大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOMENEWS>(2007年11月)

同じ日の大江氏の証言はこちら

11.9沖縄戦裁判本人尋問報告集会での弁護団の報告はこちら

2007年11月9日 本人尋問記録(梅澤・赤松氏の証言)

本文は、複数の傍聴メモを元に再現したものです。他の新聞の尋問要旨等を読み深めるためにご活用いただきたいと作成いたしました。

そのため、尋問の細かな表現まですべて再現しているとは言えませんが、できるだけ問答については省かずに掲載しました。

 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅澤裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅澤さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」

 梅澤「はい」

 原「所属していた海上挺身隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」

 梅澤「はい」

 原「当時はどんな装備だったか」

 梅澤「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾もあった」

 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」

 梅澤「戦えない」

 原「陸上戦は想定していたのか」

 梅澤「いいえ」

 原「なぜ想定していなかったのか」

 梅澤「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」

 原「どこに上陸してくると思っていたのか」

 梅澤「沖縄本島だと思っていた」

 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」

 梅澤「していない」

 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」

 梅澤「村の助役と収入役、小学校の校長、役場職員、それに女子青年団長の5人だった」

 原「5人はどんな話をしにきたのか」

 梅澤「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。サイパンの話も聞いている。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」

 原「誰から言われているという話だったのか」

 梅澤「役所の上司、那覇あたりの行政から。それで、弾を破裂させ殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、ということだった」

 原「どう答えたか」

 梅澤「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれは後方にさがって陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」

 原「弾薬は渡したのか」

 梅澤「拒絶した」

 原「5人は素直に帰ったか」

 梅澤「執拗に粘った」

 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」

 梅澤「30分ぐらい」

 原「お帰りくださいと言ったのか」

 梅澤「そんな生やさしいことはいわず、『帰れ!』と言った。『死んではいけない』と言って追い返した」

 原「その後の集団自決は予想していたか」

 梅澤「全然、予想していなかった」

 原「本部壕はどこにあったのか」

 梅澤「古座間味の本部壕、住民とは1キロメートルほど離れていた」

 原「集団自決のことを知ったのはいつか」

 梅澤「昭和33年の春ごろ。『週刊朝日』『サンデー毎日』の報道で知った」

 原「なぜ集団自決が起きたと思うか」

 梅澤「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」

 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」

 梅澤「とんでもない」

 原「『島民に芋や野菜をつむことを禁じ』とあるが、島民に餓死者はいたか」

 梅澤「いない」

 原「隊員は」

 梅澤「兵には数名いる」

 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」

 梅澤「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」

 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」

 梅澤「昭和52年に(宮城)初枝から手紙が来て面会することになった」

 原「それでどうしたか」

 梅澤「昭和57年ころだったと思う。部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」

 原「団長の娘の手記には、梅澤さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」

 梅澤「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」

 原「初枝さん以外の4人の運命は」

 梅澤「自決したと聞いた」

 原「昭和57年に宮城初枝さんと再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」

 梅澤「はい。私が覚えていたのは娘だったが、それから40年もたったらおばあさんになっていたから」

 原「その後の初枝さんからの手紙には『いつも梅澤さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」

 梅澤「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたと言え』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 原「昭和62年に、助役の弟に会いに行った理由は」

 梅澤「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」

 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」

 梅澤「1人で行った。3時ごろだったか」

 原「会って、あなたは何と言ったか」

 梅澤「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」

 原「そうしたら、何と返答したか」

 梅澤「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」

 原「どんな話をしたのか」

 梅澤「『厚生省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」

 原「(宮村幸延が書いたという文書を見せ)この証文は誰が書いたのか」

 梅澤「わりとすんなりと書いた。文章をどういうふうにしたらいいのかと」

 原「それでどうしたのか」

 梅澤「私が考えて書いたものを見せて」

 原「これは、どういうものか」

 梅澤「私が下書きしたものかわかりませんな」

 原「下書きと文書の違いは」

 梅澤「幸延氏がその方がよいと思って書いた」

 原「その時、幸延氏は泥酔していたか」

 梅澤「泥酔していなかった」

 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」

 梅澤「資力がなかったから」

 原「裁判で訴えたいことは」

 梅澤「自決命令なんか絶対に出していないということだ」

 原「多くの島民が亡くなったことについて、どう思うか」

 梅澤「気の毒だとは思うが、『死んではならない』と言った。責任はありません」

 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」

 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 被告側代理人(以下「被」)が「防衛省にある『沖縄方面陸軍作戦』をもとに、軍が島に駐留してから以後のことを聞く」と梅澤は、「44年10月から特攻基地建設、特攻の訓練」をやったことと45年2月以後島に駐留する日本軍の最高指揮官は梅沢であったことを「認める」

 被「座間味島の忠魂碑前で、8の日に儀式が行われていたことを覚えているか」

 梅澤「覚えていない」

 被「大詔奉戴日とはどういうことの日か」「太平洋戦争開戦の日に大詔が出されたことを記念し必勝祈願をする日だったのですね」

 梅澤「そうだと思います」

 被「その儀式に軍は参加していたか」

 梅澤「参加していません」

 被「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたことは知っていたか」

 梅澤「島の長が島民に教育していたと思う」

 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」

 梅澤「浸透していたと思う」

 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」

 梅澤「そういうことは、新聞や雑誌を通じて報道されみな知っていた」

 被「軍の作戦本部は最初村役場の会議室と青年会館におかれたのか」

 梅澤「使ったことはない」

 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」

 梅澤「村役場のものが、用があればやってきた」

 被「島民への指示はだれがしたのか」

 梅澤「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」

 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」

 梅澤「私から基地隊長にお願いした」

 被「軍の装備について。軍にとって手榴弾は重要な武器か」

 梅澤「はい」

 被「宮城初枝さんが木崎軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」

 梅澤「はい。初枝から聞いた」

 被「(座間味村史を示し)宮里育江さんが3月25日に『連れて行くわけにはいかない。民間人だし足手まといになる。万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いているが、このことは知っているか」

