、あの当時、彼がまさか辺野古推進になるとは夢にも思いませんでした。

 それは、去年の1月のことでした。自民党県連大会の時に西銘恒三郎が参加していなかったものですから秘書にどうしたのかと聞くと、実は、山口県、 佐賀県、長崎県を回って普天間基地を引き取ってほしいという要請に行ったというのです。何たるバカなことをするんだ、一介の国会議員ぐらいが行ったところ で話になるものじゃない。このようなことは大臣クラスの人が国として動かないとどうにもなるものではない。アリバイ作りじゃないか、とその秘書を叱りつけ たものでした。西銘議員は沖縄に帰ってきてから、“どこも引き受けてくれるところがなかったので沖縄が引き受けざるを得ない”と言うようになり、辺野古推 進に変質したのです。

 この件以来、多くの皆さんから私に対する怒りの苦情電話が毎日かかるようになって参りました。皆さんが異口同音におっしゃるには、“後援会長のあ んたが辺野古を認めたから彼もそうやっているじゃないのか”というのです。“違う、私には何の相談もなく彼が一人でやってしまったんだ”と必死で対応しな ければならない日々が続きました。

 私は、もはやいつ後援会会長を辞めてもよかったのですが、私が会長としてゴルフコンペを企画していたものですから、その間はやめることもできませんでした。ゴルフ大会が成功裡に終わった後、私は西銘に対して言いました。

 「あんたと私の間には普天間問題に関して食い違いが生じている。また、安倍首相が実施した『4月28日主権回復式典』についても、あなたは喜んで 行ったのではなかったか。あなたが議員を辞めるか、私が後援会長を辞めるかどちらかしかない。」「あなたは下りないだろうから、私が後援会長を辞めるよ」 と言い、5月末に後援会会長を辞めました。

 以後、苦情の電話は1本も来なくなりました。

仲井眞知事、県民騙し

 12月27日、仲井眞知事が、「有史以来のすばらしい予算」をいただいたとか、「よい正月が迎えられる」とか、「大変な配慮をいただいた」とか美 辞麗句のありったけのを述べて安倍首相に感謝をしておりました。私は東京新聞の記者に、12月28日の新聞の3,460億という金額の内訳、真水はどう なっているのか調べてもらいました。すると、3,460億円の予算には、見せかけやまやかしがあることが分かりました。3,460億円には、那覇空港第2 滑走路330億円、大学院大学195億円、不発弾処理25億円、学校の耐震化95億円など合計約1,800億円がふくまれていたのです。これらは国の事業 や全国どこでもやっている通常の事業であり、純粋な沖縄振興予算ではないのです。

 私は、仲井間知事が自慢げに宣伝する予算のでたらめさを暴露するチラシをつくり、名護市長選で配りました。すると皆さんは騙されていたんだという ことに気付いてくれました。沖縄では“特別に”3,000億ももらっているんだという考えの方が県民の中にもたくさんいます。私は、“それは違うよ、これ は権利だよ、これは県民が国税として払ったものを、面積割、人口割で県に按分したものであって、地方交付税なんですよ”ということを言いたいのです。いつ の間にか“振興策”という名前が付けられてしまったものだから、“特別に”沖縄だけに予算がついているという誤った考えが広がっているのです。もし沖縄が 辺野古を認めないのであれば予算は廃棄しなさいとまで言っている学者もいます。

 かつて大田知事時代、辺野古の問題のやり取りの中で4700億という予算の話がありました。だから、3460億という金額は、全く「有史以来」のものでもなんでもないのです。何か頼みごとがある時は予算が増えてくるわけです。ほとんどはハード面ですがね。

 「普天間5年以内に運用停止」という問題。そんなことができるはずがないのです。アメリカ国防総省は、そんなことは一言も言っていません。普天間返還は、辺野古が完成した暁の問題であって、どんな早くても9年半、いや10年以上かかるかも知れない、と言っているのです。

 辺野古に決めたのは1996年、橋本龍太郎のときです。あの時、政府は閣議決定で7年以内に普天間を返還すると決めました。あれから今年、19年経っていますが一向に進んでいません。

 仲井間知事は公約を翻し、辺野古埋め立て容認をしておいて、ぬけぬけと “公約違反はしていない、5カ年で返還させる”と言っていますが、これは真っ赤なウソです。

 「5年以内」を要望するために東京へ行ったんだとか、また、副知事がアメリカに行って5年以内を要請しているとか言っていますが、これはサル芝居というか、アリバイ作りというか、県民だましということでしかありません。

 またオスプレイ12機を県外に持っていくということも、アメリカは、訓練は県外でもやりましょう。しかし常駐するところは沖縄ですよ、といっている。だからこれも真っ赤な嘘です。

 また知事は、地位協定に環境条項を入れるとも言っていますが、これも昔から言ってきたことであって、これまでアメリカがノーと言うからなかなか前 に進ない問題なのです。沖縄と政府の懇親会みたいなものを作っていますが、この中にアメリカ側(米軍)が入らないと意味がないのです。しかし、アメリカは 日本政府の問題であり、これには入らないという姿勢でいます。

 私は、これらのことを名護市長選でも沖縄市長選でも訴えてきたのです。誰一人として私に反論する人はいません。私は、知事が中央政府の対応を絶大に(過大・誇大に)評価していることを“まやかし”だと言って批判してきたわけです。

