大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOME高裁>(2008年8月)

準備書面(3)

2008年(平成20年)8月22日

(目 次)

第1 「控訴理由書」第1(請求の趣旨の変更)について

1 同1(変更の内容)について

2 同2(変更の理由)について

第2 同第2(原判決の最高裁判例解釈上の問題)について

 1 同1(真実相当性の法的性質にかかる誤り)について

 2 同2(出版差止めの要件にかかる誤り)について

第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について

 1 同1(概観)について

 2 同2(「文科省の立場等」なるものの認定について)について

 3 同3(「軍の関与」から《隊長命令》を認定する誤り)について

 4 同4(《隊長命令》と援護法の適用との関係にかかる認定の誤り)について

 5 同5(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その1)―座間味島・渡嘉敷島共通部分―)について

 6 同6(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その2)―座間味島―)について

 7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)について

第4 同第4(宮平秀幸証言)について

第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について

 1 同1(原判決の判示)について

 2 同2(究極の故人攻撃)について

(平成20年6月16日付控訴人ら「控訴理由書」に対する反論等)

第1 「控訴理由書」第1(請求の趣旨の変更)について

1 同1(変更の内容)(3頁)について

   変更後の請求の趣旨について、請求棄却を求める(第1回口頭弁論において答弁済み)。

2 同2(変更の理由)(3頁)について

(1)同(1)について

    控訴人は、原判決が隊長命令の真実性を肯定しなかったから、本件各書籍の出版等は違法ということになると主張するが、原判決は隊長命令について真実相当性を認め、本件各書籍の出版は不法行為に該当しないとしており、控訴人の主張が誤りであることは明らかである。

(2)同(2)及び(3)について

    控訴人は、平成19年12月26日に発表された教科書検定についての文部科学省の立場及び原判決が隊長命令の真実性を肯定しなかったことを理由に、本件各書籍の販売継続の違法性がより高度なものになったなどと主張する。

    しかし、文部科学省は、後記第3、2(7頁以下)記載のとおり、本件訴えの提起及び控訴人梅澤の陳述書などによって隊長命令があったとする従来の通説が覆されたとして行った平成19年3月30日発表の教科書検定を事実上撤回し、「日本軍によって『集団自決』に追い込まれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追い込まれた」などの記述を認める立場に戻ったものである(乙103琉球新報記事)。また、原判決は、控訴人梅澤の供述を信用できないと判示し、本件各書籍の出版継続は不法行為とはならないとしたものである。

    したがって、控訴人の上記主張が失当であることは明らかである。

第2 同第2(原判決の最高裁判例解釈上の問題)について

 1 同1(真実相当性の法的性質にかかる誤り)(6頁)について

(1)控訴人は、原判決が同一の証拠資料に基づき、一方では真実性を否定し、他方で真実相当性を肯認しているということは、真実相当性をもって真実性の証明の程度の緩和と捉えていることであり、これは最高裁判例が真実性の証明を違法性阻却事由とし、真実相当性を故意又は過失を否定する責任阻却事由として位置付けていることに違背する、と主張する。

    しかし、最高裁昭和41年6月23日判決(民集20巻5号1118頁)が、「民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である」と判示していることについて、伊藤眞教授は、「摘示事実についての真実性の証明は、違法性阻却のための立証であり、他方、真実と信じることについての相当の理由の存在は、主観的要件たる故意または過失の成立を阻却するための立証であり、それぞれの要証事実は異なるから、この判例が真実性の証明についての証明度を軽減したものということはできない。しかし、2つの抗弁を主張する被告の立場からみれば、真実性自体を高度の蓋然性をもって証明できない場合であっても、それが優越的蓋然性の程度に達していれば、その立証が『真実と信じることについての相当の理由』の証明にあたるものとして、損害賠償責任を免れることが考えられるから、結果としては、証明度の軽減と同様の効果が生じうる」と説明している(伊藤眞「証明度(1)ルンバール事件」「ジュリスト増刊『判例から学ぶ』事実認定」所収)。このように、同一の証拠によって、真実性自体を高度の蓋然性をもって証明できない場合であっても、それが優越的蓋然性の程度に達して真実相当性の証明ありとされることがあるのは当然のことである。

    原判決は、原告梅澤及び赤松大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対し自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料又は根拠があると評価できるから、本件各書籍の各発行時及び本訴口頭弁論終結時において、被告らが真実と信じるについて相当の理由があったものと認められると判断したもので、最高裁判例が真実性の証明を違法性阻却事由とし、真実相当性を責任阻却事由として位置付けていることに何ら違背していない。

(2)また控訴人は、「最高裁が真実性の証明ある場合だけではなく、真実であると誤信したことに相当な理由ある場合も故意又は過失が否定されることとして免責しているのは、行為時において把握し、或いは把握しえた資料・情報に基づき、真実であると正当に信じた者を、その後表れた資料・情報によって真実でないことが判明した場合であっても、正当な表現行為として保護せんとの趣旨であると解される」などとも主張する。

    行為後に現れた資料・情報によって真実でないことが判明した場合であっても、行為時に真実相当性が認められることは、当然であるが(いわば誤信したことに相当性がある)、前記のとおり、同一の証拠によって真実であるとまでは認められないが、真実相当性は認められるという認定がありうるのも当然のことである。

(3)控訴人は、団藤博士の「刑法綱要各論第三版」を引用しているが、引用部分から、控訴人が主張するように「同一の資料をもって真実性と真実相当性の判断が分かれることがありえない」などとは全くいえない。

(4)さらに控訴人は、最高裁平成11年10月26日判決(民集53巻7号1313頁)を引用して、「真実と報道された事実と同一性のない事実については真実の相当性の根拠とすることができない」などと主張するが、同判決は、刑事第一審判決において認定された事実について、行為者が判決を資料として認定事実と同一性のある事実を真実と信じて摘示した場合、特段の事情がない限り、真実と信ずべき相当の理由がある、と判示しているだけであって、「真実と認定された事実と同一性のない事実については、真実相当性の根拠とすることができない」などとは全く述べていない。

 2 同2(出版差止めの要件にかかる誤り)(12頁)について

(1)控訴人は、北方ジャーナル事件最高裁判決は、「事後的制裁としての差止請求の要件については、『名誉を違法に侵害された』ことをもって足りるとされているのであり、『真実性』の要件について損害賠償の場合よりも、訴訟上の責任を加重されていると読み取ることはできない」と主張するが、被控訴人準備書面(4)で詳述するとおり、出版行為がすでに行なわれている場合であっても、差止請求は事後的制裁ではなく、将来にわたり出版を禁止し、公共的事項に関する事実や評価が人々に伝わることを妨げるという点においては、出版開始前の差止請求と同様、民主主義社会の基礎を崩壊させる危険のある事前抑制であることにかわりはなく、差止めが認められるには、北方ジャーナル事件判決と同じ、@表現内容が真実でないことが明白であるか、または専ら公益を図る目的のものでないことが明白であること、A被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがあること、の2要件が必要と解すべきである。

(2)また控訴人は「北方ジャーナル事件最高裁判例は、たとえ『真実相当性』が認められるものであっても、客観的に『真実性』を欠いていることが認められる表現については、将来における予防的救済措置としての事前の差止めを許容する場合があるという態度を取っているのである」などと主張するが、前記のとおり、同判決は差止めが認められるには「表現内容が真実でないことが明白であること」を要件としており、「真実相当性」が認められる場合に同要件が満たされるなどということはありえず、控訴人の主張は誤りである。

    さらに控訴人は「仮処分決定ないし判決(口頭弁論終結)時において『真実性』が認められないとの判断によって違法性が宣告された表現については、その宣告直後から『真実相当性』を認めて故意・過失を阻却する余地がない」などとも主張するが、同主張は、「同一の資料を基に『真実性』と『真実相当性』の判断が分かれることは理論的にありえない」という誤った見解に基づくものであり、同主張もまた誤りであることは明らかである。

(3)なお控訴人は、「本件各書籍の出版等が、控訴人らの名誉等の人格権を侵害するものであり、控訴人らがこれによって重大な損害を被っていることは原判決が認定しているとおりである」と主張するが、原判決は、控訴人らが重大な損害を被っているなどとは認定していない。

第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について

 1 同1(概観)(18頁)について

   控訴人は、原判決の証拠評価と事実認定は全く恣意的なものである、真実相当性の認定につき厳格性を要求する最高裁判例の立場に違背している、などと主張するが、以下に述べるとおり、原判決の証拠評価と事実認定は正当であり、最高裁判例の立場に違背しているなどということも全くない。

2 同2(「文科省の立場等」なるものの認定について)(18頁)について

(1)控訴人は、原判決が「少なくとも平成17年度の教科書検定までは、高校の教科書にまで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、布村審議官は座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していた」と認定したこと(原判決205頁、208頁)について、「従来の通説であった《隊長命令説》は、平成18年度検定当時(平成19年3月31日)、既に覆っていた」とし、布村審議官、銭谷局長の発言により、文科省が、平成12、13、14年の資料から、「既に『従来の通説』が変更されていることを十分に認識していた」などと主張する。

    原判決は、前記のとおり、平成17年度の教科書検定まで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、布村審議官が、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していた、と認定しているのであり、控訴人の主張は、同認定についての何の反論にもなっていない。ただこの点は措くとしても、控訴人の主張は誤っている。

    まず平成18年度教科書検定の経緯は、原判決が認定するとおり、「文部科学省は、平成17年度教科書検定においては、沖縄戦の集団自決に関する記述について検定意見を付さなかったが、平成19年3月30日、平成18年度教科書検定において、7冊の申請教科書に対し、沖縄戦の集団自決に関する記述について、日本軍による自決命令や強要が通説となっているが、近年の状況を踏まえると命令があったか明らかではない旨の検定意見を付した」(原判決198頁)というものである。そして同検定意見が問題となって以降、原判決が198頁以下に認定している、伊吹文部科学大臣、布村審議官、銭谷局長の具体的発言は次のとおりである。

ア 平成19年4月11日衆議院文部科学委員会の銭谷局長の発言

「従来、この集団自決が、日本軍の隊長が住民に対して集団自決命令を出したとされて、これが通説として取り扱われてきたわけでございますけれども、この通説について、当時の関係者からいろいろな証言、意見が出ているという状況を踏まえまして、今回の教科用図書検定調査審議会の意見は、現時点では軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないという趣旨で付されたものと受けとめておりまして、日本軍の関与等を否定するものではないというふうに考えております」(乙94・23頁)

「沖縄戦につきまして、最近の著書等におきまして、軍の命令の有無が明確ではないというような記述でございますとか、あるいは、当時の関係者が訴訟を提起しているといったような状況がございまして、現時点では軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないということから、教科用図書検定調査審議会ではそのような意見を付したものでございます」(乙94・24頁)

