大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

HOME地裁>(2007年12月)

被告 最終準備書面 口頭陳述 要旨

2007年12月25日

被告ら訴訟代理人

第1 名誉毀損及び敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件については、4頁から9頁に記載したとおりです。

第2 不法行為の不成立について述べます。

本件で原告らが問題としている家永三郎著「太平洋戦争」と大江健三郎著「沖縄ノート」については、原告ら主張の不法行為は成立しないことが明らかです。

1 「太平洋戦争」について

「太平洋戦争」についての、原告指摘の記述の重要な部分は、「座間味島の梅澤隊長が住民に対し自決せよと命令した」という部分ですが、隊長命令があったことは事実であり、原告指摘の記述は、その重要な部分について、真実ないし少なくとも真実と信ずべき相当の理由があったもので、名誉毀損の不法行為は成立しません。したがって、「太平洋戦争」についての本訴請求はいずれも棄却されるべきです。

     なお、原告梅澤氏は、同氏が隊長の自決命令があったと記述しているとする「鉄の暴風」については、発行元である沖縄タイムス社に対し一切訂正・謝罪要求をしないことを明言しており、このことは、同書に依拠している本件書籍についても、差止請求の要件(損害が重大にして著しく回復困難)を欠いていることを示すものと考えられます。

2 「沖縄ノート」について 

原告らは、「沖縄ノート」は、梅澤隊長及び赤松隊長が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張していますが、「沖縄ノート」は、「慶良間列島において行われた集団自決は、日本人の軍隊のいさぎよく自決せよという命令に発するとされている」と記載しており、@集団自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことも、梅澤氏を特定する記述もなく、また、A集団自決命令が渡嘉敷島の守備隊長によって出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、原告梅澤氏や赤松大尉が集団自決を命じた事実を摘示したものでは全くありません。したがって、「沖縄ノート」が、原告梅澤氏や赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松氏固有の名誉を毀損するということもありえないし、また、原告赤松氏の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえないものです。

原告梅澤氏自身も、本人尋問で、「沖縄ノート」に座間味島の隊長が自決を命令したことが記載されていないことを認めています。(なお、原告梅澤は本件訴訟提起後の昨年まで「沖縄ノート」を読んでいなかったものです。)

原告赤松氏については、敬愛追慕の情侵害が主張されていますが、敬愛追慕の情侵害の不法行為が成立するためには、@故人に対する名誉毀損が成立すること、A摘示した事実が虚偽であること、それが歴史的事実に関するものである場合は一見明白に虚偽あるいは全くの虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと、B摘示した事実が極めて重大で遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合であること、が必要です。

      しかし、「沖縄ノート」については、@赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず、また、A渡嘉敷島の集団自決が日本軍の命令によるものであることが、虚偽あるいは一見明白に虚偽ないし全くの虚偽であるとはいえないことは明らかです。また、B敬愛追慕の情を受忍しがたいほどに害したかどうかという点については、「沖縄ノート」は、集団自決は軍の命令とし、隊長が自決命令を下したとはしていません。隊長の実名は記載していません。「おりがきた」として那覇空港に降り立った渡嘉敷島の旧守備隊長の内面を想像によって描き、これが一般的な壮年の日本人全体の内面の意識構造に他ならないのではないかと論評したもので、集団自決の責任者の行動は、いま本土の日本人がそのまま反復していることであるので、咎めはわれわれ自身に向ってくる、と自己批判をしているものです。さらに、赤松元隊長は「沖縄ノート」の本件記述について抗議等をしていませんでした。原告赤松氏も同様でした。また、原告赤松氏は「沖縄ノート」を飛ばし読みにしたに過ぎず、「罪の巨塊」を誤読し、「沖縄ノート」が赤松隊長を大悪人としているとの曾野綾子氏の「ある神話の背景」の記述に影響され、他者の勧誘によって本訴提起に至ったものです。以上のことから、原告赤松氏の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえないことも明らかです。

また、原告は、「沖縄ノート」が、渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の命令によるものだとの前提で、「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪者」(本件記述3)、「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったろう」(本件記述4)と人格非難をし、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を著しく侵害したと指摘していますが、「沖縄ノート」は赤松大尉が集団自決を命じたとしたものでないのですから、原告の主張は成り立たちません。