 梅澤「知らない人だ」

 被「こんなことがあった、というのは知っているか」

 梅澤「おそらくそんなことはなかったと思う」

  被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという宮平初子さんの手記は知っているか」

 梅澤「言うはずがないと思う」

 被「宮川スミ子さんは『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」

 梅澤「そういうことは全然知りませんし、ありえないと思う」

 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」

 梅澤「ありえない」

 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」

 梅澤「知らない」

 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」

 梅澤「知らない」

 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」

 梅澤「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」

 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」

 梅澤「同じだ」

 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」

 梅澤「言った」

 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」

 梅澤「言った」

 

《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」

 梅澤「違う」

 被「沖縄タイムス社との会談のテープがあるが聞いているか」

 梅澤「聞いていない」

 被「記録もあるが読んだか」

 梅澤「読んでいない」

 被「あなたは『家族に見せるため』ということではなかったのか」

 梅澤「それだけではない」

 被「3月28日、(宮里)芳和さんに電話かけてもらって会ったんでしょう」

 梅澤「記憶にない」

 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」

 梅澤「去年」

 被「どういう経緯で読んだのか」

 梅澤「念のため読んでおこうと」

 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」

 梅澤「ない」

 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」

 梅澤「ない」

 被「(梅澤の手紙を示し)あなたが昭和55年に出した宮城晴美さんへの手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響力が甚大であり、軍を代表するものとして全く申し訳ありません』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」

 梅澤「私は『軍は関係ない』とは言っていない」

 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」

 梅澤「関係ないとは言えないという趣旨だ。責任は米軍にある」

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという命令を島民に出したか」

 梅澤「出していない。兵も配置していない」

 原「軍は何かしたのか」

 梅澤「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」

 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」

 梅澤「ありえない」

 原「軍は全島に展開していたからか」

 梅澤「はい」

 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、『ある神話の背景』は読んでいたのか」

 梅澤「はい」

 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」

 梅澤「知っていた」

 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅澤さんの名前は書かれていなかったという意味か」

 梅澤「そういう意味だ」

 《被告側代理人も再び質問》

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」

 梅澤「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 《梅澤の本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》

《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次の弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」

 赤松「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」

 原「1950年に発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」

 赤松「読んだ。大学の近くの書店で偶然見つけて手に入れた」

 原「戦争の話には興味があったのか」

 赤松「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、戦争のことを知りたかったからよく読んだ」

 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」

 赤松「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」

 原「お兄さんに確認したことは」

 赤松「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、1960年ごろ本棚で見つけて持って帰った」

 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」

 赤松さん「『沖縄戦記』も。ほかにも2、3冊はあったと思う」

 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」

 赤松「そりゃショックだ。329人を殺した人殺しと書かれているんですから。」

 原「それで、どうしたか」

 赤松「親兄弟に話さず一人で悩んでいた。ショックで友だちの下宿に転がり込んでいった」

 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」

 赤松「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できた」

 原「『ある神話の背景』は、どういう経緯で読んだのか」

 赤松「友達が教えてくれた。うれしかった。無実がはっきり証明され、信頼感を取り戻せた」

 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」

 赤松「これだけ書かれたら、間違った事実を書いているものは廃刊になるだろうと思った」

 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」

 赤松「大江健三郎先生は直接取材したこともなく、島にも行かず、兄の心の中にまで書かれている。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」

 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」

 赤松さん「はい」

 原「『ある神話の背景』は」

 赤松「友だちにも送りました。読んでくれと。宝物みたいなもんですわ」 

 原「訴訟を起こしたきっかけは」

 赤松「3年前に兄の(陸士の)同期の山本明さんから話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」

 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」

 赤松「むずかしい本ですね。兄の部分だけをパラパラと読んだ。いやとばして読んだ。」

 原「悔しい思いをしたか」

 赤松「はい。45年渡嘉敷島に行ったことまで終章に書かれている。兄も46年『潮』に「私は自決を命令していない」を残しているが、極悪人と面罵(めんば)され、娘に誤解されるのは辛いからと。兄は無実をはらしたいと思っていた。私も兄の無念の思いを晴らしたい。」 

 原告代理人が『潮』の文を読む

《裁判長から、「時間を守りなさい」との注意があり、原告側代理人の尋問が終了》

 被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」

 赤松「ない」

 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求 めたことがあったか」

 赤松「なかったでしょうね」

 被「山本明さんからすすめられたので、裁判を起こしたのか」

赤松「そういうことになります」

被「お兄さんの手記は読んだか」

赤松「『潮』は読んだ」

被「『島の方に心から哀悼の意を捧げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」

 赤松「知っている」

原告側代理人が再尋問

原「裁判は人に起こせと言われておこしたのか」

赤松「山本さんからもどうだと言われましたが、歴史の事実として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」

《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した 13時53分》

このあと行われた大江氏の証言はこちら     11.9沖縄戦裁判本人尋問報告集会での弁護団の報告はこちら