大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOMENEWS>(2010年7月)

 2010年7月27日、支援連絡会主催の学習会が開かれました。講師は、沖縄県渡嘉敷村教育委員長の吉川嘉勝さん。島に生まれ育ち、沖縄戦当時は6歳。国民学校へあがる直前のことでした。「玉砕場」での体験を振り返りながら「『集団自決(強制集団死)』は軍の命令・強制なしにはありえなかった」と語られました。以下は、講演要旨です。(文責・小牧薫)

渡嘉敷島「集団死」の真相

                                  吉川 嘉勝

1.渡嘉敷島の「集団自決」

 まず、沖縄戦における住民集団の自決については、その表記に「集団死」「強制集団死」「玉砕」「集団自決」等いろいろあるが、地元報道機関は「 」つきの「集団自決」を採用し、(集団死)(強制集団死)と括弧書きで注釈しているのが多い、ここでも以下「集団自決」としたい。

 慶良間列島は、沖縄本島の西40キロメートルのところにある島々です。渡嘉敷島は、那覇の泊港から高速艇で35分で着きます。慶良間海峡を挟んで西に座間味島があります。

 地図をご覧ください。渡嘉敷島の北の部分です。番号をうって、下に説明をつけています。@が「集団自決」場跡地です。Dが赤松隊(海上挺進第三戦隊)防空壕跡地です。@とDの間は450メートルしかありません。米軍は、西から上がってきました。村の人たちは、北山に行けば、北御嶽が守ってくれる、と信じて集まったのだと思います。BとCに、「集団自決」場跡地の碑以下、渡嘉敷島の沖縄戦関連遺跡の写真を掲げています。(略)5つめが、赤松隊本部壕跡地です。隊長壕は崩落してしまっていますが、この小川の両斜面に54の避難壕があります。そのつぎの3枚が特攻艇秘匿壕跡地で、村指定史跡にしました。文化財委員になり、調査をして、説明板も設置しました。壕は、入り口高さ2.3メートル、幅3メートル、奥行き12.2メートル、黒色千枚岩の堅い岩石のため当時の状態を今にとどめています。この写真の撮影・編集はすべて吉川が撮りためたものです。

 10,11,12が水のあるところです。その近くに13が二つありますが、民間の壕がありました。そこに防空壕を掘って隠れたのです。

 戦争中の渡嘉敷島の人口は1300人くらいで、当時島にいたものは約1000名です。5ページ、沖縄戦における渡嘉敷村での一般住民戦没者集計データです。字、市町村別の死者数、合計で380名、女が244名です。戦争は男がやっているのに、なぜ半数以上が女なのでしょう。そこのところも考えてください。「集団自決」者数は、一般に329名と書かれていますが、現在のところ330名ということになっています。そのうち、9歳以下が93名です。これにも注目してください。

 6ページは、「白玉の塔実刻銘者数(大東亜戦争全戦没者合祀者数)」です。「平和の礎」の刻銘者数です。日中戦争以来の戦没者です。座間味島では8カ所で「集団自決」が起こっていますが、渡嘉敷島では1カ所で、ほとんど同じ時刻におこっています。

 渡嘉敷島には、赤松嘉次大尉率いる海上挺進第三戦隊、俗にいう「赤松隊」が駐留しました。特別幹部候補生隊員104人、特攻艇100隻、120s爆雷210個保有、整備中隊55人、特別水上勤務の小隊、下士官・兵13人、朝鮮人軍夫210人(約600人の基地隊は途中、沖縄本島へ引き上げました)でした。

2.米軍上陸と住民の「集団自決」

 3月23日から米軍の攻撃が始まります。3月27日の昼過ぎにいろんな人から情報が入って、北山に集まれと。夜になってから、雨の降りしきる中を、一寸先も見えない感じだから、家族でロープをお互いつかまえていた感じがします。僕は小さかったから、姉の背におぶわれて、岩山を上がってきたのです。川伝いだと岩棚がある。そこを上がるとき木をつかめて進む。その木が折れたりしたら、下の岩に頭をぶつけて死ぬのは僕だなと思いました。北山に行って、雨もやんで、次から次から島の人が集まってワーワーとしていた。

 兄の勇助は役場職員でしたから、いろいろ気にしてあたりをうかがっていたようです。村長のところに伝令がきて、なにか耳打ちしていたようです。そのあと、村長が訓示をして「天皇陛下万歳」を三唱し、「集団自決」がはじまったのです。我々の家族も兄と戦争帰りの義理の兄が手榴弾を爆発させようとした。勇助兄の手榴弾が爆発したら、僕は生き残る、どうしようと思ったことを覚えています。

 姉たちより私の方がいろいろ憶えているんですよ。姉たちは、トラウマがあって、記憶が曖昧になっているんです。でも、9月29日の県民大会で、話したあとは、姉たちもいろいろ思い出すんですよ。毎年3月28日に、集まると当時のことを話すようになりました。

 あちこちで手榴弾が爆発する中、いとこの兄さんが長男をおんぶするのが見えたんですよ。母がこれを横目で見て、大きい声で叫んだんです。方言で、「ユウスケ、手榴弾は捨てなさい。死ぬのはいつだってできる。ほら、兄さんたちを追いなさい。皆立て。」と。前の集団を追って逃げた。逃げる途中で、親父が流れ弾にあたった。僕の前は姉だったけど、体が血だらけになった。母は、皇民化教育で洗脳されないで、自決場であんな行動がとれたのは、長男を日中戦争で亡くしたこともあったでしょうが、母が神に仕えるニーガン(神人)だったことが大きいと思う。そうして、私は生き残ったのです。

3.なぜ「集団自決」が起こったのか

@ 日本軍のいなかった島では「集団自決」は起こらなかった。大江・岩波沖縄戦裁判でも出てきますが渡嘉敷村前島では起こらなかった。座間味村久場島、屋嘉比島、粟国島、渡名喜島、久米島でも。久米島には通信隊が駐屯しており、「集団自決」はなかったのですが、鹿山隊長が住民をスパイ視して20名もの住民を虐殺しています。沖縄本島北部の伊平屋島、伊是名島、野甫島でも起こっていません。野甫島ではハワイ帰りの人が白旗をあげて投降し誰も死にませんでした。沖縄本島南部の久高島、津堅島、宮城島でも起こっていません。

A 赤松隊長が住民を北山に集めなければ渡嘉敷島の「集団自決」はなかった。

B 軍の貴重な弾薬「手榴弾」が、住民に渡らなければあの惨事は決行されなかった。富山真順さんがつぎのように証言しています。3月20日ころ、村役場の前の広場に役場職員や16歳以下の少年が集められ、兵器軍曹が2箱の「手榴弾」を持ってきて一人2個ずつ配っています。

4.さいごに

 文科省の検定意見によって、教科書の「集団自決」の記述が書き換えられたことは決して許すことができない。検定意見撤回を求める県民大会で、体験を発表したのもそういう気持ちからでした。検定意見の根拠になった戦隊長の証言は間違っている。日本軍の命令・強制・誘導なしには「集団自決」は起こらなかった。みなさんと一緒に、裁判勝利、検定意見撤回まで、戦い抜くためにがんばりたい。