大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOME高裁>(2008年10月)

『母の遺したもの』の著者として

    2008.10.31.
宮城晴美さん(沖縄女性史研究家)

 今日ここに来ましたのは、もちろん判決を直接聞きたかったからですが、なにより皆さまにお礼を申し上げたくてやってまいりました。これまで支えていただき、ほんとうにありがとうございました。

 今日の判決に金城重明先生もとても喜ばれているという情報も入っています。

 私は今回の判決には、非常に危機感を持っていました。なぜかといいますと、もし虚言だらけの“おじ”宮平秀幸の証言が認められれば、座間味の人たちが長年にわたって証言してきた記録の信憑性そのものが問われること。それから、第三者の介入によって、自分たちの都合の良いように史実のすり替えが許されるということ。そして、せっかく一審で島の人たちの証言を評価していただいたのに、これが二審で崩れるとなると、これまで言葉を振り絞って話してくれた人たちをどんなに落胆させるか、このような理由で、今回の勝訴は私にとって非常に重い意味を持つものでした。

 ところで、今日私がお話ししたいことは、私の母・宮城初枝についてです。梅澤さんが「自分は命令しなかった」という証拠として裁判所に提出した、母の手記が重要な位置づけにありましたので、母と梅澤氏の関係について、申し上げたいと思います。

 私の母がはじめて手記を公にしたのは1963年のことです。『家の光』という雑誌の募集に応じて投稿したら入選したため、そのまま掲載されました。母が手記を書いたのに二つの意図がありまして、まず一つは、住民の悲惨な沖縄戦の「集団自決」という体験を県内外の人たちに知ってほしかったこと。もう一つは、島で亡くなった日本軍将兵の遺族を見つけるためです。「集団自決」については住民の証言で書いていますから、住民は当然、「集団自決」は梅澤隊長の命令と信じて戦後はそのように証言していましたので、母は手記の中で梅澤隊長の命令によって「集団自決」は起こったと書いたわけです。

 それから母は戦後、島で亡くなった日本軍将兵の遺体を収容したんですが、兵士の名前や出身地は知っていても家族がどこにいるのか皆目わからない。そこで、手記には家族の目に触れるよう、できるだけ実名を出したんです。問い合わせはずいぶんあったようですが、その中の一人に、弟が座間味で戦死したことがわかったという方がいて、その男性が出版社の社長さんだったことで母の手記を『悲劇の座間味島』という単行本に掲載したんです。母からすれば、住民の死も日本兵の死も同じ戦争の犠牲という意味で、変わりはなかったのです。

 米軍支配から沖縄が日本に復帰し、時代が落ち着いてきますと、生き残った元兵士たちが慰霊祭にやってくるようになります。そして住民との交流会の中で、梅澤隊長が「集団自決」を命令したということが週刊誌に載ったため、息子はぐれ、彼も仕事につけず家庭は崩壊している、戦後の彼はいかに苦しい生活をしているか、ということを元兵士は住民に話すわけです。

 母はそれを聞いて以来、ずいぶん考え込みました。昭和20年3月25日の夜、座間味村の助役・収入役・学校長・役場職員、母も役場職員だったので、5人で梅澤隊長のところに行き、「住民を玉砕させるための弾薬をください」と言ったら、「お帰りください」と帰されるわけです。帰された5人のうち4人は「集団自決」で亡くなってしまい、結局母一人しか生き残らなかった。このことは、母にとって非常に重荷になったわけです。

 母は梅澤さんが元気な間に、あの夜のできごとを話さないといけないと思うようになり、そして戦後35年経ったある日、「あなたは命令しませんでした」と本人に伝えるわけです。母は自分が見聞きした、たった30分間ほどの時間枠で梅澤隊長が命令しなかったという判断をしたということになります。梅澤さんは母からそのことを聞かされた段階では「自分の家族にわかってもらえれば良い」と話してました。

 ところが、ある人が「宮城初枝さんは沖縄で知らない人はいない。沖縄の集団自決のことはすべて彼女が話しているんだ」と。しかも母が書いた手記が元で梅澤さんが命令したことになったんだということを本人に伝えるんです。その時まで、「隊長命令」と書いた母の手記の存在について梅澤さんは知らなかったんですね。そこから梅澤さんの反撃がはじまるんです。「自分は命令していない」と数回にわたって神戸新聞と東京新聞に掲載させ、その後、宮村幸延さんに「命令したのは梅澤さんではありません」という「念書」まで書かせたのです。しかも、宮村氏本人に記憶がないほど、泥酔させた上でのことです。

 宮村氏の「念書」のことが神戸新聞に大きく載ったことで島中が騒然となり、批判の矛先は母に向けられました。「自分たちは隊長命令と信じて家族を死なせてしまったのに、あなたは何だ」と、つまり母は住民の「集団自決」には立ち会ってないので当時の状況はわからないはずなのに、梅澤さんに住民の証言と違うことを話したことが問題だと攻撃されます。母は島の中で四面楚歌の状態に置かれ、ずいぶん苦しんでいました。そのうち何も食べられないと訴えるようになり、とうとう病気になって69歳で亡くなってしまいました。

 母にとって、戦時中の梅澤隊長は天皇のような存在でしたが、戦後は一緒に死線を超えた「隊長」と「部下」という思いが強く残っていました。そのことが、梅澤さんに振り回される結果になったんだろうと思います。母は米軍上陸後、日本軍と行動し、斥候のようなこともしていますので、気持ちの上では兵士に近かったと思います。「女であることがもどかしかった。男だったら自分だって一緒に戦えたと思った」とよく話していました。

