大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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準備書面(2)

2008年(平成20年)7月31日

(控訴人らの平成20年6月16日付控訴理由書のうち「第4 宮平秀幸証言」に対する反論) 

   控訴人は、原審口頭弁論終結後に、梅澤命令説を否定する宮平秀幸の新証言が明らかになったと主張し、宮平秀幸から話を聞いたとする鴨野守(「世界日報」編集委員)執筆の甲B111「『住民よ、自決するな』と隊長は厳命した」(『諸君』2008年4月号)などを書証として提出した。

   しかし、甲B111〜113に記載された宮平秀幸の証言は、以下の理由により、まったく信用できない。

1 宮平秀幸の母の手記との食い違い

  宮平秀幸の母宮平貞子(当時45歳)の手記が「座間味村史下巻」(乙50・75頁以下)に掲載されている。

  同手記にあるように、貞子は、夫が兵隊として召集され外地に行っていたため、一家の中心となっていたが、昭和20年3月25日は、70歳前後の夫の父母、23歳の長女、15歳の三男(秀幸)、5歳の娘、3歳の息子をひきつれて自分の壕に隠れており、夜になって米軍の艦砲射撃が激しくなり、前の壕の人が、「お米の配給を取りにくるように伝令が来たので、行こう」と合図に来たので、家族全員で壕を出て移動し、整備中隊の壕、御真影避難壕、第三中隊の壕などを逃げ回り、3月26日の夜明けに自分の壕に戻ったものである。この間、三男(秀幸)は祖父母の手を引くようにして歩いた。貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない。

  「座間味村史」を編集する際に宮平貞子から戦争体験を聴取したのは宮城晴美であったが、貞子は、記憶力がよく、非常に信用できる語り手であり、「座間味村史」上巻、中巻の座間味村の住民生活、年中行事、女子教育などの記述も、貞子なしにはありえなかったものである(乙110宮城晴美陳述書2頁)。貞子は、「私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていたもんだから、ウチの所まで伝令は来てないんです」「もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです」(乙50・76頁)と述べており、秀幸を含む宮平貞子一家が3月25日の夜から26日の朝にかけて行動を共にし、忠魂碑前には行かなかったことは明らかである。

  したがって、3月25日の午後10時頃宮里盛秀助役ら村の幹部と宮城初枝が本部壕を訪れ梅澤隊長に自決用の弾薬等の交付を求めた際、宮平秀幸がその傍らでやり取りを聞いたとの甲B111〜113の記載、その後に秀幸が村幹部らの後に付いて忠魂碑前に行き、午後11時頃、野村村長が村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族とともに聞いたとの甲B111などの記載はまったくの虚偽である。

2 宮平秀幸のビデオ証言との食い違い

  宮平秀幸は、乙108の1「ビデオドキュメント『戦争を教えてください・沖縄編』第2部『捕虜第1号が語る』(証言=宮平秀幸)」(1992年記録社制作)において、自己の戦争体験を詳細に語っている。

  このビデオにおいて、宮平秀幸は、昭和20年3月23日の晩から家族7名(祖父母、母、姉、妹、弟、自分)で自分たちの壕に入って、24日、25日も過ごし、25日午後8時半か、9時頃になり、忠魂碑前で自決するから集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中攻撃を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、整備中隊の壕の前、第二中隊の壕の前を経由し、夜明けに自分たちの壕にたどりついたと話している。

  忠魂碑前で自決するから集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったとのビデオ証言は母貞子の手記に反し信用できないものであるが、宮平秀幸が3月25日の夜に宮里助役らが梅澤隊長に面会した際に本部付伝令として隊長の傍にいたとの甲B111〜113の記載や、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で演説したとの甲B111などの記載は、秀幸のビデオ証言と相違し、いずれも虚偽であることが明らかである。

3 本田靖春に対する宮平秀幸の話との食い違い

   本田靖春著「座間味島1945」(乙109、『小説新潮』1987年12月号所収)には、宮平秀幸から聞き取ったという戦争体験が記載されている(163,164頁)。

  これによると、宮平秀幸は、昭和20年3月25日の夜、祖父母、母、姉、妹、弟、とともに7名で宮平家の壕にいたもので、そこに「午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように」との命令が伝えられ、家族7名で時間をかけていろいろと話し合った末、午後零時ころ上記7名が忠魂碑の前に着いたが、物凄い艦砲射撃が始まり、その場から逃げ出し、その夜から26日にかけて島内の各所で集団自決が次々に起きたと話している。