イ 同委員会の伊吹文部科学大臣の発言

「私は、日本軍の強制があった部分はあるかもわからない、それは当然あったかもわからないと思います。しかし、今回言っているのは、なかったとは言ってないんですよ。日本軍の強制がなかったという記述を書けということは言ってないんです」(乙94・25頁)

ウ 平成19年4月24日決算行政監視委員会第一分科会の布村審議官の発言

「従来は、沖縄戦における渡嘉敷島あるいは座間味島での集団自決につきましては、日本軍の隊長が住民に対しまして集団自決命令を出したとされ、それが通説として扱われてきたというふうに認識されているものと承知しております」(乙95・9頁)

エ 平成19年4月25日教育再生特別委員会の銭谷局長の発言

「従来、沖縄戦における渡嘉敷島及び座間味島での集団自決につきましては、その島の日本軍の隊長が住民に対し集団自決命令を出したとされ、これが通説として扱われてきたということでございます。この点について現在さまざまな議論があるということでございます。

たとえば、近年、当時の関係者等からこの隊長の命令を否定する証言等が出てきているといったようなことがあるようでございます。また、沖縄戦に関する研究者の近年の著作等におきまして、軍のこの隊長命令の有無というのは明確ではないというような著作もあると承知を致しております。さらに、平成十七年八月に、従来の通説におきまして集団自決の命令を出したとされてきた元隊長等から訴訟が提起されたというふうにも承知をいたしております。

これらを契機といたしまして、教科用図書検定調査審議会におきまして、改めて専門的な調査審議を重ねた結果、検定意見を付すことが適当と判断をされたものと理解をいたしております」(乙96・10頁)

これらの発言、特に平成17年8月の本件訴訟の提起を考慮しているという事実からしても、平成17年度検定の段階まで文科省が、隊長が自決命令を出したとするのが通説である、と認識していたことは明らかである。

(2)控訴人は、銭谷局長が、平成19年4月11日衆議院文部科学委員会で、沖縄戦における集団自決にかかわる著作として「平成12年、あるいは13年、14年といった年に発行されたものもある」(乙94・25頁)と発言した資料は、宮城晴美著「母の遺したもの」(甲B5)、林博史著「沖縄戦と民衆」(甲B7)のことであり、「銭谷局長の発言から文科省の立場をみると、発言のあった平成19年4月当時はもちろん、『母の遺したもの』『沖縄戦と民衆』等が発行された後の平成14年頃には、既に《隊長命令説》は通説とはいえない状況にあったことが分かる」などと主張する。

    しかし、後記第3、5(1)記載のとおり、「母の遺したもの」の内容は、昭和20年3月25日に宮城初枝が控訴人梅澤に会いに行った際は、自決命令をしていない、というもので、控訴人梅澤が自決命令を出していないとしているものではない。原審において、宮城晴美は、初枝の手記が梅澤隊長の自決命令を否定することにはならないと証言し、座間味島の集団自決は軍の命令によるものであると明確に証言している(宮城証人調書15〜23頁)。さらに、宮城晴美は、原審口頭弁論終結後の2008年1月に、「沖縄・座間味島『集団自決』の新しい事実」との副題を付して、「新版 母の遺したもの」(乙104)を出版し、生き残りの住民の新たな証言などをもとに、集団自決が軍の命令によるものであることを詳しく論証している。

    また「沖縄戦と民衆」には、渡嘉敷島については、「3月20日、村の兵事主任を通じて非常呼集がかけられ、役場の職員と17歳以下の青年あわせて20数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を2個ずつ配り、いざというときはこれで『自決』するように指示した」「軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていたこと、島民を1か所に集めその犠牲を大きくしたこと、防衛隊員が手榴弾の使い方を教え、『自決』を主導したこと、島民が『自決』を決意したきっかけが『軍命令』だったこと、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる」との記述があり(甲B37・160、161頁)、座間味島についても、「25日宮平初子さんらいく人かの島民に日本兵から『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』などといって手榴弾が配られている」との記述がある(同162頁)。すなわち、林博史教授は、「集団自決」が日本軍の指示・命令によるものであるとの認識に到達していたもので、「集団自決」が現地の日本軍の最高責任者である赤松隊長、梅澤隊長の意思に基づくものであることを否定していない。

    したがって、上記のような内容の「母の遺したもの」「沖縄戦と民衆」が発行されたことによって、平成14年頃には、すでに《隊長命令説》が通説とはいえない状況にあったなどとは到底いえず、文科省が「既に『従来の通説』が変更されていることを十分に認識していた」などということもない。

(3)控訴人はまた、平成19年12月26日に公表された教科用図書検定審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」を根拠として、原判決が真実相当性を認めたことを論難するようである。

     しかし、前記のとおり、文部科学省は、平成19年3月30日発表の平成18年度教科書の検定結果では、本件訴訟における梅澤元隊長の意見陳述などを理由に、「日本軍によって…自決に追い込まれた」「日本軍に集団自決を強制された人もいた」などの教科書の記述について、「日本軍の関与」を示す部分を削除するように修正させたが(乙75の1、2琉球新報記事ほか)、その無謀な措置に対する世論の厳しい批判を受け(乙75〜93新聞記事)、その立場を改め、同年12月、出版社からの訂正申請に対し、「日本軍によって『集団自決』においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」(東京書籍)、「日本軍により、戦闘の妨げになるなどの理由で県民が集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑をかけられるなどして殺害されたりする事件が多発した」(実教出版)、「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追い込まれた」(実教出版)などの記述を認めるに至った(乙103琉球新報記事)。すなわち、文部科学省は、平成18年度教科書検定の最終結論では、平成17年度検定の立場に戻ったものである。

     教科用図書検定審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」は、「集団自決は、太平洋戦争末期の沖縄において、住民が戦闘に巻き込まれるという異常な状況の中で起こったものであり、その背景には、当時の教育・訓練や感情の植え付けなど複雑なものがある。また、集団自決が起こった状況を作り出した要因にも様々なものがあると考えられる。18年度検定で許容された記述に示される、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなど、軍の関与はその主要なものととらえることができる。一方、それぞれの集団自決が、住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない。他方で、住民の側から見れば、当時の様々な背景要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる」(甲104・8頁)としており、「直接的な軍の命令」を示す根拠は現時点では確認できないとしているだけで、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなどの「軍の関与」を、集団自決の主要な要因として明確に認めている。

     (なお、控訴人は、日本史小委員会が「基本的とらえ方」を整理するにあたって意見を求めた専門委員の意見は、「赤松隊長ないし梅澤隊長から発せられた自決命令の存在を認めていないという点においては、一致している」と主張しているが、隊長命令の存在を否定しているのは、秦委員と原委員だけであり、意見を公表している他の6名の委員は隊長命令の存在を否定しているわけではない。)

     したがって、同意見は、原判決が、日本軍及び座間味島及び渡嘉敷島の隊長が集団自決に関与しており、隊長が自決命令を発したことについて合理的資料若しくは根拠があり、隊長が自決命令を発したことが真実であると信じるについて相当の理由があると認定したことの裏づけにこそなれ、同認定を覆す根拠となるものでは全くない。

3 同3(「軍の関与」から《隊長命令》を認定する誤り)(30頁)について

    控訴人は、原判決が、「座間味島及び渡嘉敷島の集団自決に日本軍が深く関わったものと認められ、座間味島の集団自決に控訴人梅澤が関与したことが十分に推認でき、渡嘉敷島の集団自決に赤松大尉が関与したことが強く推認される」とした上で、「控訴人梅澤及び赤松大尉が自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから、真実と信じるについて相当な理由がある」と判示したことについて、合理的資料や根拠といっても、せいぜい「軍の関与」や「隊長の関与」を推認する程度の証拠にすぎないと主張する。

   しかし、原判決は、「軍の関与」「隊長の関与」が認定できるというだけの理由で「隊長命令」について真実相当性があるとしたものではなく、これに加えて、高校教科書の記載、文部科学省審議官が隊長命令が通説だったとしていること、原判決引用の諸文献の存在及びその信用性、本件各書籍の著者の取材状況等から、真実相当性があると判断しているものであり、控訴人の主張は理由がない。

4 同4(《隊長命令》と援護法の適用との関係にかかる認定の誤り)(33頁)について

(1)同(1)(原判決の判示)について

   援護法の適用を受けるため隊長命令がねつ造されたとの控訴人の主張が理由のないものであることは、援護法の適用が意識される以前から慶良間列島の集団自決は隊長命令によるとされていたこと、援護法の適用対象となる戦闘参加者の要件として隊長命令は必ずしも不可欠の要件ではなく、隊長命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された集団自決の例があったこと(乙96教育再生特別委員会会議録17頁以下における政府答弁参照)など、原判決(159頁以下)が詳細に判示するとおりである。

(2)同(2)(命令がなくても戦闘参加者に認定されたものもあったとの点について)について

   この点について、控訴人は、命令がなくても戦闘参加者に認定されたものもがあることを認めた上で、救済のためあてはめが緩くなったからだなどと主張するが、なんら根拠のない主張である。

(3)同(3)(援護法にもとづく申請から認定までの期間が短かったとの点について)について

   控訴人は、援護法の適用を受けるために「軍命令」が座間味村、渡嘉敷村の公式見解として意図的に打ち出されたなどと主張するが、根拠のない憶測にすぎない。

   両村では、住民は、集団自決が発生した昭和20年当時(援護法が沖縄に適用された昭和28年以前)から、軍の指示・命令により集団自決が行われたと認識し、その旨証言していたものであり(乙35の1、2掲載の米軍の「慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)、乙2「鉄の暴風」(昭和25年)、乙3「座間味戦記」(昭和28年3月以前作成と推定される―後記6(1)ウ30頁参照)、乙29「地方自治七周年記念誌」(昭和30年)など)、だからこそ、集団自決について援護法の適用を求めたのである。

   また、国は、座間味村、渡嘉敷村に事務官等を派遣し調査のうえ、両村の集団自決が隊長命令によるものであると認定し、援護法を適用し、その認定を変更することなく、現在に至るまで、給付を継続しているものである(乙96衆議院教育再生特別委員会会議録16頁以下)。

(4)同(4)(米軍の『慶良間列島作戦報告書』の評価について)について

    控訴人は、原判決が援護法の適用のため自決命令をねつ造したとはいえない根拠として米軍の「慶良間列島作戦報告書」をあげたのは誤りであると主張するが、同報告書にあるとおり、集団自決が起こった直後に、慶留間島の住民が、日本兵から自決しなさいと言われたと述べていたことは事実であり、座間味村の住民が捕らわれないために自決するよう指導(勧告)されていたと述べていたことも事実である(乙114の1、2)。自決命令が援護法適用のためにねつ造されたものでないことは明らかである。

