大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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沖縄戦裁判 高裁判決の意義

    2008.10.31.
沖縄県歴史教育者協議会委員長 平良宗潤

 裁判を傍聴する最後のチャンスだと思ってやってきました。予想されたことであったのですが、勝利判決を皆さんと共に喜びます。私は沖縄戦を体験したものの一人として、この判決をどう受け止めているかを、課題を含めて、沖縄戦がどういうものであったかを話すなかで明らかにしたいと思います。

 まず、私自身がとらえた判決の意義ですが、私自身が感じたことということで、3つあげてみます。

 まず最初に、裁判の争点は軍の関与でしたが、それにとどまらない軍命、隊長命令によって「集団自決」が起こったとする住民の側の証言とこれを否定する戦隊長の証言のいずれが真実であったかが問われた裁判です。その意味で日本軍の関与をいっそう明確にしました。その有無については断定することはできないと言っていますが、総体として日本軍の強制命令と評価する見解もあり得ると言っています。私たちの主張である住民の「集団自決」は命令や強制によって起こったものだということをひとつの考え方として裁判所が認定したのです。文科省や教科用図書検定調査審議会がひとつに絞り込むという点で、軍命とか強制とかは絶対書かせないといったことに対して、そういう考え方もあるということで書かせてもいいのではないかという両論併記で、これから訂正申請を出すときに一つの論拠として使えるのではないかと思います。

 2つめは、軍命令説を否定する新たな控訴人側の主張はすべて退けられました。特に宮平秀幸証言とそれの辻褄あわせで出された藤岡意見書も採用されませんでした。沖縄には「ユクシムニーヤ ジョウマディン トゥラン」(うその話は家の門までも通用しない)」ということばがあります。うその話は誰も信用しないという意味です。裁判官は、このとおりに判断しました。

 藤岡意見書で宮平陳述書について、珍妙な弁明をしていますが、藤岡氏は「宮平証言のポイントは3月25日夜、本部壕内で梅澤隊長と村の幹部が会見したさい、梅澤さんが自決するなと、自決するために集められた村民の解散を求めたこと、それを受けて村長が忠魂碑前で村民に解散を命令した」と強調しています。ところが宮平さんのことを「場面を描写的に再現する語り方をする証言者」で、体験したことでないのに「自分の直接体験であるかのように」語る人物であり、「自分が語りたいと思うことを文脈抜きで語る」傾向があり、「あまりにもビビッドに語るので彼がその場にいたのだと錯覚したこともあった」と述べて、自らを宮平語に精通したと自慢しているのです。

 すなわち隊長が言わなかったことを言ったといい、その場にいなかった自分や村長がいたという。伝令でなかったことをはじめ、隊長のそばにいなかったことがばれると、隠れて盗み聞きをしていたと言い、真実を語れなかったのはすでに死んでいた村長に口止めされていたからと言い張りました。こういう虚言癖の持ち主を普通「うそつき」といいます。宮平陳述書がA4版17ページに対して藤岡意見書はA4版60ページに及んでいます。まさしく、黒子が黒衣を脱いで役者に代わってしゃべりはじめたというか、猿回しが猿に代わって踊り始めたということです。藤岡意見書こそ裁判を仕掛けたのが誰であるかを明確にしました。こういう準備書面などを見ていると裁判で虚言であると断定されたことの意味がもっとよくわかってきます。

 3つめ。教科書検定と不離一体となった旧軍の名誉回復、改憲と戦争へつながる歴史偽造の企みを打ち砕いたと思います。裁判闘争は沖縄県民・国民の運動として取り組まれてきましたし、検定意見撤回の声は政府・文科省を動かし訂正申請を受理させ、検定制度を見直す動きを作り出しています。このときに、悪名高き中山成彬元文科相は、沖縄の新聞でも報道されましたが「11万人集めたら教科書を書き換えるのか」という発言をしました。悔しかったら東京で100万人集会開いたらどうだと思いました。9.29の県民大会は体験者だけでなく戦後に生まれてきた人も含めて、自分たちの戦争体験がうそであったということに対する怒りが、あの大きな大会への参加につながったのです。それを矮小化することは彼らの卑しい根性の表れではなかったかと思います。こういうことで私自身が考える裁判の意義は、彼らの野望を未然に防ぎ、これから続くであろう攻撃に対して一定の歯止めができたと思います。

 つぎにこの裁判で問われていたものは何であったのかという問題です。

 控訴人らの提訴の動機は、自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、集団自決は隊長命令によって強制されたという虚偽の記載に対する義憤であり、放置できないという使命感であると主張しています。