また、上記記述は、渡嘉敷島の集団自決が日本軍の命令・強制・関与によるとの事実を前提にして、日本軍の現地の最高指揮官である守備隊長に責任があることについて、守備隊長を匿名にし、「屠殺者」「戦争犯罪者」「沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と論評し、また、戦後渡嘉敷島に渡ろうとした守備隊長が集団自決に責任はないのだと述べていることについて、自分自身や他者をごまかしているとして、「かれのペテン」と論評したもので、公正な論評に該当するものでこのような表現をもって敬愛追慕の情を違法に侵害したということはできません。

以上のとおり、「沖縄ノート」についても、原告梅澤の名誉を違法に毀損する不法行為に該当するものではなく、また、原告赤松の故人に対する敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものでもなく、「沖縄ノート」に関する本訴請求はいずれも棄却されるべきです。

第3 沖縄戦における住民の犠牲と日本軍の作戦について述べます。

1 太平洋戦争と沖縄戦

  1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争において、1944年(昭和19年)9月までには、米軍の攻勢により、サイパンなどマリアナ諸島の要地が陥落し、日本軍守備隊は「玉砕」しました。大本営は、1945年(昭和20年)1月、本土確保を作戦の主眼とし、沖縄作戦は本土確保のための前哨戦として位置づけられました。

  沖縄戦は、3ヶ月間にわたって続き、兵士や住民に極めて多数の死傷者を出しましたが、日本軍にとって、沖縄戦は、できるだけ長期間、米軍に抗戦し、米軍の損害を増大させ、本土上陸の時期を延ばして戦力を消耗させる作戦であり、沖縄を国体護持のための「捨石」とするものでした。

2 県民の犠牲(日本軍の「軍官民共生共死の一体化」方針・総動員態勢)

  沖縄戦での住民の戦没者は、約15万人から16万人と推定され、日米両軍の戦闘員の戦死者数よりも、非戦闘員である一般住民の戦没者数が多いところに最大の特徴があったとされています。

  第32軍司令部は、「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を定め、「軍官民共生共死の一体化」の方針を示していました。住民は、この方針により、総動員され、戦闘協力をさせられ、悲惨な犠牲を強いられたのです。

住民の死傷者の被害には、「直接戦闘」「弾薬、食糧、患者等の輸送」「陣地構築」「食糧供出」「壕の提供」「スパイ嫌疑による斬殺」などによる死傷が含まれており、これらは、「戦闘参加者」として、遺族援護法の補償の対象とされています。「集団自決」もこの中に含まれています。

  梅澤隊長や赤松隊長をはじめ、慶良間列島の日本軍の士官たちは、第32軍司令部から、「軍官民共生共死の一体化」の方針の具現を指示されていました。1944年(昭和19年)10月には、那覇の第32軍司令部に、兵棋演習のため、部隊の隊長らが集められ、座間味島からは梅澤隊長及び基地大隊の小沢隊長が、渡嘉敷島からは赤松隊長、知念少尉らが出席して、牛島司令官らに面会しました。1945年(昭和20年)3月には、海上特攻作戦会議のため、那覇に慶良間列島の中隊長クラスが集められ、牛島司令官や長参謀長から訓示を受けています。

慶良間列島の日本軍の部隊も、住居の提供、陣地の構築、食糧の供出・生産、炊事などに一般村民を狩り出すとともに、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入しました。

軍・隊長は、村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握って、これらの軍への協力を、防衛隊長、村長、助役、兵事主任などを通じて命令しました。座間味村では、防衛隊長兼兵事主任の宮里盛秀助役が、伝令役の防衛隊員で役場職員である宮平恵達を通じて、軍の命令を村民に伝達していました。渡嘉敷村では、村長の古波蔵(米田)惟好氏や防衛隊長の屋比久猛祥氏、兵事主任の富山真順氏らが、軍の指示命令を村民に伝達していました。兵事主任は、軍の命令を住民に伝達する重要な立場にあり、また、防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて防衛召集された隊員からなる軍の部隊そのものです。兵事主任や防衛隊長の指示・命令は、軍(=隊長)の指示・命令そのものであり、まさに、「軍官民共生共死の一体化」による総動員体制が構築されていたのです。

3 合囲地境と民政の不存在

そして、沖縄守備軍は、県や市町村の所管事項に対しても指示・命令を出し、県民の行動は、すべて軍命によって規制され、民政は存在せず、南西諸島全域は、事実上の「合囲地境」でした。沖縄県知事や市長村長の行政権限が無視され、現地部隊の意のままに処理され、地域住民への指示・命令は、市町村の役場職員や地域の指導者が伝えたとしても、すべて「軍命」と受け取られました。渡嘉敷島においては赤松隊長が、座間味島においては梅澤隊長が全権限を握っており、渡嘉敷村及び座間味村の行政は、軍の統制下におかれていました。