   控訴人も梅澤隊長命令説、赤松隊長命令説が援護法以前から存在していたことを認めている(控訴理由書37頁以下)。

(5)同(5)(援護法適用が意識される以前から《隊長命令説》はあったからねつ造の必要はないとの点について)について

    控訴人は、座間味島及び渡嘉敷島では、援護法適用以前から、隊長が自決を命じたとされていたことを認めているが(37頁以下)、「誰も直接聞いた者のいない命令」であり風説に過ぎなかったなどと主張する。

    控訴人は、宮里盛秀助役が「軍の命令」ととられうるような形で自決の指示を座間味村内に伝達したとしているが、同助役ら村の幹部たちは、事前に駐留の日本軍(梅澤隊長)より、米軍が上陸した場合は住民は捕虜とならないため自決するよう命令されていたものであり(乙51宮平春子証言、当審新証言乙105垣花武一証言など)、同助役は、昭和20年3月25日夜、米軍の上陸を目前にし、激しい艦砲射撃がなされるなかで、軍の命令にしたがい、伝令の宮平恵達(役場吏員兼防衛隊員)に指示し、自決のため忠魂碑前に集まるよう住民に伝え、その結果集団自決がなされたものである。座間味島では駐留する日本軍の命令は助役兼兵事主任兼防衛隊長である宮里盛秀ら村の幹部を通じて住民に伝達されていたので、多くの住民が伝令の自決の指示を梅澤隊長の命令として受け止めたが(甲B5「母の遺したもの」及び乙104同書新版215頁、宮城晴美証人調書2〜3、8、11、23〜24、27頁)、誰も直接隊長から命令は聞くことはなかったものである。したがって、隊長の命令を直接聞いた住民がいないからといって、軍の命令や隊長命令がなかったことにはならない。なお、宮里盛秀助役は日本軍の正規部隊(乙34)である防衛隊の隊長であった。

    この構造は渡嘉敷島でも同様であったと考えられる。渡嘉敷島では、昭和20年3月20日に駐留する日本軍(赤松隊長)の兵器軍曹が住民に手榴弾を配り、米軍の捕虜となるおそれのあるときは手榴弾で自決するよう指示し(乙11、乙12)、同月28日には、あらかじめ日本軍(赤松隊長)から米軍の捕虜とならぬよう住民は自決するよう命令されていたと考えられる村長が、基地から来た伝令の伝言を受け、防衛隊員が配布した手榴弾で自決するよう住民に号令をかけ、集団自決が行われた(乙67、乙70)。上記の手榴弾配布は最高指揮官である赤松隊長の指示なしにありえないことであり、赤松隊長の命令を直接聞いた人がいないからといって、軍の命令や隊長命令がなかったことにはならない。

(6)同(6)(照屋昇雄が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたことは疑問との点について)について

ア 控訴人らは、原判決が「昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞や正論の記事」には「疑問がある」としたことについて、不合理な評価をしていると主張する。

  しかし、原判決は、「証拠(乙56の1及び2、57の1及び2、58並びに59)によれば、照屋昇雄は、昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され、中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し、昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり、昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっていること、照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月であったことが認められ、これらの事実に照らすと、照屋昇雄がこれに先立ち昭和29年10月19日以降援護事務の嘱託職員となっていたことを示す証拠(甲B63ないし65)を踏まえても、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある」(原判決163頁)と認定しており、原告ら提出の証拠等を踏まえても、照屋証言には「疑問がある」としているのであり、恣意的な証拠評価では全くなく、照屋の経歴に関して提出された証拠の検討をしていることも明らかである。

イ そもそも照屋証言とは、「照屋昇雄が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をした者であるとした上で、同人が渡嘉敷島での聞き取り調査について、『1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた』ものの、『軍命令とする住民は一人もいなかった』と語ったとし、赤松大尉に『命令を出したことにしてほしい』と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出した」(原判決157頁)というものである。

  しかし、まず照屋が仮に甲B63のとおり、昭和29年10月19日に援護事務嘱託となったとしても、昭和30年12月に、中部社会福祉事務所の社会福祉主事となり(乙56)、援護課には属さず、その後社会局援護課に在籍したのは昭和33年10月であり(乙59)、あたかも「昭和20年代後半から」ずっと社会局援護課に勤務して、援護法に基づく手続に関与していたかのような証言は虚偽である。

ウ そして、照屋証言の内容についてであるが、元大本営船舶参謀であった馬淵新治は、復員後厚生事務官となり、昭和30年3月から昭和33年7月まで総理府事務官として日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務し(乙37・4頁)、沖縄において援護業務に従事しており、昭和30年に赴任して以来、座間味島や渡嘉敷島を訪問し、調査していたものであるが(乙36・4〜31頁)、戦闘協力者(戦闘参加者)として住民を援護法の適用対象とすることについて、「今年(引用者注;昭和32年)は沖縄戦の13周年忌を迎えることになった為、これが早急の処理が強く叫ばれ、近く厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣せられる段階となった。この所謂戦斗協力なるものの実態調査によって、国内戦の一様相が想察せられると思われるので、以下現在迄に調査した主要事項について述べることとする」(乙36・41頁)としたうえで、「戦闘協力者」(戦闘参加者)に該当するものとして、「慶良間群島の集団自決 軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。 自決者 座間味村155名 渡嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。また、馬淵は、「慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております」と述べている(乙37・4−31頁)。すなわち馬淵の調査に、両島の住民は部隊長から自決命令があったと証言していたもので、日本政府(沖縄南方連絡事務所)も当初から、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていたものであることが明らかである。

  渡嘉敷島において自決命令があったとする住民の証言は多数存在し(乙11・279頁〜287頁、乙9・768頁〜769頁)、昭和31年に琉球政府援護課に奉職し慶良間諸島の状況を調査した金城見好も、「『集団自決』が軍によって命令されたことや、住民の苦悩などが当時伝わっていた。援護業務開始に当たって、『集団自決』で悲惨な体験をしたこと、最初に地上戦が始まった慶良間諸島を特別に調査した」「調査を行った人々から、われわれにも(軍命があったことを)聞かされた」と証言しており(乙47の2)、慶良間列島における住民に対する調査で、住民が軍による自決命令があったと証言していたことは明らかである。

  したがって、渡嘉敷島における住民に対する調査において、「軍命令とする住民は一人もいなかった」とする照屋証言は到底信用できない。

エ さらに、原判決が認定するとおり、「本訴の被告ら代理人である近藤卓史弁護士は、平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により、厚生労働大臣に、前記産経新聞に掲載された『沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松嘉次元大尉が自決を命じたとする書類』の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で『開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。』との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる」(原判決164頁)のであり、「赤松大尉に『命令を出したことにしてほしい』と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出した」との照屋証言には全く信用性がない。

  なお、控訴人は、約50年も前の申請書類は、保存期間経過による廃棄などにより保有されていないことは十二分にあり得るなどと主張するが、援護法による給付は現在も続けられており、申請書類等は保存されているものである。それにもかかわらず照屋昇雄らが提出したとする故赤松嘉次元大尉が自決を命じたとする書類は不存在とされているものである。

  また、甲B107「正論」記事で、石川水穂産経新聞論説委員は、産経新聞は記事を掲載する前に厚労省担当者に会い当該文書が保管されていないことを確認し、その際「沖縄県が本土復帰した際、沖縄県側に渡されたようだ」と説明があったと記載しているが、産経新聞は存在が確認できない文書を存在するかのように報道したことになる。また、厚労省の担当者が30数年も前の沖縄の本土復帰の際に沖縄県側に渡されたようだなどと説明することは考えられないことである。

オ なお、照屋は、国旗国家推進沖縄県民会議の役員として活動している者である(乙115陳情書)。

カ 以上の点から、照屋証言を疑問とする原判決の認定は正当である。

(7)同(7)(宮村幸延の『証言』書面及び梅澤陳述書の評価について)について

   宮村幸延の「証言」書面(甲B8)が真意を表したものでないこと、及びこれに関する控訴人梅澤の陳述書(甲B33)が信用できないことについては、原判決(164頁以下)が、幸延から直接経緯を聴取した宮城晴美の証言、「母の遺したもの」(甲B5)、「仕組まれた『詫び状』」(乙18)、幸延の妻宮村文子の陳述書(乙41)、控訴人梅澤と新川明の会談録音(乙43の1、2)、甲B85(下書き)などに基づき判示するとおりである。

   控訴人は、「家内に見せるためだけ」と控訴人梅澤が述べたというのは、幸延の苦しい弁明に過ぎないと主張するが、控訴人梅澤は、新川明との会談において、これに近い趣旨の発言をしている(乙43の2・5頁)。

   また、控訴人は、「証言」の書きぶりから泥酔状態で書かせたとはいえないと主張するが、控訴人梅澤は、幸延が毎日朝起きてから寝るまで酒を飲み続け、当時も酒に酔っていたことを認めており(乙43の2・5〜6頁)、幸延の妻文子は、当時幸延が酒に酔って見境がない状態だったと述べている(乙41)。控訴人梅澤は、新川明との会談で、幸延が当日飲んでいたのはビールだったから正気は失っていないなどと述べているが(乙43の2・6頁)、幸延は日頃からビールは一滴も飲まず、当日は前夜の酒が残った状態で朝から泡盛を飲まされ、何も覚えていないほど酔っていたものである(宮城晴美に対する宮村幸延夫妻の証言。乙18・117頁)。

座間味村も、昭和63年の沖縄タイムス及び沖縄県援護課あて公式回答(乙21の1、2)において、「集団自決が村の助役の命令で行われたとの記事等は事実無根である。宮村幸延氏は酩酊状態で梅澤氏に強要されて捺印した模様である。同氏は戦争当時山口県で軍務にあり、座間味村にはいなかったものである」「新聞記事にA氏(宮村幸延氏)の証言が記載されているが、同氏は飲酒中に梅澤氏から強要されたもので、妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないからと言われ、何の証拠にもならないことを申し添えていたもので、信憑性がないものである」としている。

控訴人は、集団自決があった当時宮村幸延は座間味村にいなかったから「証言」(甲B8)の内容を語れる立場になかったとの原判決の判示はあたらないと主張する。しかし、戦争を体験した座間味島の多くの住民が軍(梅澤隊長)の命令によって集団自決したと述べており、これらの住民の証言に基づき座間味村が作成した「座間味戦記」にも梅澤隊長が自決を命じたと記載されており、また、このような認識に基づき多数の住民が集団自決について援護法の申請をし、その適用を受けていたもので、戦争当時座間味島にいなかった宮村幸延が、体験者の認識を覆す事実認識を抱くことができたとは到底考えられない。したがって、「証言」が幸延が書いたものであるとしても、「証言」に記載された事項(@集団自決は梅澤隊長の命令ではなく助役の命令で行われた。A援護法適用のためやむを得ず隊長命令として申請した)は、酒に酔わされた幸延が、控訴人梅澤が懇願・強要するがままに、事実に反することを書かされたものというほかないものである。