 教科書検定によって教科書から命令・強制が削除されたことは訴訟目的のひとつを達成したと述べていることを考えると、裁判の中心は教科書問題であったと思います。この裁判は、沖縄戦の真実をゆがめようとする人々、教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民に敵対する人々、日米同盟を維持し、改憲と自衛軍の創設をめざす政府に呼応して、愛国心教育により、軍隊と戦争に進んで協力する国民つくりを進めようとする人々によって起こされました。この訴訟が戦隊長らの名誉回復にあるのではなく、教科書を書き換え国民の歴史認識を作り変えようとすることにあったことは明らかです。控訴人らは集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍への恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、家族愛、防衛隊や兵士から配られた手榴弾などさまざま要因が絡んだものだと言い、これを軍命としてくくってしまうことは過度の単純化・図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものと主張しました。これは文科省の指針や検定審議会に基本的とらえ方とまったく同じです。第三次家永訴訟の最高裁判決では、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、鬼畜米英への恐怖心」などを例示したほかに、控訴人らや文科省が執拗に教科書から削除させようとしている「日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、軍の住民に対する防諜対策」などのさまざまな要因があることを明示しました。集団自決にはさまざまな要因や背景があるとしても、そのもっともおもなものが軍命、軍の強制誘導であったことは間違いありません。

 「集団自決」を通して沖縄戦を教えようとするときに、これまで語り伝えられてきた沖縄戦をとらえなおすことが必要になっていると考えます。まず、沖縄戦について大まかな言い方をすると、沖縄戦の実相は体験の数だけあるといわれます。これまで明らかにされてきた体験談や証言は無数にあります。沖縄全土が戦場になりましたが、実相はさまざまです。沖縄のどこにいたか、前線か後方か、疎開していたか、地元にいたか、その人の身分、性、年齢によっても違います。先島には地上戦はありませんでしたが、イギリス艦隊の攻撃や空襲を受け、戦争マラリアで苦しみました。本島の北部と中南部でも米軍の進攻の速度も違い、戦闘状況も違います。米軍上陸の直後に捕虜になった人もいます。読谷のチビチリガマやシムクガマでは集団自決に追いこまれたり、全員が壕から出て助かった例がありますが、この人たちにとっては沖縄戦は一日で終わっています。捕虜収容所に入って戦後生活です。私の住む糸満は日米の地上戦はまだ始まっていません。さまざまな地域でさまざまな戦争の様相があらわれています。捕虜になったのがいつかで、「私の沖縄戦が終わったのは何日です」と言われたりもします。井戸の中に横穴を作って隠れ潜んでいて12月に出てきて自分で収容所の中に入っていったという人たちもいます。6月23日慰霊の日で、終わったのではない、9月7日で降伏調印式をしたということで、9月まで引き伸ばして考えたりしますが、それよりあとまでガマに残っていたりする人もいたんです。こういう人の体験をすべて網羅して沖縄戦を考えるべきです。はげしい戦闘とか、一般住民が軍人より多く死んだということのほかに、具体的に地域別に現れたことが沖縄戦の実相を指し示しています。地域に密着して沖縄戦を語り伝える努力が必要になってくるでしょう。そういうことがこれからあとの沖縄戦学習の中に求められているのです。

 ところで、問題の慶良間列島ではどういう戦闘が行われていたかですが、日本軍は慶良間上陸をまったく想定していませんでした。島が狭いことで兵站地としては適当でないからということですが、米軍が慶良間海峡を含めて島影を艦隊の投錨地点としたことに驚愕したようです。まったく見誤ったということです。したがって守備隊も置かないし、せいぜい特攻艇を出す部隊を配置したぐらいです。本島上陸のために慶良間海域にいる艦隊を後ろからやっつける意味で特攻出撃を想定していて、米軍が島に上陸してくることは想定外でした。米軍上陸に際しても情報が錯綜し、現地の挺身隊の指示も二転三転、特攻艇の出撃チャンスを失われました。3月23日からは連日空襲と艦砲射撃の猛攻、挺身隊は山中に逃げ込みました。住民は足でまといになるということで集団自決を強要され、この結果慶良間全体で700人以上の住民が集団自決を遂げることになったのです。問題は渡嘉敷、座間味、阿嘉島で住民に自決を命じたとされる三人の戦隊長がいずれも生き残っていることです。戦陣訓を守るべき軍人が投降して、命ながらえ、軍隊に守られるべき住民が命を奪われたのです。このことがまさしく、天皇の軍隊が住民を守らなかったことの確かな証拠です。「集団自決」が起こったこと、そのことが沖縄戦の一つの教訓として「軍隊は住民を守らない」ということを示しています。

