大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOMENEWS>(2006年10月)

 「大江・岩波沖縄戦裁判」の第5回口頭弁論
9月1日、大阪地裁で開かれる

 支援連絡会が正式に発足してはじめて迎える期日。傍聴希望者は120人余り並んだが、私たち(被告「大江・岩波」)の側が、明らかに上回っていた。仕組まれた提訴から1年、ついに数の上でも圧倒したといっていいだろうか。

  原告側はこの日も、座間味島守備隊長だった梅澤裕氏と渡嘉敷島守備隊長だった赤松嘉次氏(故人)による「自決命令はなかった」という主張を展開した。「命令はなかった」とする証言が収録された新聞記事などを挙げ、証言したとする人たちを、「沖縄の良心として顕彰する」などと礼賛した。 その1人に比嘉という82歳の元琉球政府職員がいる。原告側は、この人物が、渡嘉敷島での「自決命令」は「援護法適用のために、自らも関与して作り出した」ものだと証言した、としている。

 今回、初めて登場する証言であり人物であるが、実は連動するかたちで産経新聞が4日前の8月27日付の朝刊で大々的にこの件を報じた。リードは「渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で『強制』とされているが、信憑性が薄いとする説が有力で、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ」と結ばれている。

 なお原告側は、出版差し止めなどを求めた3冊のうち、『沖縄問題二十年』(中野好夫・新崎盛暉著)について、この日、唐突に訴えを取り下げた。前回、裁判長に「どの時点から不法行為が発生しているか。発刊時期を踏まえた主張を」などと求められていた。そもそも同書は1965年に初版、74年には絶版になっていた本だ。

 だが、残された『沖縄ノート』『太平洋戦争』にしても40年余りも前の本。今頃それをなぜ裁判に?そのあたりにも、原告側の思惑が透けて見えるのではないか。

 同日夜、エルおおさかに場所を移し、岩波書店で訴訟を担当する雑誌「世界」編集長の岡本厚さんや弁護団を迎えて学習会を開いた。参加者は約70人。講師で沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭さんは、「当時、南西諸島は軍事用語でいう『合囲地境』(ごういちきょう)だった」としたうえで、「当時は全てが軍の統制下。『民政』はなく、住民への指示や命令は、たとえ行政や地域のリーダーが伝えたとしても、住民は、『軍命』と受け止める状況にあった」などと話した。