(8)同(8)(『母の遺したもの』が示す援護用適用のための《梅澤命令説》作出)について

   控訴人は、「真実は、梅澤隊長は自決命令は出していないから、私は虚偽の証言はしたくない」と初枝が述べたのに対し、「島のために虚偽の証言をせよ」と長老が強いたというやりとりがあったと主張するが、根拠のない憶測にすぎない。

すなわち、座間味島の多くの住民は梅澤隊長が自決命令を下したと認識し、その旨証言していたもので(宮城晴美証人調書2〜3、8、11、23〜24、27頁)、座間味村は、このような証言をもとに梅澤隊長が自決命令を下したと「座間味戦記」(乙3収録)に記していたものである。長老が隊長の自決命令が虚偽だと認識していた事実は全くない。また、初枝は、昭和20年3月25日夜の梅澤隊長と助役らとのやり取りから、梅澤隊長は自決命令を出していないと思い込んでいたものであるが、実際には、そのとき以外の日時・場所で、梅澤隊長が助役ら村の幹部らに対しどのような指示・命令を下していたのかについては知り得る立場になかったものである。そして、初枝は、上記のように思い込んでいたことを外部に表明することはなく、昭和37年の「家の光」への投稿(乙19)においても、自ら積極的に「座間味戦記」にしたがって梅澤隊長が自決命令を下したと記載していたもので、隊長命令がなかったとの告白は、昭和52年3月に初めて娘である宮城晴美に対し行ったものである(B5「母の遺したもの」及び乙104同書新版260頁)。

5 同5(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その1)―座間味島・渡嘉敷島共通部分―)(46頁)について

(1)同(1)(『鉄の暴風』(甲B6、乙2))について

   控訴人は、「鉄の暴風」について、原判決が「民間からみた資料として、その資料的価値は否定し難い」(原判決171頁)としていることについて、同書に誤記があること、取材対象の人数・氏名について触れていないことなどを理由に、資料価値を有しないと主張する。

しかし、「鉄の暴風」は、太田良博著「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接体験者を集めて、実際に集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材して、その証言を記録したものである。渡嘉敷島に関する記述についても、沖縄タイムス社の専務であった座安盛徳が那覇市内の旅館に、渡嘉敷村村長であった古波蔵惟好ら体験者を集め、取材を行ったものである(乙23「『鉄の暴風』周辺」223〜224頁)。また、「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、戦争当時国民学校校長であった宇久真成からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を執筆しており(乙23・226〜227頁)、「鉄の暴風」は直接体験者からの取材に基づいて執筆されたものである。沖縄タイムス社の編集局長、代表取締役社長、同会長を務めた新川明も、「鉄の暴風」は、1950年当時に、沖縄タイムス社の記者が直接多数の体験者から聞き取りをしてまとめたものであることを当時の担当者から確認したことを明らかにしている(乙22陳述書1頁)。

原判決は、「『鉄の暴風』は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものであ」り、「牧港篤三が記載した『五十年後のあとがき』によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる」とし、執筆者である太田良博は、「『鉄の暴風』の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと、『鉄の暴風』が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、詳言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった」(原判決169頁以下)としている。また、原判決は、このような「鉄の暴風」について、一部の誤記があることを認めたうえで、「『鉄の暴風』は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が『鉄の暴風』それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる」(原判決170頁)としている。

原判決の判断は正当であり、「鉄の暴風」に資料的価値がないなどといえないことは明らかである。

(2)同(2)(米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2))について

ア 控訴人は、原判決が、米軍の「慶良間列島作戦報告書」(乙35の1、2)の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述について、「慶良間列島に駐留する日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じる」と判示したことについて、上記記述は慶伊瀬島に関するものであり、座間味島との関係が不明であり、また、原文(英文)が明らかでないと主張する。

    しかし、上記の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述は、「歩兵第77師団作戦報告 アイスバーグ 段階1 慶良間列島・慶伊瀬島」(乙114の1、2)に、座間味島の集団自決の生存者について記載されているものであり、座間味島の集団自決に関する記述である。なお、慶伊瀬島は、慶良間列島より沖縄本島寄りに存在する島であるが、渡嘉敷村に属しており、日本軍は駐留していなかったものであり(乙55沖縄方面陸軍作戦224〜227頁)、上記記述が慶伊瀬島に関するものではないことはこのことからも明らかである。

  また、控訴人は、「(米軍に)尋問された民間人たちは、3月31日に、日本兵が、慶留間島の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」との同作戦報告書の記述は、慶留間島のものであり、座間味島に関するものではなく、また、同作戦報告書には渡嘉敷島のことは記載されていないと主張するが、上記作戦報告書記載の慶留間島住民の証言や座間味島住民の証言は、慶良間列島(座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島、慶留間島など)の日本軍が、住民に対し、捕虜となることを禁止し、米軍が上陸したときは捕虜とならぬよう玉砕することを命じていたことを裏付けるものにほかならない。

  すなわち、原審被告最終準備書面(25〜34頁)に詳述したとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたものであり、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、玉砕(自決)を強いていたものであり、この点については、大詔奉戴日での日本軍の言動(甲B5「母が遺したもの」97〜98頁、宮城証人調書18〜19頁、皆本証人調書22頁、甲B66皆本陳述書19頁)、慶留間島での野田隊長や座間味島での小沢基地隊長の訓示(乙48與儀九英回答書、乙9・730頁大城昌子手記、乙105垣花武一陳述書、乙41宮村文子陳述書、宮城証人調書20〜22頁、乙74図)、渡嘉敷村役場前庭での兵器軍曹の手榴弾交付と自決指示(乙11、乙12)、手榴弾を交付するなどしての日本兵からの自決指示(甲B5・97〜98頁、乙13・199頁、宮城証人調書18〜23頁、乙9「沖縄県史」746頁宮平初子手記、738頁以下宮里とめ手記、甲B5「母の遺したもの」46頁宮城初枝手記、乙50「座間味村史」下巻61頁宮里育江手記、乙62・宮里育江陳述書、乙51宮平春子陳述書、乙52上洲幸子陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事、乙98沖縄タイムス記事での宮川スミ子の証言)など、多数の証拠がある。

イ また、控訴人は、林博史教授が「沖縄戦と民衆」(甲B37)で《赤松命令説》を虚偽であることをはっきり認めていたと主張するが、同教授は、上記著書で、「3月20日、村の兵事主任を通じて非常呼集がかけられ、役場の職員と17歳以下の青年あわせて20数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を2個ずつ配り、いざというときはこれで『自決』するように指示した」「軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていたこと、島民を1か所に集めその犠牲を大きくしたこと、防衛隊員が手榴弾の使い方を教え、『自決』を主導したこと、島民が『自決』を決意したきっかけが『軍命令』だったこと、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる」とした上で、「花綵の海辺から」(甲B36)の大江志乃夫の感想を引用し、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる」(160、161頁)としているものである(「花綵の海辺から」の記述は、特段の根拠なく「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。」「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」と記述しているのみで、単に大江志乃夫の感想を述べたものにすぎない)。

 すなわち、林博史教授は、渡嘉敷島の「集団自決」が日本軍の指示・命令によるものであるとの明確な認識に到達していたもので、渡嘉敷島の「集団自決」が現地の日本軍の最高責任者である赤松隊長の意思に基づくものであることを否定したものではない(なお、控訴人指摘の甲B37の「15歳の少年の話」は、慶留間島の住民の話であり、渡嘉敷島の赤松隊長の自決命令の有無にかかわるものではない)。

6 同6(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その2)―座間味島―)(51頁)について

(1)同(1)(『母の遺したもの』に対する評価)について

ア 同ア(梅澤は住民の自決申し出に対し逡巡していただけなのか)について

    昭和20年3月25日夜、助役らが集団自決を申し出、弾薬の提供を求めた際に、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」などと言ったとの控訴人梅澤の供述が信用できず、宮城初枝が述べるとおり「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言ったにすぎないことは、初枝のノート(甲B32)や証人宮城晴美の証言などにもとづき原判決(173頁以下)が詳細に認定しているとおりである。

    控訴人は、原判決(174頁以下)が、「母の遺したもの」収録の初枝の手記に、助役らと控訴人梅澤との面会後の記述として、「唐突に盛秀助役が宮平恵達に伝令を命じた部分があること」などから、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能であると判示しているのは趣旨不明であると主張するが、座間味島の日本軍の最高指揮官であった控訴人梅澤が、その支配下にある助役らに対し「決して自決するでない」と自決の中止を命じたのであれば、面会直後に助役が、隊長の命令に反し、住民を自決させるため忠魂碑前に集まるよう宮平恵達に伝令を指示することはありえないことであり、助役がこのような伝令を指示したということは、すなわち控訴人梅澤から自決を中止するようにとの指示・命令がなかったことを意味し、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は、せいぜい控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないものということになる。

イ 同イ(宮城初枝が直接に自決命令の有無を語る立場にあること)について

     控訴人は、原判決が「初枝は、座間味島の集団自決の際、現場である忠魂碑前にいなかったことになり、原告梅澤と面談した以後、原告梅澤はもちろん、集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから、直接的には原告梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる」と判示したことについて、控訴人梅澤が自決命令を村民側に発した可能性がある場面は、唯一、宮里盛秀助役や初枝が本部壕を訪ねた3月25日の夜のことだけであると主張する。

     しかし、初枝は控訴人梅澤との面談後、助役らや自決をした村民らとは離れて行動していたもので、面談後に隊長の自決命令が村幹部や村民にどのように伝えられたかを知る立場になかったことが明らかである。また、3月25日の面談以前においても、助役ら村の幹部は、軍からの指示を受けるため本部壕の控訴人梅澤のもとをしばしば訪れていたものと考えられるが(乙62宮里育江陳述書)、初枝は助役ら村幹部とともに控訴人梅澤のもとに赴く立場になかったもので、このような機会に同控訴人などから助役らに対し住民の自決について指示・命令がなされたことを知りうる立場になかったものである。

     なお、宮里盛秀助役(防衛隊長、兵事主任を兼任)は、妹の宮平春子や宮村トキ子に対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」(乙51宮平春子陳述書、乙98沖縄タイムス記事での宮村トキ子の証言)と述べており、かねてより日本軍から住民の自決を命じられていたことが明らかである。当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から「米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている」と打ち明けられていた(当審における新証言・乙105垣花武一陳述書)。