4 「玉砕」方針

日本軍は徹底抗戦で沖縄を死守し、玉砕することを方針としており、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもとに動員された住民に対しても、捕虜となることを許さず、玉砕を強いていました。

座間味島では、1942年(昭和17年)1月から、毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行いましたが、日本軍が駐留した1944年(昭和19年)9月以降、村民は、日本軍や村長・防衛隊長兼兵事主任である助役らから、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」と指示されました。渡嘉敷島でも、毎月の大詔奉戴日に、日本軍の戦隊長やその代理が出席し、「日本人の魂として、いざとなったら米兵に残酷な殺し方をされたり蹂躙される前に自決するのだ」という考え方を住民に浸透させるような儀式が行われていました。

また、座間味島では、昭和19年9月に日本軍が駐留した直後に、基地大隊の小沢隊長が、島の青年団を集め、アメリカ軍が上陸したら耳や鼻を切られ、女は乱暴されるから、玉砕(自決)するよう、指示していました。阿嘉島では、第2戦隊の野田隊長が、1945年(昭和20年)2月8日の「大詔奉戴日」に、住民を集め、「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と厳しい口調で訓示しました。

このように、日本軍は徹底抗戦で沖縄を死守し、玉砕することを方針としており、住民に対しても、捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたのです。

5 国、県の認定

国・沖縄県は、座間味村・渡嘉敷村の集団自決は、日本軍の隊長の自決命令によるものであると認定しています。国が「戦闘参加者」と認定した住民の、戦闘協力の態様をまとめた「戦闘参加者概況表」は、隊長が自決命令を出したため、住民は集団自決した、としています。座間味村や渡嘉敷村の集団自決は、「米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ『住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗できるところまでは対抗し愈々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ』と自決命令を下したため住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである」としています。

そして、国は、座間味村や渡嘉敷村の集団自決の犠牲者に対し、隊長の自決命令によるものであると認定し、今日まで、遺族援護法を適用し、補償を行っているのです。

渡嘉敷島及び座間味島の「集団自決」は、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したことが通説とされているのです。

第4 座間味島、渡嘉敷島の集団自決の軍命令について述べます。

1 座間味島の集団自決と軍の命令

(1)自決命令の存在を示す歴史資料

座間味島での集団自決については、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。」とする「鉄の暴風」をはじめとして、座間味戦記、沖縄県史等軍ないし軍の隊長の命令があったことを示す多数の証拠資料があります。

さらに教科書検定問題を契機に新しい証言もあり、座間味村の兵事主任兼防衛隊長であった宮里盛秀助役の三女である宮平春子さんが次のように証言しています。

「昭和20年3月25日の夜のことでしたが、盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて、父盛永に向って、『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている』と言いました。そして、皆で玉砕しようねということになり、私が最後のおにぎりを作って、皆で食べ、晴れ着に着替え、身支度を整えました。盛秀は、自分の子どもたちを抱き上げ、『こんなに大きく育ててきたのに、手にかけて玉砕するのか。生まれなければよかったね。許してね』『これからお父さんと一緒に死のうね。皆一緒だから恐くないよ』と頬ずりし、抱きしめました。そして、父盛永に向って、『お父さん、生きている間は十分に親孝行ができなかったので、あの世で会うことができたら親孝行します。ごめんなさい』と言い、盛永と水杯を交わしました。このときのことを思い出すと本当に胸が苦しくなります。」

(2)座間味島での軍の自決命令の存在

このような証拠資料から明らかなように、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、兵事主任兼防衛隊長である宮里盛秀助役の指示により、防衛隊員が伝令として、軍の玉砕命令が出たので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう、軍(=隊長)の命令を住民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものです。

このとき盛秀氏は、さきほどの春子さんの証言などにあるように、父盛永氏に対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。」「お父さん軍から命令が来ているんです」と告げたのであり、座間味村の兵事主任兼防衛隊長であった宮里盛秀氏は、あらかじめ座間味島の日本軍(すなわち梅澤隊長)から、米軍上陸時には住民は自決するよう命令されていたもので、伝令を通じて自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に対し軍の命令を伝えたものです。

そもそも、軍の絶対的支配下にあった座間味島において、梅澤隊長の指揮下の防衛隊長であり、兵事主任でもあり、軍の命令を住民に伝達する立場にあった宮里盛秀助役が、軍すなわち梅澤隊長の命令なしに、勝手に住民に自決命令を出すなどということはありえないことです。軍の命令がなければ幼いわが子を殺すこともありません。

