大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOMENEWS>(2008年5月)

「勝利判決」、そして新たな闘いに向けて

歴史と裁判に誠実に向き合いながら

岩波書店編集部副部長 岡本 厚

 沖縄戦「集団自決」訴訟の地裁判決は、ご承知の通り、私たち被告側の全面勝訴となりました。これまで何回も繰り返して申し上げてきたとおり、この裁判の原告側が求めたのは、「軍隊は住民を守らなかった」という沖縄住民の沖縄戦観の転換であり、皇軍、兵士の「名誉」回復であり、さらにいえば、戦後の否定、戦前・戦中の価値観の復活でした。

 その意味でいえば、被告として正面に立たされているのは、岩波書店と大江健三郎氏ですが、本当に狙われているのは、沖縄の住民であり、その経験と記憶と語りであり、また戦後の価値観を大切にしようとしているすべての人びとだったといえます。教科書検定をきっかけにして、沖縄の広範な人びとが怒り、語り始め、その証言の「具体性、迫真性」(地裁判決)によって、裁判の勝敗が決したのです。

 原告側は、裁判に対して、不誠実な対応に終始しました。原告は、裁判が始まる前に、訴えた本を読んでもいませんでした。原告側弁護団は、常に準備書面を遅らせ、時として公判前日か、その日に、法廷で私たちに手渡されました。名誉毀損の有無よりも、政治的なキャンペーンが目的だったのではないかと思わせる、様々なことがあったことは、多くの支援者の方々が目撃されたことと思います。判決後、原告弁護団は、4月2日の控訴に際して、アジびらと見紛う「控訴にあたって」という文章を発表し、「文学風まやかし論をはぎとられた被告大江」「進歩的文化人的な良心を気どる大江」と「正面から対決する」などと大言壮語しています。

 安倍政権でいわば頂点に達し、その自壊で退潮する「歴史修正主義」の、政治主張の過剰と歴史研究の粗雑さが裁判にもはっきり現れていましたが、この文章も同じ傾向です。高裁は、また新たな戦いになりますが、私たちは誠実に歴史と裁判に向き合い、冷静に戦いを進めていくつもりです。今後とも多くのご支援、よろしくお願いします。


特別講演「判決を聞いて」(講演要旨)

        安仁屋政昭(沖縄国際大名誉教授)

 家永裁判と大江岩波裁判はリンクしている。

 今回、想像もつかなかったこのような大勝利を得たのはなんだったのか。今回、非常に多くの方々が関心を持って資料を発掘してくださったわけであるが、なかでも裁判で訴えられている岩波書店そして弁護士の方々の情熱にはものすごいものがあった。沖縄に何度も足を運んで新しい史料を発掘する、沖縄出張法廷もあった。この弁護士の情熱によって、当初あまり関心をもっていなかった沖縄の人たちが、当初は大江・岩波裁判が沖縄と関係あるのかという様子だったが、次第にこの問題は実は沖縄戦そのものではないのかというようにだんだんと理解が進んできた。

 “大変つらい体験”といわれるが、実はこのつらい体験というのは1960年代からずっと沖縄県史や市町村史などとして記録されていたのである。ただこの貴重な体験・記録が読み込まれていなかったという状況があった。これらの記録が学校の図書館に置かれていても、それを社会科の先生達が読んでこなかったということがあった。

 新たに、これまで証言を拒んでいた人たちが涙を振り絞って証言してくれた。その中で、岩波書店の努力もさることながら、この沖縄戦の証言をもっと深めてくれた人たちがいた。名前を挙げると、沖縄県教職員組合、沖縄県高等学校障害児学校教職員組合、それに歴史教育者協議会、平和委員会の皆さん方、全国の「9条の会」の皆さんは、とくに北海道から沖縄まで頑張ってくれた。なぜ北海道が関係あるのか、沖縄戦で最後まで戦わされたのが東北・北海道の部隊の人たちであった。二四師団、「山部隊」と呼ばれていたが、この部隊の人たちは、言葉は悪いが「愚直な人たち」であった。この人たちは沖縄戦が終って8月に洞窟から出てきた人たちで、沖縄戦の実相をよく知っている人たちである。そのなかにはアイヌ兵もいた。研究の面では日本科学者会議などがアメリカ側からの資料を発掘してくれた。若いジャーナリストも活躍した。右派月刊誌からの猛攻撃を受けながら、沖縄タイムスと琉球新報が頑張った。そういうなかで新しい史料を発掘してくれた。このような戦いによって、この問題が全国の共通認識になった。