ウ 同ウ(唯一の証人による《梅澤命令》の完全否定)について

     控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5)において、著者宮城晴美が《梅澤命令》はなかったと判断を下したと主張するが、そのような事実はない。著者は、集団自決で未遂に終わった人たちのほとんどが「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていることを話題にした際、初枝から「直接隊長からの命令を聞いたのか、もう一度確認してから書きなさい」と言われたので、確認したところ、直接隊長から命令を聞いたという明確な答えがなかったので、記録から削除したもので、隊長命令はなかったと判断したものではない(宮城晴美証人調書27頁、甲B5・259頁、乙104新版259〜260頁)。

     また、控訴人は、宮城初枝が《梅澤命令》の唯一の直接証人であり、初枝の告白を収録した「母の遺したもの」(甲B5)によって《梅澤命令》は完全に否定されたと主張する。

     しかし、座間味村が住民の証言をもとに作成したと考えられる「座間味戦記」(乙3収録)には、「夕刻に至って梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又、老人、子供は村の忠魂碑の前に於いて玉砕するようにとの事であった」(7頁)と記載されている。乙3自体には、作成年月日は記載されていないが、乙3に収録されている「渡嘉敷島の戦闘の様相」はその記載内容から、乙10収録の「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和28年3月)より以前のものと推定され(乙25伊敷清太郎論文)、乙3収録の「座間味戦記」も昭和28年3月以前に作成されたものと推定される。また、昭和30年12月発行の「地方自治7周年記念誌」(乙29)にも「座間味戦記」に依拠したと思われる同様の記載がなされている。

    このように、宮城初枝が厚生省引揚援護局職員から事情聴取を受けた昭和31年12月8日(乙104・255〜256頁)以前に、多くの住民が梅澤隊長から自決が命じられたと語っていたものであり、宮城初枝もそのような住民の証言を多数聞いていたものである(宮城晴美証人調書8頁、甲B31初枝手紙)。座間味村当局も、沖縄タイムス社等からの照会に対し、そのように証言する多数の住民がいることをその氏名を明示して回答している(乙21の1、2)。また、宮城晴美が座間味村の集団自決の体験者から聞取り調査を行った際にも、ほとんどの人が「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていたことは前記のとおりである(宮城晴美証人調書2〜3、8、11、23〜24、27頁)。大城将保も、直接座間味で調査した結果として、「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」としている(甲B25)。

     以上のとおり、初枝が唯一の証人だったことはなく、また、初枝の告白が、《梅澤命令》を否定することにならないことは前記イ記載のとおりである。

     なお、初枝は厚生省引揚援護局職員から聴取された際には、自ら語ることはせず、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」との質問に「はい」と答えただけであった(甲B5・252頁、乙104・256頁)。初枝が、昭和20年3月25日夜助役らと梅澤隊長のもとに赴いた際に隊長が自決を命じたと証言していた事実はなく、「家の光」への投稿(乙19)でも、「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と、「座間味戦記」と同様の記述をしていたにすぎない。また、村の長老は、他の多数の住民と同様、隊長の自決命令があったと認識していたもので、初枝に対し虚偽の証言をするよう求めたものでは全くない。

エ 同エ(梅澤との面談前後の初枝の体験事実)について

     控訴人は、初枝らが梅澤隊長と面談する以前から自決の覚悟を固めつつあったと主張するが、前記のとおり、慶良間列島の日本軍は、住民が捕虜となり軍の秘密が漏れることを防ぐため、米軍に捕まったら虐殺・虐待されると脅し、米軍上陸の際には捕虜となることなく自決をするよう住民に指示し、自決用の手榴弾を交付するなどしていたものであり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。

また、控訴人は、初枝らが兵隊から食糧をもらっており、自決を迫るような言動がなかったことを理由に、《梅澤命令》はなかったと主張するが、軍の任務に従事していた初枝らが兵隊から食糧をもらうのはおかしなことでなく、また、日本軍は、米軍が上陸した際には、捕虜とならぬよう自決せよと指示・命令していたのであり、捕虜となりそうな状況にないときに自決を迫らなかったからといって、自決命令がなかったことにはならない。

オ 同オ(初枝の語る木崎軍曹らとの間のエピソード)について

     控訴人は、「母の遺したもの」に、内藤中尉から弾薬の運搬を指示され、木崎軍曹から自決用の手榴弾を渡された宮城初枝が、その後部隊に帰還した際に梅澤隊長や内藤中尉から「無事でなによりだった」などと労をねぎらわれたと記載されていることについて、《梅澤命令》を否定する根拠となると主張する。

しかし、初枝は女子青年団員として、梅澤隊長が指揮する軍と行動を共にし、弾薬運搬などの任務に従事していたもので、任務を終えて部隊に合流した初枝の無事を喜ぶのは当然のことである。木崎軍曹は、弾薬運搬の任務に出かける初枝に対し、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と言って、米軍の捕虜とならぬよう自決用に手榴弾を渡したもので(甲B5・46頁)、梅澤隊(梅澤隊長)が自決を命じたことは明らかである。無事を喜ぶことと、万一のときに捕虜にならぬよう自決を命じたこととは、なんら矛盾するものではない。

カ 同カ(住民側において自決命令を否定すべき根拠となるエピソード)について

(ア)同@(宮村文子の場合)について

      控訴人は、宮村文子が目撃した自決には《梅澤命令》の影響はうかがえないと主張するが、その根拠は不明である。

前記5(2)ア(25〜26頁)記載のとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたもので、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、住民に玉砕(自決)を強いていたものであり、慶良間列島の集団自決は日本軍の隊長の指示・命令によるものである。

      また、控訴人は、座間味、渡嘉敷の集団自決は、手榴弾で自決を遂げた者は極めて少ないなどと主張するが、事実に反する。座間味島でも、渡嘉敷島でも、自決用に手榴弾が配布された事実が多数ある(前記5(2)ア26頁)。

      なお、原判決129頁7行目に「宮村文子は」とあるのは、「宮里育江は」の誤記である(乙50座間味村史下巻61頁参照)。

   (イ)同A(宮平春子の場合)について

      控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5・219頁)に、宮里盛秀の自決について「住民を敵の『魔の手』から守るために」と記載されていることを指摘し、米軍に殺されるという恐怖から自決したと主張するかのようである。しかし、日本軍はまさに敵の「魔の手」を強調し、捕虜となることなく自決するよう指示・命令していたのである。なお、上記部分は、宮平春子の証言によって軍の命令が明確になったことから、「新版・母の遺したもの」(乙104・220頁)では削除されている。

(ウ)同B(宮里美恵子の場合)について

      控訴人は、宮里美恵子の手記に「玉砕命令がくだった」とあり、「軍の命令」であるとはされていないこと、住民が自決の覚悟を固めていく様子が記載されていると主張するが、日本軍が全権を事実上掌握していた座間味島で、「玉砕命令がくだった」といえば、軍の命令を指す以外ありえないことである。また、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものであることは、前記のとおりである。

(2)同(2)(『沖縄史料編集所紀要』(甲B14)についての評価)について

   控訴人は、原判決が「沖縄史料編集所紀要」、末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであると認定したことは明らかな誤認であると主張する。

しかし、「紀要」末尾6行部分は、控訴人梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったため、大城将保が控訴人梅澤と電話や手紙で調整し、手記の後半部分をカットし、その代わりに、電話で控訴人梅澤から聞き取った結論的見解を大城が加筆し付加したものである(乙45大城将保陳述書)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城の談話は本人への取材によるものではなく、事実に反するものである。)

控訴人は、甲B115号証の末尾に、「紀要」にある「以上により」以下の部分が記載されていないことから、「紀要」の「(戦記終わり)」との記載は場所的な誤植であると主張するが、「紀要」の末尾6行部分が加筆されたのは上記の経緯によるものであり、同部分は控訴人梅澤の結論的見解であって、「(戦記終わり)」は場所的な誤植ではない。控訴人は、控訴審において新たに甲B115、128、129、130を提出しているが、いずれも大城が陳述書で述べている「紀要」末尾6行部分の作成経緯についての主張を否定するものではない。

したがって、「紀要」末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであるとした原判決の認定は正当である。

(3)同(3)(梅澤供述の信用性について―手榴弾の交付について―)について

   控訴人は、原判決が、梅澤隊の木崎軍曹が宮城初枝に自決用の手榴弾を交付したこと、日本兵が住民に自決用の手榴弾を交付したことについて、戦隊長である控訴人梅澤の了解なしに交付したというのは不自然であるなどと判示したことについて、個人的配慮として分けてやったのであると主張するが、なんら根拠のない主張である。

   原判決が指摘するとおり、手榴弾は座間味島、渡嘉敷島に駐留する日本軍の重要な武器であり(乙55沖縄方面陸軍作戦・232、244頁、甲B5・203〜204頁)、部隊において厳重に管理されていたもので、戦隊長の了解なしに住民に交付するなどということはありえなかったものである。控訴人梅澤は、米軍上陸の際には住民を捕虜にされ軍の秘密が米軍に漏れるのを防止するため、住民を自決させることにしていたからこそ、手榴弾を住民に交付することを認めたものである。

控訴人は、赤松隊の中隊長であった皆本証人が、手榴弾の住民への交付について、「戦隊長の了解なしにやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言したことについて、渡嘉敷島での手榴弾交付はすべて戦隊長の了解のもとで行われたことを認めたが、渡嘉敷島と座間味島とでは事情が異なると主張する。しかし、皆本証人の証言は、座間味島の日本軍を含む当時の日本軍の武器管理の状況を明瞭に物語るものというべきである。

(4)同(4)(本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)(1987年)の評価)について

   控訴人は、原判決において、本田靖春「第一戦隊長の証言」(甲B26)の検討・評価がほとんど欠落していると非難する。

   しかし、同書証は、宮村盛永の「自叙伝」(乙28)、宮村幸延の「証言」(甲B8)、宮城初枝の証言などについての本田靖春の検討・評価が記載されているものであり、裁判所が判決において本田の評価について言及しなければならない性質のものでないことは明らかである。

(5)同(5)(宮村盛永『自叙伝』(乙28)の評価)について

   控訴人は、宮村盛永「自叙伝」(乙28)には、自決の意思を自ら徐々に固めていくことが記載されていると主張するが、仮にそうであるとしても、前述したとおり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。

(6)同(6)(宮平春子の証言の評価)について

   控訴人は、原判決が宮平春子の証言(乙51陳述書)の検討・評価をほとんど脱漏していると非難するが、原判決は、131頁で春子の証言内容を詳細に紹介した上で、203頁において「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有する」と述べ、これを評価している。