 母は、結果的に手記を書き直しますが、おそらく、日本軍の行動を個人の手記として出した女性は、私の母がはじめてではないかと思っています。もっとも、その後書いた人がいるかどうかわかりませんが。母の場合、家庭が貧しいために高等科1年(現在の中学1年)までしか学校を出してもらえなかったというコンプレックスがあり、日本軍と一緒に「お国のために戦う」ことで、彼女の中のステイタスを引きあげたんだと思います。ですから、母はよく「女の戦争体験はひめゆりだけではない」と言ってましたが、そのことが母に手記を書かせるきっかけになったとも考えられます。

 日本軍と行動した女性たちは、母だけではなく、座間味島では他にも数人いますが、その中の一人、宮里育江さんも米軍上陸を目前に、日本兵に対して「一緒に戦いたいから軍服を貸してください」と言った方です。彼女は、私に対して「私は兵隊さんのことは悪くは言えません。みんないい人たちでした。だけど、スパイをしてはいけない、投降してはいけない、いざとなったらこれで死になさいと手榴弾を渡された。これこそ命令なんですよ」と言ったんです。

 座間味島に駐屯した日本軍は、宿がないため各家庭に分宿しました。将兵の分宿を割り当てられた家庭はプライドを持ったといいます。「選ばれた」という思いがあったんでしょう。住民と日本軍将兵が一つ屋根の下で生活しますので、「米軍が上陸したら、八つ裂きにされる、女性は強姦される。万一のときは玉砕しなさい」ということも、日常的に言われてきたことなんです。現在の座間味の高齢者から「日本兵は優しかった」とか、戦後文通をしているなどと聞いた人の中には、「優しかった日本兵がそんなふうに命令するなんてありえない」という人が現にいます。

 しかし、「軍官民共生共死の一体化」というスローガンのもとで、住民は日本軍との一蓮托生を信じていますので、親しくしていたことが逆に「集団自決」に追いこむ最大の要因になったとも考えられます。「いざ玉砕となったら、自分が殺してあげるから日本軍の壕に来なさい」と宿泊している将兵から言われたという証言はかなりあります。そういう座間味特有の、住民と日本軍との特異な関係が、犠牲を大きくしたと言えると思います。

 さきほど申し上げましたように、沖縄の日本復帰後、元日本軍将兵と住民の交流が始まりますが、終戦直後は、住民は日本軍の命令によって家族の犠牲が出たんだと、日本軍に対する怒りが非常に強かったといいます。しかし、次第に日本軍が島を出て行き、責任の所在はあいまいにされてしまう。そうしますと、住民は自分だけが生き残り、身内を死なせてしまったやり場のない憤りを身近の人にぶつけてゆくわけです。

 私の祖父母の家には、15人の兵士が割り当てられていたそうです。祖父は、「忠魂碑前に集まれ」と言われたことをきっかけに、上陸した米軍を目の当たりにしたとき騒ぎたてる妻から先に、家族の首を切っていきます。息子一人が死に、生き残った者は全員、のどに深い傷を負い、祖母なんて声も出ない。祖母は自分が「早く殺して」と騒いだことで息子を死なせたという苦しみを抱えていて、その憤りを夫に「人殺し」と暴言を吐くことで気持ちを治めようとしました。しかし、祖母の気持ちが安らぐことはなかったと思います。祖父母の戦後を見てますと、結局は身近な人間同士が互いに罵り合って、傷つけあって、戦隊長はじめ、日本軍の責任は不問に付される。それが戦後の座間味の歴史だったんじゃないかと思っています。

 今回の訴訟で、座間味の体験者たちの中には、やや過敏になった方もいらっしゃいました。県外から、電話がかかってきて、「あなたは宮城さんの本の中でこんなふうに言ってるけどおかしいんじゃないですか」って言われた人がいます。そうすると、私に電話をかけてきて「あなたの本から自分の証言部分を消してちょうだい」と。ちゃんと裏付けのとれた証言ですので削除する意味合いはないのですが、体験者が証言しづらいよう、外から揺さぶりをかけているとしか思えないような出来事があったのです。

 私は今日の判決をきっかけに、「集団自決」の記録、継承についてシビアに取り組むつもりでいます。たしかに一審も二審も勝ちましたが、法廷を離れたところで、原告が主張したような歴史の修正、教科書検定に顕著ですが、そういったことが、今後必ず出てくると思います。それに対して私たちは史実をどう伝えるか、それを真剣に考える必要があると思います。

 そのためにも、皆さんには機会があればぜひ座間味や渡嘉敷に行ってほしいです。実際に島の空気に触れ、「集団自決」の起こった場所を見てほしい。そして戦後60年余り、ずっと心にも体にも傷を負いながらここまで生きてきた島の人たちの声をぜひ聞いてほしいと思います。彼女たちが言わんとしていることがなんなのか、体験したのはどんなことか、直接聞くということは継承していくうえで大きな意味を持ちます。肉親の「死」を語る人たちに、虚言や誇張はありません。それこそが史実なのです。

 私は戦後4年目に生まれました。私の世代は、戦争を体験した人たちの戦後の苦悩をよく見てきています。私たちは戦争そのものは知らなくても、戦争を語ってくださった人たちの話を聞いて戦争を客観的にとらえることができる世代です。自分自身が見たり聞いたりしたことを含めて、戦争の悲惨さを継承していくうえで、戦前・戦後の世代をつなぐ接着剤の役割を担っていると思っています。

 昨年の教科書検定問題では、11万人あまりの県民が抗議のために集まりました。そのことは、座間味、渡嘉敷の人にとって大きな励ましになりました。特異な事件のため、なかなか話せなかった人たちも口を開くようになりました。私たちはこれからも島の人たちの声をしっかり受け止め、次の世代に継承していくことで、証言者の労苦に報いなければならないと思っています。きょうは、ありがとうございました。