  宮平秀幸一家に忠魂碑前集合の伝令が伝えられ忠魂碑前に行ったとの部分は宮平貞子の手記に照らし事実に反するものであるが、3月25日夜助役らが梅澤隊長に面会した際に秀幸が隊長の傍にいなかったこと、及び梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で告げたことを秀幸が聞いていないことは、上記本田靖春に対する秀幸の話から明らかであり、これらに関する甲B111〜113の記載は、いずれも虚偽であることが明らかである。

  本田靖春は、乙109の次号の『小説新潮』に掲載した「第一戦隊長の証言」(甲B26)において、3月25日の梅澤隊長と助役らのやりとりについて、宮城初枝や梅澤元隊長の話を記載しており(303頁以下)、宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはないのであるが、秀幸は甲B111などに記載されたような事実があったとは述べていなかったものである。

4 宮平春子証言などとの食い違い

  甲B111などには、秀幸の話として、3月25日午後11時頃、野村村長が忠魂碑前で、村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族とともに聞いたと記載されているが、そのようなことがあったとの証言は、これまで住民の誰からも一切出ていない(乙110宮城晴美陳述書3頁)。

  宮平春子の証言によれば、3月25日の夜、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に忠魂碑に向かったが、数メートル前に照明弾が落下し、前に進むことができず、来た道を引き返えしたところ、村長と収入役の一家が忠魂碑方向に向かって歩いて来るのに遭遇し、忠魂碑前にいくことをやめ、全員産業組合の壕に向かって歩いたものである(甲B5「母の遺したもの」218頁、乙104「新版・母の遺したもの」218頁)。すなわち、村長は忠魂碑前に行っていないことが明らかであり、甲111などに記載された秀幸の話は虚偽であることが明らかである。

5 宮城初枝の証言との食い違い

   甲B111などには、宮平秀幸の話として、3月25日の夜梅澤隊長のもとに赴いた村の幹部の中に、助役、収入役、校長のほかに村長がおり、秀幸は隊長から2メートル位離れた位置にいたと記載されているが、宮城初枝の手記(甲B32、甲B5「母の遺したもの」、乙104「新版・母の遺したもの」)によれば、3月25日夜梅澤隊長のもとに行った村の幹部の中に野村村長はいなかったことが明らかである。また、宮平秀幸もその場にいなかったことが明らかである。宮城晴美は、初枝からくりかえし当夜のことについて話を聞いているが、村長や秀幸がその場にいたということは聞いたことが一切なかった(乙110宮城晴美陳述書3頁)。村長や異母弟の秀幸がその場にいたのであれば、初枝は当然そのことを手記に書いたはずであり、娘の宮城晴美に対してもそのことを話したはずである。

   また、当夜の梅澤隊長と助役のやりとりの内容は、初枝が聞いたことと大きく食い違っている。控訴人梅澤の陳述書(甲B1)とも相違している。

6 伝令ではなかった。

   甲B111などの秀幸証言には秀幸は本部付の伝令だったと記載されているが、本部付の伝令であった中村尚弘は、秀幸は本部付の伝令ではなかったと述べている(乙110宮城晴美陳述書4頁)。

7 宮平秀幸の信用性

   以上のとおり、甲B111〜113に記載されている宮平秀幸の新証言は、母宮平貞子の証言や、宮村春子の証言、宮城初枝の証言などに反し、また、秀幸自身の従来の話(ビデオでの話、本田靖春に対する話)とも食い違いがはなはだしく、信用できない(宮平秀幸の性格について、乙110宮城晴美陳述書4〜5頁参照)。

  なお、宮平秀幸は、昭和61年頃、宮城晴美に対し「昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で村長から、隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した」と述べたが、当時宮城晴美が宮平貞子をはじめとする何人もの戦争体験者に聞いて見たが、秀幸の話を認める人は誰一人いなかった(乙110宮城晴美陳述書1〜2頁)。秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っている。

 (「控訴理由書」の他の部分に対する反論については、追って準備書面を提出する。)

以上