なお、宮里盛秀助役の妹である宮平春子及び宮村トキ子の証言(乙51、乙98)は、宮里盛秀助役ら座間味村幹部が、日本軍(梅澤隊長)から、米軍上陸時には敵の捕虜とならぬよう住民を自決させるよう指示・命令されていたことを示す極めて重要な証言である。

(7)同(7)(上洲幸子の証言の評価)について

   控訴人は、上洲幸子証言(乙52)は、筒井中尉から「もし敵に見つかったら、(中略)捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」と、仮定的な条件をつけているので、《梅澤命令》を否定するエピソードであると主張するが、日本軍は、捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、筒井中尉が「もし敵にみつかったら」と述べたことは、自決命令を否定するものとは到底言えない。

   控訴人は、神戸新聞に掲載された上洲幸子の話に言及しているが、神戸新聞の記事は、控訴人梅澤の意向にしたがい、その主張に沿って恣意的に記述したものといわざるをえず、信用できない(原審被告準備書面(7)11〜13頁参照)。

(8)同(8)(宮里育江の証言の評価)について

   控訴人は、宮里育江の手記(乙50座間味村史下巻)に、部隊長の命令であるとして、伝令が、女性の軍属のみなさんは、食糧の持てるだけのものを持って移ってくださいと伝えたと記載されていることをもって、控訴人梅澤が自決命令を出していたのなら考えられない行動であると主張するが、育江は軍属であり、軍と行動する必要があり、また、前述のとおり、日本軍は、米軍の捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、未だ米軍に遭遇しておらず、捕虜になるおそれが現実化していない段階で、軍属に対し食糧を持って移動するよう指示したことは、自決の指示・命令と矛盾するものではない。長谷川少尉が育江たちのことを気遣ったことも同様である。

(9)同(9)(『潮だまりの魚たち』(甲B59))について

   控訴人は、「潮だまりの魚たち」掲載の住民の証言に、住民が自ら自決を決断したこと、米軍に対する恐怖感を抱いていたこと、怪我をした水産学校2年生が隊を離れ家族のもとに行くことを認められたこと、兵士から食糧を分けてもらったことなどが記載されていることを理由に、住民は隊長命令とは無関係に自決したのだと主張するが、前記のとおり、日本軍は、米軍に対する恐怖心を煽り、捕虜となることを禁じ、米軍が上陸し捕虜になりそうなときは自決するよう指示・命令していたものであり、上記の事実は軍の自決命令を否定するものではない。

7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について

(1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)について

ア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について

     控訴人は、原判決が「ある神話の背景」について「曽野綾子自身の見解として赤松命令説を否定する立場を表明したものではない」(原判決179頁)としたことについて、「『ある神話の背景』で赤松隊長の自決命令があったことを証明する証拠はなく赤松隊長の自決命令はなかったというのが曽野の結論である」と主張する。

    しかし、原判決が認定するとおり、曽野は、平成12年10月16日の司法制度改革審議会において、「ある神話の背景」について「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、とは言っていません。ただ、今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。」と答えた旨の発言しており(甲B40の2、「正論」(平成15年9月号)(甲B55)も同旨)、「ある神話の背景」について「客観的な根拠を示して赤松命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」(原判決181頁)との原判決の証拠評価は正当である。

イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について

     控訴人は、原判決が「曽野綾子は、『ある神話の背景』において、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。」(原判決180頁)と認定したことについて、ある神話の背景には関係者の詳細な証言が多数収録されており、「調査の丹念さと内容からして『ある神話の背景』は高い信用性があると評価すべきである」と主張する。

     しかし、原判決が述べていることは、「ある神話の背景」によると、曽野綾子は、住民から赤松大尉による自決命令があったという直接の供述は得ていないが、それに関連して、住民からどのようなことが具体的に供述されたかについて詳細には記述がないという意味であって、関係者の証言が収録されていないなどとは全く指摘していない。

ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について

     控訴人は、原判決が、曽野が「ある神話の背景」を執筆した際、富山真順に取材しなかったとされることについて、「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」(原判決180頁)としたことを、「曽野が意図的に富山氏を取材対象から外したかのように決めつける原審判決こそ限りなく被告側に偏った証拠の評価をしている」と主張する。

     しかし、まず、原判決は、富山(新城)真順兵事主任への取材を行っていないとする曽野綾子の主張が「それが事実であれば」取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるとしているのであり、曽野が意図的に取材対象から富山を外したと決めつけたものでは全くない。

     曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が、「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという」(乙11・14頁)と具体的に指摘しているとおり、曽野は、富山に取材を行っている。安仁屋が「兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11・14〜15頁)と指摘するとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てており、信用できないものであって、原判決の証拠評価は正当なものである。

エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について

     控訴人は、原判決が、大城将保は「全体として集団自決に関して軍の関与自体は肯定する見解を主張している」と判示した点について、「大城の主張は度々変遷し、しかも意味不明に、政治的な目的で変わる」などと主張する。

     しかし、大城の集団自決に関する主張は全く変遷していない。大城は、原判決が指摘するように、「青い海」(昭和52年)においては、「私自身は、今のところ戦争責任の追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについてはさして興味がない」としたうえで、星雅彦が指摘する集団自決の様々な原因のなかに事実はほとんど網羅され、その要因の中でも旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力を重視すべきであるとしており、当初から、集団自決への軍の関与を肯定している。その後、大城は、「沖縄戦を考える」(昭和58年)において、「ある神話の背景」に対する星雅彦らの反論が曽野の論証を覆していないとし、「鉄の暴風」の誤記等に関する指摘についての反証が出てきていないとするが、これは議論の状況についての大城の見解を述べたものにすぎず、赤松隊長の自決命令がなかったとの見解を示すものでは全くなく、大城の主張に変遷はない。

オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について

     控訴人は、「命令の伝達経路が明らかになっていないことは、命令がなかったことを示すものであり、自決に失敗した負傷者を赤松部隊が治療した事実と併せ(甲B18p121、122、141、142)、自決命令がなかったことを物語っている」と主張する。

     しかし、富山真順兵事主任の証言から明らかなように、赤松隊の兵器軍曹が米軍上陸前に、村役場にて17歳未満の少年と役場職員を集めて手榴弾を2個ずつ配布し、「敵に遭遇したら1個は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示しており、重要な武器である手榴弾が隊長の命令なしに住民に配布されることは考えられない。また、軍の命令で西山に集結した住民は、軍の自決命令によって自決したと認識している。したがって、戦時下の混乱状況での命令の伝達経路が明らかでないからといって、赤松隊長の自決命令がなかったということにはならない。

     また、自決命令にしたがって自決を図り、負傷して現に苦しんでいる住民を治療することは、自決命令を出したことと矛盾するものではなく、赤松隊が自決に失敗した住民を治療したからといって、自決命令がなかったことにならず、赤松隊長による自決命令を否定するものではない。

カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について

     控訴人は、「ある神話の背景」に記載されている、斬込みに行くことを願い出た古波蔵蓉子が赤松隊長に引き留められたとする話が、赤松隊長が自決命令を出していない決定的な証拠であると主張する。

しかし、古波蔵蓉子が斬込みに行くことを願い出たとされているのは集団自決の3か月半後の7月12日のことである(甲B18・236頁)。これは、米軍上陸後、住民が軍とともに避難し、軍が米軍に対して散発的に攻撃を行っていた時点での話であり、米軍上陸を目前にしていた集団自決直前とは全く状況が異なるのであって、古波蔵蓉子を赤松隊長が引き留めたという話は、何ら隊長による自決命令を否定する根拠とはならない。

 (2)同(2)住民の体験談)について

ア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について

(ア)控訴人は、徳平秀雄の手記(乙9)について、「赤松隊長が途方に暮れ、統率力を失っていた状態を明らかにし、村民に自決命令を出す余裕もなく、また命令を村長に届けさせることもできなかったこと言わんとしている」と主張するが、これは控訴人独自の偏った解釈である。

   徳平秀雄の手記は、「このようなことは一体誰の責任でしょうか。あの時特攻舟艇を自沈させ、うつろなまま上陸を迎えて途方に暮れ、統率力を失っていた赤松隊長の責任か、また、村民の責任なのか、私はこれから更に、この問題を考え続けていかなければならないだろうか」とあるように、赤松隊長による自決命令を否定するものではないことが明らかであり、徳平の手記に記載された事実が赤松命令説を覆すものではないことは、原判決が認定したとおりである(原判決184頁)。

(イ)また、控訴人は、徳平の手記が「防衛隊が現れてから協議が始まって自決と決まったことを明らかにしているが、命令があったのならば、協議をする必要もないのであり、村長ら村の幹部の協議の結果、自決が決まったというのであるから、自然発生的に自決したのであり、赤松隊長の命令で自決したものでないことを徳平は語っている」と主張する。

   しかし、徳平の手記は赤松隊長の命令で自決したのではないなどとはしていない。日本軍の陣地の中から出てきた防衛隊員の伝令が古波蔵村長に伝達事項を伝えた後、古波蔵村長は徳平郵便局長と話をし、その後、古波蔵村長の呼び掛けで「天皇陛下万歳」を三唱し、「発火用意」という村長の号令のあとに手榴弾による集団自決が行われたことは、吉川勇助の陳述書(乙67)記載のとおりである。防衛隊を通じて軍から自決命令が伝えられ、徳平と村長らは具体的な自決の手順等を協議したことは十分に考えられるのであって、村の有力者の協議によって自然発生的に自決が行われたのではなく、軍の指示、命令により集団自決が行われたものである。

(ウ)なお、控訴人は、秦郁彦が徳平の手記を「信頼性のある私的記録と高く評価していることに留意すべきである」と主張するが、秦の意見書(甲B104)は、徳平の手記が信頼性のある私的記録であるとする根拠を明らかにしておらず、控訴人の主張は根拠のないものである。

イ 同イ(大城良平の体験)について

     控訴人は、大城良平は一貫して赤松隊長を擁護し、《赤松命令説》を否定しており、大城の証言が《赤松命令説》が虚偽であることを明らかにしている旨主張する。

     しかし、原判決が、「『沖縄県史第10巻』(乙9・781頁)に記載された大城良平の体験談も、赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(大城良平の体験談以外に、赤松大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている」(原判決184頁)と認定しているとおり、大城の体験談は赤松隊長による自決命令がなかったことの具体的根拠を示しておらず、観測を述べるものにすぎないことから、大城の証言は、赤松隊長による自決命令がなかったとするものではない。

(3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について

    控訴人は、「秘録沖縄戦記」の復刻版(甲B53)について、原判決が「赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族である山川一郎が慎重な態度をとったにすぎない」、「『秘録 沖縄戦史』及び『秘録 沖縄戦記』の資料的価値に変更を認めることはできない」(原判決185頁)したことについて、「遺族山川一郎が慎重な態度をとったと判断するに無理があり、判決の著しい偏りといえる」と主張する。