 今日の米軍との関係で、沖縄がどれほど苦しめられているかということを見れば、沖縄戦だけでなく、現在21世紀のこの時代に、アメリカ軍が沖縄県民を守っているということが実感として沸かないということがあるということも付け加えておきたい。

 ところで、慶良間の悲劇を、防衛庁の沖縄方面陸軍作戦を見ると、「米軍の慶良間上陸は、座間味および渡嘉敷において、集団自決という悲劇が起こった。その自決者は、両村合わせて約700名。当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども、敵に降伏することをいさぎよしとしない風潮が極めて強かったことが根本的原因であろう。小学生や婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって、父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できないものは、避難場所もなく、戦闘員の煩累を断つため、崇高な犠牲的精神により、自ら命を絶つものも生じた」と、要するに自ら死んでいったのが国の集団自決に対する評価です。これが検定意見につながっているのだと思います。

 日本史の中で、この沖縄戦を見るとどういうことが言えるのか触れたいと思います。沖縄戦は15年戦争の最後の日米決戦といわれています。15年戦争の最後の年の沖縄戦はわずか3か月、残りの14年9か月はどうだったのか。これは日本が外国に攻め込んで始めた戦争です。私自身、この戦争で家族や係累が何名死んだか調べましたか、系図で出てくる100名のうち、戦前になくなったものが10名で、90名のうち40名が戦争で死んでいます。地元、あるいは出身町村、やんばるに避難した者もいますし、中国大陸やフィリピンなどにもいるということを確かめたときに、これは自分の家族・肉親にも、よその国に攻め込んでいって、そこで殺されたんだと実感しました。90名のうち40名が死んでいるのですから、沖縄戦全体の平均的数字より上回っていますが、これが実際に身近なところで戦争被害を実感したことです。そうしたところで、日本史の中で、15年戦争のとらえなおしをするときに、沖縄戦で特に強調してきたのは、被害の面でしたが、海外で戦争をしていることに気づかされました。だから、被害だけでなく加害も考えることが、15年戦争そのものを考えるときに、沖縄戦の意味あいも変わってくるのではないでしょうか。さらにさかのぼれば、明治以降の日本の対外戦争を考えてみると、1874年の台湾出兵から日本の海外での戦争が始まっていることがわかります。きっかけは琉球を明治政府が版図にするところから始まったもので、そのあと沖縄戦までずっと71年間戦争を続けていることも、明らかです。それは、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦という戦争という名前のつくものの他に、事変・事件・進駐・出兵・併合というように戦争ではない用語を使いながら、実際にはアジア・太平洋の地域で戦争を行っていたのです。平均的には3.5年に1回戦争をしています。71年間に20件くらいの事変などを起こしています。5年をおかずに日本は戦争していた、戦争してないときは戦争の準備をしていたということになります。戦争で物事を解決することはできないということも、15年戦争の前にさかのぼって日本近代の対外的戦争を拾い出してみると明らかになります。

 そのなかで特に、日英同盟・三国同盟・日ソ中立条約といった外国との条約がどういう役割を果たしたのかを考えると、日英同盟は第一次大戦参戦の口実、三国同盟は日米開戦を不可避にし、日ソ中立条約は最後に連合国との間でソ連を仲介にしての和平交渉ができなかったということで、戦争を終わらせることにも無力だったことがわかります。こういう条約や同盟は必ず仮想敵を作ります。軍拡を呼び込みます。戦争への誘因となるのです。71年の戦争、最初に沖縄がきっかけで始まった戦争が沖縄戦で終わるということになると、始まりも終わりも沖縄がくしくもその因縁的にかかわりを持ってきたことも一つの発見でした。

 では「集団自決」というものをどういうふうにこれから学習させるかということになります。集団自決に関して言うと、軍の関与に関わって、それを具体的に住民証言に基づいて命令があったということを明らかにするための実践が求められています。

 最後に、大江さんの『沖縄ノート』の提起したものに答えるために、私たちは今新たな自覚と運動が必要ではないかと思います。裁判勝利のたたかいの力を新しい米軍再編と新基地建設の動きを止める運動につなげたいと思います。大江さんが主張していたのは、長い間沖縄に犠牲を強いた、差別してきたことに、どれほど私たちが自覚をしているかということを自分自身を含めて問い直す必要があるのではないかということです。まさしく、安保体制下の日本で沖縄に全国の米軍基地の75%をずっとおき続けていること、そして日本が平和で安全である、その保障を沖縄におんぶしていること、地位協定そのものが日本国民の権利を侵害しているのではないかということなどを考えることを、この裁判の勝利をきっかけにとらえなおすことが必要ではないでしょうか。

 裁判勝利の力を米軍基地と新基地建設反対の運動につなげたいと思います。