 「集団自決」という言葉について、

戦時中は軍隊が壊滅して死んでいくとき何と言ったか、「自決」とは言わなかった。「玉砕」といってきた。それが戦後沖縄戦の記録を作るなかで「鉄の暴風」を編集するとき「玉砕」という言葉は具合悪いということで「自決」という言葉が使われ、それが定着してきた。この言葉が50年以上も使われ、定着しているので、「自決」ではないのだが、研究者の中でもこれを括弧付きで呼ぶようになった。あるいは「強制集団死」とも呼んできた。

 「自決」とは「おまえらは敵につかまったら結果としてスパイを働く、情報を流すから自決せよ」といわれてきた。もう一つは、はじめから、スパイとみなされ容疑をかけられていた人たちがいた。信じられないような話だが、それは、クリスチャンである。国家神道が天皇教であったから、クリスチャンはアメリカの側につく、いつスパイを働くかわからないとして全国的にスパイ扱いされてきた。沖縄の移民帰りも片言の英語やスペイン語をしゃべる、これはスパイをはたらくとされた。さらに障害者がスパイを働くとして虐殺された。とくに精神障害者はあらぬことを口走るからスパイだ、だから敵に捕まる前に殺せとなる、つまり「措置」されたのである。障害者の中でももっとも陰惨な殺されかたをされたのが聴覚障害者である、聴覚障害者は爆弾の音が聞こえないので平気な顔をしている、すると、弾が落ちてくるのを知っているから平然な顔をしているのだろうとしてスパイとされた。われわれは「疑わしきは罰せず」と教わってきたが、天皇の軍隊の論理では「疑わしきは殺せ」となる。だから聴覚障害者は「措置する」となっていた。

 「集団自決」と呼ばれる言葉もあらためて意味をよく考えてみると、これは虐殺と同質・同根である。沖縄で「集団自決」と呼ばれていることの中味は体験者から聞けばよくわかる。親が幼子を殺す、子が年老いた親を殺す、夫が妻を殺す、このような親族殺し合いの実態を「集団自決」と呼んできている。ほんとうはそんなことではない、「集団虐殺」と同じである。赤ん坊が自決するか、親が殺したのだ。肉親を自発的に殺すということがあるか、「自決」とは、ある力によって強制され、誘導され、死ぬことである。法律家がよく言う自発性、任意性というものではないのである。だから沖縄戦における「集団死」とは、「天皇の軍隊による強制と誘導による死」ということである。「集団自決」と言い表すのはふさわしくないと言い続けて来たが、50年来、「集団自決」という言葉が使われ独り歩きしている。

 家永裁判のとき、文部省側は、「「集団自決」を書けといってきた。日本軍によって殺された人もいるが、「集団自決」の方がもっと多いのだから、これを書けといってきた。つまり、「住民が自発的に死んでいった」ということを書けと家永先生に押し付けてきた。それに、「そんなことはない、天皇の軍隊の強制と誘導で死に至ったのだ」といって反論して戦ってきた。今度はそれどころか、同じことだが、「書け」ではなく「集団自決」の軍命はなかったといっている。つまり「自発的死」であるといっている。家永先生のときからずっと続いている問題である。

 「合囲地境」という言葉が判決に登場した。

 大江健三郎さんの「縦の構造」という分かりやすい言葉も登場した。座間味、渡嘉敷は第三二軍の指揮下にあるということ、この三二軍の上は大本営です。その上には天皇がいる。軍隊では上官の命令は天皇の命令だといってきた。トップダウンのこと、手榴弾も天皇のもの、それを住民に渡した。これも判決の根拠になった。

「集団自決」について、慶良間諸島の渡嘉敷島・座間味島の問題が一つの事例として取り上げられたが、沖縄本島にもある、ミクロネシア南洋諸島、テニアン、サイパン、フィリピン、満州にもあった。それらも軍の命令によって起こったものであり、これらは、牛島司令官の「自決」とはぜんぜん違うよと私は言い続けてきた。

 隊長命令があったかなかったか、伝達経路は判然としないといっているが、ばかげた話である。何も実態が分かっていない。米軍の攻撃で砲弾が雨あられのごとく降っているとき、文書で伝えることなどありえようか、口伝えでいくほかない、それを本人が言っていないという、伝達経路が判然とするはずもない。

 「細かく地を這う虫の目」で慶良間列島のことを調べることも大事であるが、南洋、フィリピンではどうだったのかと「大空を飛ぶ鳥の目」で全体状況を見る努力も大事である。これまで沖縄から「集団自決」の問題を考えてきたが、これからは全国展開でやろう、大阪高裁でもっともっと事実を突きつけて、「こんな裁判、やらなければよかった」と彼らに思わしめるような闘いをやりましょう。(大拍手)

〈文責・松浦〉
(支援連絡会「news letter」No.12より)