    しかし、原判決が認定しているとおり、「秘録 沖縄戦記」復刻版は、山川泰邦の死後に復刻され、慶良間列島の集団自決等に関する記述の一部を削除した理由について、「集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい」としており、復刻版の出版者である山川一郎が集団自決に関するさまざまな見解の存在を考慮して慎重な態度を示していることは明らかであり、同復刻版は、集団自決について隊長命令があったことを否定するものではなく、原判決の認定は何ら偏ったものではない。

 (4)同(4)(その他資料の評価)について

ア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について

     控訴人は、原判決が「陣中日誌」について「その転載の正確性を確認できない」(原判決186頁)としていることについて、「根拠もなしに、不正確かのように評価するのは恐ろしく乱暴な証拠評価といわざるをえない」と主張する。

     しかし、原判決は、「赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、『陣中日誌』は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、その元となった資料は書証として提出されておらず、その転載の正確性を確認できない」とし、抗議行動を受けて、赤松隊長に不利な集団自決の経緯に関する記述をしていない可能性が疑われることや、「陣中日誌」作成の根拠となった資料の内容が不明である点を指摘して、その記載の正確性が確認できないとする根拠を具体的に示しており、原判決の証拠評価は正当である。

イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について

     控訴人は、大江志乃夫が「花綵の海辺から」(甲B36)に「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」と記載したことについて、「『沖縄県史第10巻』(p778〜p783)、『沖縄戦ショーダウン』(甲B44p3)で取り上げられる大城良平の取材を基にしたものであり、赤松隊長が自決命令を出さなかったという記述は、文科省の平成18年度教科書用教材検定における専門委員の意見書が、いずれも赤松隊長の自決命令を認めていないことからしても客観的事実に合致する」とし、「集団自決の本質をとらえており、その指摘は評価に値する」と主張する。

     しかし、「沖縄県史第10巻」の大城良平の手記の内容は、原判決が認定したとおり、大城の観測を述べるものにすぎず(本準備書面43頁)、「沖縄戦ショウダウン」、「花綵の海辺から」における大城の証言は「沖縄県史第10巻」の大城の手記と同じ内容であって、これも大城の観測にとどまるものであり、赤松隊長の自決命令がなかったとするものではない。また、前記第3、2のとおり、平成18年度の教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会が意見聴取した専門家のうち、赤松隊長の自決命令がなかったとしているのは、秦郁彦と原剛のみであり、その他の専門家は隊長による自決命令を否定していない(甲B104)。したがって、「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」とした大江志乃夫の見解は大江の感想を述べたものにすぎず、本訴における資料価値は低いとした原判決の判断は正当である。

 (5)同(5)(知念証言について)について

ア 控訴人は、原判決が、知念証人が陳述書(甲B67)に、常に赤松隊長の傍らにいたと記載しているにもかかわらず、西山陣地への住民に対する集結指示は知らない旨証言し(知念証人調書12頁)、住民が西山に集結した事実を知らなかった旨陳述書に記載していることを、「知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である」(原判決188頁)としたことについて、「知念少尉が、事実上の副官であったとしても、軍の問題でもない部落民の避難場所の相談に対し、そのすべてに関与することはあり得ない」「住民の避難の相談について知念少尉が知らなくても不思議ではない」などと主張する。

     しかし、知念証人は、陳述書(甲B67)において「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり、私を素通りしていかなる赤松隊長による下令もあるはずがありません。私は、赤松隊長が自決命令を出したことは、見たことも聞いたこともありません。赤松隊長の傍には私が常にひかえていたのですから、自決命令がなかったことは間違いありません」と記載しながら、赤松隊長自身が認めている住民に対する西山への避難命令(集結指示)について、知らなかったと証言しており(知念証人調書12頁、甲B67)、知念証人が赤松隊長の出した命令・指示のすべてを把握してはいなかったことが明らかであり、赤松隊長による自決命令がなかったと証言できる立場にない。

イ また、控訴人は、原判決が「手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない」(原判決189頁)としたことについて、「手榴弾は勤務隊の兵器係が管理していたものであり(甲B36p27)、防衛隊に渡された手榴弾も勤務隊を通じて配布されたものである」「勤務隊から直接防衛隊に配布された場合には、第3戦隊の赤松隊長や副官の知念少尉がその事実を知らないことになる」と主張する。

  しかし、補給路を断たれた第三戦隊において貴重な武器であり厳重に管理されるべき手榴弾が、勤務隊も含めた渡嘉敷島の日本軍の最高責任者であった赤松隊長の命令・許可なく住民に配布されるとは考えられず、原判決の認定は正当である(赤松隊の中隊長であった皆本証人は、防衛隊員による手榴弾交付について「恐らく戦隊長の了解なしで勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している(皆本証人調書25頁))。

ウ さらに、控訴人は、原判決が、知念証言について、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」(原判決190頁)と判示した点について、「裁判所の偏見にみちた認定という他はない」と主張する。

  しかし、知念証人は、原告代理人に対しては「沖縄県史第10巻」の「副官の証言」の記載は事前に確認して間違いがない旨証言したのにもかかわらず、一審被告代理人の質問に対しては、米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、「正直いってそれは分かりません」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっと分かりません」と証言し、また、伊江島の女性等の処刑について、「伊江島のこの処刑については、私はぜんぜん知らないんです」などと証言しているのであり、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」との原判決の認定は正当である。

  知念証人は、原審証人尋問において、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と赤松隊長が住民に対して伝言したことがあるかとの一審原告代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(知念証人調書5頁)、一審被告代理人の質問に対しては、そのように一審原告代理人の主尋問に答えたことについて記憶にない旨証言するなど(知念証人調書11頁)、隊長の自決命令に関する証言が一貫しておらず、赤松隊長が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言自体信用できない。

  そして、知念証人は、赤松隊長が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城訓導の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、赤松隊長は、住民が捕虜になることがないよう、住民に自決命令を発したと考えられる。

エ なお、控訴人は、母親を殺したという姉弟に赤松隊長の命令で乾麺麩を与え財布を渡したとする知念証人の行動から、「隊長あるいは部隊が自決命令を出していないことは容易に推測できる」と主張するが、米軍上陸直前に住民に対する自決命令を出すことと、その後生き残った幼い姉弟に乾麺麩等を与えることとは何ら矛盾するものではなく、赤松隊長が自決命令を出していないことは推測できるとはいえない。

オ 以上述べたとおり、知念証言に対する原判決の判断は全く正当である。

(6)同(6)(皆本証言について)について

ア 控訴人は、皆本証人が「現実には赤松隊長に戦況報告にいった際には、赤松隊長は、手榴弾配布のことも、自決命令のことも何もいっていない(甲B66p17)。そうであれば、自決命令はもちろん、自決のための手榴弾配布もされなかったというのが自然な解釈というべきである」と主張し、原判決が、皆本証人が赤松隊長の言動を把握できる立場にないと認定したこと、及び手榴弾に関する陳述書(甲B66)の記載及び証言が信用できないとしたことを論難するようである。

    しかし、皆本証人が赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であり(皆本証人は、赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であるとの「沖縄方面陸軍作戦」の記載について、防衛研究所戦史室の調査にもそのように答えたと認めている(皆本証人調書16〜18頁))、また、皆本証人が中隊長であった第三中隊は本部とは別の場所に配置されていたのであるから(皆本証人調書21頁)、皆本証人が陣地内の状況をすべて把握していたわけではない(皆本証人調書27頁)。したがって、皆本証人は常に赤松隊長のそばにいたのではなく、赤松隊長の言動を把握しておらず、赤松隊長の自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。

    そして、渡嘉敷島の集団自決において、住民は、富山の証言等にあるように、軍や防衛隊員から配られた手榴弾で自決を図ったのであるが、手榴弾は軍の重要な武器であり、皆本証人も軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない旨証言しており(皆本証人調書25頁)、手榴弾の交付が赤松隊長の指示・了解なしに行えないことを認めている。

イ なお、控訴人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)と皆本証人の陳述書(甲B66)の本隊への合流時間の齟齬について、「資料のごく一部と証言の食い違いに特段の意味を見出すのは合理的な証拠評価といえない」と主張するが、原判決は、合流時間の齟齬のみを理由に皆本証人の証言を信用できないとしたものではない。

ウ 以上述べたとおり、皆本証言についての原判決の認定は正当である。

(7)同(7)(赤松大尉手記)について

    控訴人は、原判決が、「潮」に掲載された赤松隊長の手記(甲B2)の記載と「週刊新潮」の取材に応じた記録(甲B73)の記載を比較して、「潮」の「赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできない」(原判決196頁)としたことについて、「週刊新潮」の記事は、「赤松隊長に取材したなら、起こるはずのない虚偽を記載しており、その余の記載にも信用性がない」とし、「『週刊新潮』の記事を『赤松隊長の手記』と比較するのは、前提において誤っている」と主張する。

    しかし、「週刊新潮」の赤松隊長に対する取材記事(甲B73)は、一審原告によって赤松隊長の自決命令を否定する証拠として提出されたものであり、その記載内容に信用性がないとする控訴人の主張は、不可解というほかない。

    原判決は、赤松隊長の手記(甲B2)、赤松隊長に対する「週刊新潮」(甲B73)、「琉球新報」(乙26)の取材記事の記載内容を比較して赤松隊長の手記(甲B2)は「自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である」として「ただちに措信することはできない」とするもので、その判断は正当である。

 (8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について

    控訴人は、被控訴人大江の「沖縄ノート」執筆の際の取材について、「牧港ら、被控訴人大江が親交を結んだメンバーは、牧港が『鉄の暴風』共著者であることを除けば、渡嘉敷島、座間味島の集団自決とは関係のない、社会活動家、政治活動家であり、被控訴人大江が渡嘉敷島、座間味島の集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」と主張する。

    しかし、被控訴人大江が取材した当時、牧港篤三は沖縄タイムス社の記者であり、「鉄の暴風」を執筆し、新川明は八重山地方で沖縄タイムス社の記者を務めており(後に沖縄タイムス社の編集局長、社長を務めた)、外間守善は沖縄の文化・伝統の研究の第一人者であり、大田昌秀は自ら鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った経験者として沖縄戦及び沖縄の民衆意識を研究し(後に沖縄県知事を務めた)、いずれも沖縄の歴史・文化に対して十分な見識を有する知識人であり、これらの知識人について「集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」という控訴人の主張は、誤った憶測にすぎない。また、「鉄の暴風」が伝聞に基づくものではなく、集団自決の体験者からの直接の聞き取りをもとにしていることは前記第3、4(1)のとおりである。

