大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOMENEWS>(2007年1月)

「おりがきた裁判」―大江・岩波沖縄戦裁判の射程

  大江・岩波沖縄戦裁判は2005年8月5日提訴以降、本年1月19日で第7回を数える。 これまで原告側、被告側双方から準備書面の応酬がなされてきたのだが、裁判体制という点では原告側・「冤罪訴訟を支援する会」の方が先を進んできた。こちら側の弁護団3人体制に対して、かれら原告側は弁護団36人という巨大体制で臨んできているのである。原告と「冤罪訴訟を支援する会」がこの裁判に特別の意味と比重をかけてきていることを感知するのである。だが支援組織の行動を見ていると、傍聴券の抽選要員としてどっと押し寄せてきては、抽選に当たるや傍聴もせずにさっさと帰ってしまう者もいる。そのため法廷は空席ができることさえある。こちら側は抽選に外れて傍聴できないメンバーが多数いるというのに。これは一体何なのか。

 私は、第3回裁判の傍聴の機会を得たが、そのときの原告側・木地晴子弁護人の陳述、というよりアジテーションの鮮烈な印象が忘れられない。どんな陳述であったか。(渡嘉敷島で)村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって『君が代』をみんなで歌いました。自決はこのとき始まったのです。」「日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本の本来の姿に目覚めるために、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされる事を心から望んでいます。そして、日本人として今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えて欲しいと思います。」と、彼女は朗々と陳述書を読み上げたのであった。(傍点筆者)

 原告とその「支援する会」の狙いは明白である。「名誉毀損」裁判と称して、実質上、沖縄戦における日本軍(皇軍)の名誉回復(美化)を図り、皇軍隊長がいかに「沖縄住民を守ろうとし、そして誇り高いものであったか」という逆転物語の創造にある。そして、それを通して沖縄戦自体の史実(歴史性格)の転換を図ろうとしているのである。

 彼らは、沖縄戦の実相にはまったく触れることなく、渡嘉敷島における集団自決は曽野綾子が書いた碑文に依拠して「美しい愛」によるものだったと言い切っているのだ。

 さらに「日本の名誉を守り、子どもたちを自虐史観から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻しましょう。…」という支援する会のよびかけ文に見られる狙いは「つくる会」の教科書記述書き換え運動と連動したものであることも物語っている。

 私はこの裁判を「おりがきた裁判」と呼びたいと思う。それはどういうことか。この裁判の被告・大江健三郎は、出版指し止めを要求されている彼の書『沖縄ノート』で次のように述べている。

 「旧守備隊長が、かつて『おりがきたら渡嘉敷島に渡りたい』と語っていたという……おりがきたら、この壮年の日本人は、いまこそおりがきたと判断したのだ」

 「次第に希薄化する記憶、歪められた記憶に助けられて罪を相対化する。続いて彼は自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いやそれはそのようではなかったと、・・・1945年の感情、倫理観に立とうとする声は沈黙に向かって次第に傾斜するのみである。誰もかれもが1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮の中で、彼のペテンは次第に独り歩きを始めただろう。本土においてすでにおりはきたのだ。かれは沖縄においていつ、おりがくるかと虎視眈々に狙いをつけている。」(『沖縄ノート』)

 1945年の事実から60年が経った今、原告たちは、もはや、1945年の事実、感情、倫理観は本土のみならず、沖縄においてさえ沈黙し消失したと認識した。そして、ついに「おりはきたのだ」と踏んでこの裁判を仕掛けてきたのだ。彼らにとっては、戦後史は「自虐史観」派、「東京裁判史観」派に牛耳られ続けてきたが、いくつかのまやかし文書に支えられて座間味島、渡嘉敷島で「隊長命令はなかったのだ」という一点を突き出すことによって、戦後史の定説(沖縄戦と皇軍をめぐる史実)の転換を図ろうというわけである。

 私たちは「おりがきた裁判」とさせてはならない。そうではなく、「ヤマトンチュウの戦後平和思想を問う裁判」として位置づけてこの裁判に向かい合わなければならないだろう。

 この間の裁判過程で私たちは、研究者・証言者の協力によって「おりがきた」などとは言わせない史実の新たな発掘・証言、さらには「沖縄戦」および「集団自決」概念の深化・構造化をなしてきた。

 勝手な物語作りを許さない運動を拡大し、「沖縄戦・アジア太平洋戦争」を21世紀世界に位置づけていくような歴史の創造と実践をこの裁判は私たちに要請しているのだと思う。