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辺野古新基地、出撃基地化

 辺野古の基地というのは耐用年数200年、4万トンクラスの軍艦が接岸できる270メートルの軍港建設までプラスされているのです。日本国の血税 で1兆円の事業になるとも言われています。これを認めると沖縄は際限なく出撃基地として、あるいは日本の自衛隊の出撃基地として、また、日米合同の訓練基 地として、基地の島、日本の防波堤として沖縄が位置づけられてしまうわけです。

 昨年、仲井眞知事が辺野古移設を容認した後、内閣の防衛大綱で「中期防衛5カ年計画」が発表されました。その中には本島や奄美、宮古、八重山にま で自衛隊を配備するとか、無人探査機とかF35戦闘機(ステルス)を入れるとかが計画されており、総額24兆6700億になるといいます。これがポイント です。防衛予算というのは、これまでGDP1%以内ということが守られてきたんですが、一気に閣議決定で倍に増額するという、1年に約5兆円ということな ります。これが一番大事なことだと思います。このような形で軍備が増強されると中国と日本の軍備競争という形になっていくのではないかと心配するわけで す。

 私は現役のときに軍事アナリストの小川和久さんとじっくりと話し合いをさせていただきました。彼は、沖縄から米軍が撤退するとなると日本は独自の 防衛をしなければならなくなると言います。それで、日本が近隣諸国と対峙していくとなるとGDPの何%使えば軍備が整うのですかと尋ねると、なんと6%と 言っておられました。6%とは30兆円ということになります。消費税で言えば12%になります。テレビ朝日の方が私の家に来られた時にその話をするとびっ くりしておりました。そしてテレビ局の人は、オーストラリア、フィリピンなどと同盟を結べば3%で済むと言いました。オーストラリアが日本と手を組むはず はないのです。比も豪もアメリカとは手を組むが日本とはあり得ないと私は思います。

沖縄のこころ、建白書に

 安倍政権になって、いつ戦争するようなことになるか大いに心配です。

 わたしは自分で架台を作って自分の車に一番大きいスピーカーを積んで、名護で皆さんに訴えをさせていただきました。はじめのうちはスピーカーの容 量が大き過ぎたためにアンプが2回焼けてしまうトラブルもありました。ありがたいことに誰からも文句を言われることもなく、むしろ保守系の人から勇気をも らったというお褒めの言葉をいただきました。これがホントの沖縄のこころです。それは建白書の精神なのです。

 仲井間知事が辺野古推進を打ち出した直後の12月29日、琉球新報とあるテレビ局の2社でアンケート調査をしたら、73.5%が辺野古反対なので す。明らかに県民の意識は変わっていないことを示しています。変わったのは5名の自民党国会議員と仲井眞知事と沖縄県連です。建白書は今でも生きている し、オール沖縄も生きている。

 そのようなことを訴えながらやってきました。辺野古に基地をつくらせてはならない。これは普天間の代替ではないのです。新たな基地を造ってこれか ら永久に沖縄を出撃基地にすることです。オバマ大統領が日本に来たときも、“嘉手納以南を返還することによって安定的に基地を使う”ということを言ってい ます。“永久に使いますよ”と言っているのです。

 11月知事選の際には「辺野古ノー」といえる候補者を用意する為に、今、あの手この手でがんばっております。革新とか保守とかではなく、「オール沖縄」で勝てる人を立てていきたいと考えています。

 辺野古基地は絶対つくらせてはならない。つくらせたらその次は徴兵制に繋がります。

 自衛隊に入っている人たちはまさか自分が戦争に行かされるとは夢にも思っていないと思います。どこかに戦争に行けと言われると自衛隊を辞めていく んじゃないですか。そうなると徴兵制を施行して国を守るという段取りにつながっていくと思います。絶対に辺野古に造らせてはいけない。そのような思いでこ の1年半、活動を続けてきました。

4.「オール沖縄」の意義、これからの展望について

 教科書検定問題のときに「オール沖縄」という言葉を使いましたが、いま沖縄県民にとって大切なことは県民同志が喧嘩することではないということで す。県民同志が闘い合うということは、少しのお金を渡して県民に内輪もめをさせる、為政者の植民地政策に乗ってしまうことになります。あくまでも我々が闘 う相手は日本政府でありアメリカ政府であります。この認識を持たなければ沖縄県民はいつまでも“僅かの金”で政府の言いなりなってしまいます。そうはなら ないという考えが「オール沖縄」の真の姿だと思っております。

 「未来を拓く島ぐるみ会議」が近々、発足されることになっています。発起人には、経済界をリードする大手の金秀グループの呉屋さんがいます。金秀 グループには5000名の職員がいます。もう一人は、ホテル業のかりゆしグループCEOの平良さんがいます。この二人が中心になって記者会見したら300 社の企業が賛同してくれたと言っています。目的はオスプレイの即時撤去、普天間閉鎖、県外国外へのいわゆる「建白書」の実現であります。私も10人の共同 代表の一人に入っていますが、学者、文化人、さまざまな分野のリーダーの方々が多く名を連ねて下さっております。

 仲井眞知事を応援する人たちが、連日いろいろ会議をやっていて、辺野古推進情報が流れてきます。記者情報では“仲井間知事はどんなことがあっても必ず辺野古建設をやるよ”と言います。なぜなら、そのように約束させられているからだ、というのです。

 「オール沖縄」はいま着実に進んでいます。私たち県議OBでも新しい候補者選定のためにいろいろ話し合っています。「建白書」の実現に向けて「オール沖縄」を堅持してやっていこうということです。