    被控訴人大江は、自ら渡嘉敷島、座間味島に赴いて現地で調査することはしていないが、集団自決の直接体験者からの聞き取りに基づいて執筆された「鉄の暴風」や「沖縄戦記」(乙3)等の書籍を収集、検討し、体験者の証言を集めた本を中心に読み、「鉄の暴風」の執筆者である牧港ら知識人らから話を聞き、何度も牧港の元を訪れて取材し、牧港から沖縄タイムス社にある資料を見せてもらうなどし、これらに基づいて「沖縄ノート」を執筆したのである(乙97、被告大江本人調書8頁)。

このように、「沖縄ノート」は十分な取材に基づいて執筆されたものであり、原判決が被控訴人大江の沖縄ノート執筆の際の取材状況を、赤松隊長の自決命令があったことが真実であると信じるについて相当の理由があったとする判断の一要素として考慮したことは、全く正当な判断である。

(9)同(9)(富山真順の証言の評価)について

ア 控訴人は、昭和20年3月20日に、兵器軍曹が村役場で、17歳未満の村民に手榴弾を2発ずつ配ったという富山真順の証言について、原判決が「『自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する』と述べているが(原判決p206)、当該証言に内容の変遷があるという重大な事実を全く考慮しておらず、あまりに杜撰な証拠評価を行っている」などと主張する。

    しかし、原判決の認定は正当であって、控訴人の主張は全く理由がない。

富山真順の証言は、

「@ 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って『17歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。

A そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、『米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ』と訓示した。

B 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。

C 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の『集団死』事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の『自殺』を促した」

    というものであるが(乙11・158頁、乙12、乙67)、この手榴弾配布に関する証言は詳細であるうえ、朝日新聞記事(乙12)において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を改めて明らかにしたものであり、同証言がなされた経緯は何ら不自然ではない。富山証言を「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の判断は全く正当である。

イ 控訴人は、第三次家永訴訟における証人尋問において、初めて富山証言がなされたことが不自然であるとし、安仁屋政昭が金城重明に働きかけて工作したのではないかとの疑いすら生じると主張するが、富山証言がなされた経緯は上記のとおりであって何ら不自然ではない。

   また、金城重明は、富山証言について、「本人から直接聞きました」「きっかけは、私が家永訴訟の体験者、証人として証言をするということを富山さんも知ったわけですよ。だから、実はあなたのおやじさんとは親しい、身近な関係だったと。あんたが出るならこういう事実があったんだよと言って、手榴弾を配った話をじかにしてくれました」「会ったわけですよ。渡嘉敷に行って」「証人は複数いますから、連絡を取り合ってます。例えば沖縄国際大学の教授をしておられた安仁屋さんとか、連絡を取り合っていますから、彼の方が情報が先だっただろうかなと思います。富山さんがこういう情報を持っているよと。多分そういう経緯で、私が後からかけたと思います」(金城証人調書24〜25頁)と証言している。金城証人は、第三次家永訴訟で証言するにあたり、安仁屋政昭から、富山が渡嘉敷島での手榴弾交付の事実を知っている旨を知らされ、自ら渡嘉敷島へ赴いて、昭和20年3月20日の村役場における兵器軍曹による手榴弾交付の事実を、金城証人の父親と親しかった富山本人から直接聞いたものであり、安仁屋が金城に働きかけて工作したなどということは全くなく、富山証言が真実であることは疑いがない。

   なお、控訴人は、渡嘉敷島の住民からの聞き取りからなる「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)に富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されていないことについて、「当時《手榴弾交付説》が住民のだれも知らないものであったことの証左である」と主張するが、「渡嘉敷村史資料編」における富山の手記は昭和19年10月10日の空襲時の状況を内容とするもので、集団自決について述べたものではない。また、安仁屋政昭が執筆した同書籍の第四章、第一節「慶良間諸島の戦争(解説)」の「渡嘉敷島の戦闘と住民」の項に、「すでに上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決をするように指示されていたといわれる」(甲B39・366頁)と記載されているように、富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されている。

ウ 控訴人は、吉川勇助の陳述書(乙67)において、昭和20年3月20日の村役場における日本軍による手榴弾配布の事実が記載されていないことについて、「吉川の記憶にそれがなかったことを証明している」と主張する。

   しかし、吉川は、陳述書において、自身が所持していた手榴弾の入手先について、1個は3月23日の空襲のあとに敵に捕まった時の自決用にもらったもの、もう1個は、3月28日に軍から伝令が古波蔵村長のもとに来た後、村長が号令をかける前に村長からもらったとの事実を記載しているのであり、富山証言にある3月20日の手榴弾交付の事実の記憶がなかったのではない。吉川が3月20日に兵器軍曹から手榴弾の交付を受けていないからといって、渡嘉敷村の17歳未満の少年と役場職員の全員が役場に呼ばれたわけではなく、富山証言が虚偽であるということはない。

 (10)同(10)(金城重明の証言の評価)について

ア 控訴人は、原判決が、金城重明の証言を「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」と判示したことについて、「証拠の吟味を最初から放棄したかのような、極めて杜撰な、偏ったものである」と主張するが、以下に述べるとおり、原判決の判断は正当である。

イ 控訴人は、昭和20年3月20日に兵器軍曹が住民に対して手榴弾を交付したとの富山証言が真実ならば、「命令の一貫性から考えて、一部の部落だけに手榴弾を交付したり、『自決せよ』と言ったりすることはあり得ないし、周囲20qの狭い島の中で『手榴弾の交付を受けたという話を誰からも聞いていない』などということはあり得ない」と主張する。

     しかし、金城は、軍の本部があった渡嘉敷島の渡嘉敷部落ではなく、渡嘉敷部落から離れた字阿波連の住民であったことから、富山証言の手榴弾の交付の対象ではなく、当時のことは知らないのであって、富山証言にある手榴弾の交付の事実を、第三次家永訴訟時点まで知らなかったとしても何ら不自然ではない。

ウ また、控訴人は、《万歳三唱説》なるものが、「潮」11月号(甲B21)、「ある神話の背景」に記載されておらず、家永訴訟における証人尋問においても証言されておらず、平成19年6月8日付沖縄タイムス紙上において《万歳三唱説》を唱えるに至ったとし、金城が最近になって無理やり《万歳三唱説》を作出したなどと主張する。

     しかし、金城重明は、第三次家永訴訟の証人尋問においても、本訴原審における証人尋問においても、自身の記憶に基づいて、詳細かつ誠実に、集団自決の際の事実関係について証言している。渡嘉敷島における集団自決の際に、古波蔵村長の号令により「天皇陛下万歳」を三唱して自決が始まったことは、金城の「集団自決を心に刻んで」(甲B42・52頁)に記載されているほか、「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)の小嶺幸信の手記(386〜387頁)にも記載されており、金城によって近年突然語られるようになったものではない。金城は、本訴原審における証人尋問において、悲惨な集団自決の状況を、誠実かつ詳細に証言したのであり、「無理やり《万歳三唱説》を作出した」などということは全くない。

     なお、控訴人は、「集団自決を心に刻んで」(甲B42)の「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)」との記載について、金城が「軍による自決命令について自ら疑問を抱いていたと」しているが、これは、軍による自決命令があったとの立場である金城が、自己の立場を前提に、軍命令を否定する見解がある事実を客観的に記載したものにすぎない。

エ さらに、控訴人は、金城が、集団自決後に負傷した部位を治療するために軍の医療班のもとへ通ったと証言したことについて、「真に軍から自決命令が出ており、それが被控訴人らの主張するように『島民を死に追いやる程に意思を拘束していた』というのであれば、金城が負傷した部位を治療するために軍の医療班のところまで何度も通うということはあり得ないし、そもそも治療してもらって生き延びようという発想自体生じるはずがない。また、赤松隊長が自決命令の対象である島民にわざわざ薬のありかを教えるはずもない」とし、上記金城の証言が赤松命令を否定する重要な事実であり、これを金城が語ることが大きな矛盾であるなどと主張する。

     しかし、金城が軍の医療班のもとへ通っていたのは、米軍が上陸し、米軍の攻撃から生き延びた軍・民ともに避難生活を送っていた時点でのことであり、集団自決が行われたその時とは、全く事情が異なるのであって、治療のために医療班のもとへ通うことは何らおかしなことではなく、このことは赤松隊長の自決命令の存在を否定するものではない。

 (11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について

    控訴人は、「そもそも『伝令』なるものの存在が疑わしい」「吉川証言は『手榴弾の交付』という本件の重要な問題点について相矛盾しており、その信用性は疑わしい」として、原判決が、吉川勇助の陳述書(乙67)、吉川の証言を掲載した沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」としたことについて、「明らかに証拠の吟味を欠いた、極めて杜撰な、偏った認定である」と主張する。

    しかし、吉川勇助は、軍陣地から出てきた40歳過ぎの中年男性である防衛隊員が「伝令」と叫びながら古波蔵村長の隣まで来ると、村長の耳元で何かを伝え、村長は何度も頷いていたこと、伝令の話を聞き終えた村長が郵便局長と話をし、しばらくたって住民に呼び掛けて「天皇陛下万歳」を三唱し、村長の「発火用意」との号令によって集団自決が始まったことを述べており、その供述は具体的かつ詳細であり、吉川勇助の陳述書(乙67)、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の認定は正当である。

    控訴人は、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)に米軍上陸前に2発の手榴弾が交付された事実が記載されていることをもって、陳述書(乙67)と相矛盾すると主張するが、米軍上陸前に日本軍が2発の手榴弾を交付した事実(富山証言によって明らかになった事実)と、陳述書に記載した吉川自身が手榴弾を受け取った経過とは何ら矛盾するものではない。

(12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について

    控訴人は、原判決が金城武徳の証言について存在を指摘するのみで何ら評価を加えておらず、「意図的ともいえる判断の遺脱であり、証拠評価に不均衡があることを如実に物語るものである」と主張する。

    しかし、金城武徳の「正論」(甲B38)、DVD(甲B52の1ないし2)における証言は、単に集団自決が軍の命令ではないとするのみで、隊長命令がなかったことを具体的に指摘するものではなく、金城は隊長命令がなかったことを指摘できる立場にない。

    したがって、原判決に証拠評価の不均衡は存在しない。

第4 同第4(宮平秀幸証言)について

   被控訴人準備書面(2)で反論したとおり、控訴人主張の宮平秀幸の新証言は、母宮平貞子の証言や宮城初枝の証言、宮平春子の証言に照らし、また、従前の宮平秀幸の供述などに照らし、全く信用できない。

第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について

1 同1(原判決の判示)(120頁)について

「沖縄ノート」について両隊長に対する名誉毀損性が認められないことは、当審答弁書記載のとおりである。

2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について

   控訴人指摘の「沖縄ノート」の論評部分が違法性を有しないことは、原判決が丁寧に判示しているとおりである。

以上