座間味島の住民も、梅澤隊長から自決命令が下ったと認識していたものです。

また、座間味島の住民は、日本軍の兵士から、「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」「万一のことがあったら自決しなさい」などと言われて手榴弾を渡されたり、「もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい。」「アメリカ軍が上陸しても絶対に捕まることなく、いさぎよく死になさい。」「捕まったら強姦され、残酷に殺されるから、自分で死になさい。」などと言われたとする多くの証言があり、これらは、日本軍が住民を玉砕させる方針であったことを示すものです。手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはありえないものです。

さらに、梅澤隊長は、米軍が上陸してくることを認識しながら、住民を他に避難させたり投降させるなどの住民の生命を保護する措置をまったく講じていません。そして1945年(昭和20年)3月25日の夜、助役らに面会した際に、梅澤隊長は住民が自決しようとしていることを認識していながら、これをやめるよう指示・命令しなかったのも、梅澤隊長が、あらかじめ住民に玉砕を指示・命令していたからにほかならないものです。

以上のとおり、座間味島の住民の集団自決は、軍(すなわち梅澤隊長)の自決命令によるものであることが明らかです。

2 渡嘉敷島の集団自決と軍の命令

(1)自決命令の存在を示す歴史資料

渡嘉敷島での集団自決についても、「鉄の暴風」をはじめとして、慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要、沖縄県史、当時兵事主任であった富山真順氏の証言、集団自決の直接体験者である金城重明氏の当法廷における証言など、軍ないし軍の隊長の命令があったことを示す多数の証拠資料があります。

さらに渡嘉敷島における集団自決の当時、渡嘉敷村役場の職員であった吉川勇助氏が新しく次のように証言しています。

米軍の上陸直前に、日本軍が役場を通じて17歳未満の少年を対象に、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言って、手榴弾を2発ずつ配った。昭和20年3月28日の集団自決の直前に、住民が西山に集められた後、赤松隊長がいた西山陣地の中から出てきた防衛隊員が「伝令」と叫びながら古波蔵村長のもとに行き、村長の耳元で軍からの命令を伝え、その伝達事項を聞いた村長が何度も頷いた後、「天皇陛下万歳」を三唱するよう住民に呼びかけて、住民が万歳三唱し、古波蔵村長の「発火用意」との号令をきっかけにして住民が手榴弾を爆発させて自決が始まった。私も防衛隊員であった姉の夫と一緒に手榴弾で自決を図った。手榴弾で自決できずにパニックになった住民たちが軍陣地になだれ込もうとしたが、赤松隊長が大声を出して怒り、住民を陣地内にいれなかった。

(2)渡嘉敷島での軍の自決命令の存在

このような証拠資料から明らかなとおり、渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山真順氏に対し渡嘉敷部落の村民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示しました。

渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器です。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえません。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったことが明らかです。

そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里巡査らにより、渡嘉敷島の北端であり、普段人が足を踏み入れることのない、食糧もない場所であり、かつ日本軍陣地のすぐそばで逃げ場もない西山への集結命令が村民に伝えられました。さらに、同27日夜、村民が命令に従って、各々の避難場所を出て、西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて村民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の兵士である防衛隊員が赤松隊長がいた軍の陣地から出てきて自決用の手榴弾を住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのです。

そして、集団自決に失敗した住民がなだれ込んだ軍陣地内には、赤松隊長がおり、なだれ込もうとする住民を見て、大声で怒り、住民を陣地内に入れませんでした。赤松隊長は、住民が集団自決をしているすぐ側らの陣地にいて、住民が軍陣地内になだれ込む現場にいながら、集団自決の発生を止めようとしなかったのです。

このように軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍が陣地近くに住民を集結させ、軍の防衛隊員が赤松隊長がいた軍の陣地から自決用の手榴弾を持って出てきて村民たちに配布し、軍の自決命令が出たと伝えられ、その結果村民の集団自決が行われたものであり、軍(すなわち赤松隊長)の命令によって集団自決が行われたことは明らかです。また、村民たちが軍の自決命令が出たと認識し自決したことも明らかです。

以上のとおり、渡嘉敷島の住民の集団自決は、軍(すなわち赤松隊長)の自決命令によるものであることが明らかです。

3 結語

以上述べたとおり、原告らの請求はいずれも理由がないことが明らかですので、棄却されるべきです。