大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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被告準備書面(1)要旨

2005年12月27日

第1 名誉毀損等の不法行為責任について

 1 名誉毀損の成否

   本件において、原告梅澤裕(以下「梅澤」という)は、本件書籍一「太平洋戦争」及び本件書籍三「沖縄ノート」の記述により名誉を毀損されたと主張し、原告赤松秀一(以下「赤松」という)は、本件書籍二「沖縄問題二十年」及び本件書籍三「沖縄ノート」の記述により赤松嘉次大尉及び原告赤松固有の名誉が毀損され、また原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情も侵害されたと主張している。

   しかしまず、ある表現が他人の名誉を毀損しているというには、表現が誰に関するものであるか、その表現中から特定しうることが必要である。

   そして記事等が人の名誉を毀損するものであるか否かは「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈されるものである」(最高裁昭和31年7月20日判決・民集10巻8号1059頁)から、ある表現が他人の名誉を毀損しているというには、一般読者が本件各書籍を読んで、その記述自体から、表現が誰に関するものであるか特定されることが必要である。

 2 名誉毀損の免責の法理

   名誉毀損の不法行為責任に関する一般的法理によれば、他人の名誉を害する表現行為が、「公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的に出た場合であり、摘示された事実が真実であることが証明されたとき」は、違法性がなく、不法行為は成立せず、真実であることが証明されない場合でも、「行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるとき」は故意又は過失がなく、不法行為は成立しない(最高裁昭和41年6月23日判決・民集20巻5号1118頁)。

   また、真実性を証明すべき事実の範囲については、記事等に掲載された事実のすべてにつき細大もらさず真実であることまでの証明を要するものではなく、その重要な部分において、あるいは大筋において真実であることが証明されれば足りる(最高裁昭和58年10月20日判決・判例時報1112号44頁、最高裁平成元年12月21日判決・民集43巻12号2252頁)。

   そして、名誉を害する表現行為が単なる事実の指摘ではなく、論評である場合については、いわゆる「公正な論評」の法理により、「公共の利害に関する事項につき、もっぱら公益を図る目的によるものであり、論評の前提をなす事実がその重要な部分について、真実であるか、少なくとも、真実であると信ずるにつき相当の理由がある場合」は、不法行為は成立しない(前掲最高裁平成元年12月21日判決、最高裁平成9年9月9日判決・民集51巻8号3804頁)。

 3 敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件

 (1)死者の名誉が毀損された場合に、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を害する不法行為が成立する場合があるとする見解があるが、死者に対する敬愛追慕の情といった主観的感情を害したからといって、それだけで違法性を有し不法行為を構成するとはいえない(竹田稔『名誉・プライバシー侵害に関する民事責任の研究』99〜100頁)。

 (2)仮に、死者に対する遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為が成立することがありうるとしても、死者に対する遺族の敬愛追慕の情を害する程度が極めて顕著で、遺族の人権を違法に侵害すると評価すべき特別な場合に限られるというべきである。

    すなわち、死者の名誉を毀損するものであり、摘示した事実が虚偽であって、かつ、その事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合に限り、違法となり、不法行為が成立するものと解すべきである。

   また、死者に関する事実は、時の経過ともに歴史的事実となり、人々の論議の対象となり、時代によって様々な評価を与えられることになるものであり、死者の社会的評価を低下させる事柄であっても、歴史的事実探求の自由やこれについての表現の自由が重視されるべきであるから、歴史的事実に関するものである場合は、上記の虚偽性の要件については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」を要するというべきである。

   東京高裁昭和54年3月14日判決(判時918号21頁)は、「個人に対する遺族の敬愛追慕の情も一種の人格的法益としてこれを保護すべきものであるから、これを違法に侵害する行為は不法行為を構成するものといえよう。もっとも、死者に対する遺族の敬愛追慕の情は死の直後に最も強く、その後時の経過とともに軽減して行くものであることも一般に認めうるところであり、他面死者に関する事実も時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行して行くものということができるので、年月を経るに従い、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への配慮が優位に立つに至ると考えるべきである。……年月の経過のある場合、右行為の違法性を肯定するためには、前説示に照らし、少なくとも摘示された事実が虚偽であることを要するものと解すべく、かつその事実が重大で、その時間的経過にかかわらず、控訴人の個人に対する敬愛追慕の情を受認し難い程度に害したといいうる場合に不法行為の成立を肯定すべきものとするのが相当である。」としている。

また、東京地裁平成17年8月23日判決(判例集未登載。乙1)は、「死者に対する遺族の敬愛追慕の情も、一種の人格的利益であり、一定の場合にこれを保護すべきものであるから、その侵害行為は不法行為を構成する場合があるものというべきである。もっとも、一般に、死者に対する遺族の敬愛追慕の情は、死の直後に最も強く、その後、時の経過とともに少しずつ軽減していくものであると認め得るところであり、他面、死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくものともいえる。そして、歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取上げる場合には、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となると解される。それゆえ、そのような歴史的事実に関する表現行為については、当該表現行為時において、死者が生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分について、一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを摘示した場合であって、なおかつ、被侵害利益の内容、問題となっている表現の内容や性格、それを巡る論争の推移など諸般の事情を総合的に考慮した上、当該表現行為によって遺族の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したものと認められる場合に初めて、当該表現行為を違法と評価すべきである。」(108〜109頁)としている。

    したがって、歴史的事実にかかわる本件書籍について、原告らが敬愛追慕の情の侵害の不法行為を主張するには、少なくとも、原告らにおいて、摘示された事実が一見明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを摘示した場合であって、かつ、その内容が重大で、時間的経過にもかかわらず、また、歴史的事実に関する表現の自由の重要性を考慮してもなお、敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したことを立証しなければならないというべきである。

第2 本件各書籍は名誉毀損等の不法行為責任を負わない

 1 本件書籍一「太平洋戦争」

 (1)本件書籍一は、歴史研究書であり、原告が問題としている記述部分は、第10章「戦争における人間性の破壊――『戦争の惨禍』上」における日本軍の民間人に対する態度の例としての記述であり、公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的によるものであることは明らかである。

 (2)原告が、原告梅澤の名誉を毀損していると主張する本件書籍一の「座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。」(300頁)との記述は、原告梅澤が集団自決を命じたとの事実を摘示するものであるが、第3で述べるとおり、真実ないしは真実と信ずべき相当の理由がある。

    したがって、本件書籍一について、名誉毀損の不法行為が成立することはない。

 2 本件書籍二「沖縄問題二十年」

 (1)本件書籍二は、戦後沖縄問題の研究書であり、原告が問題としている記述部分は、沖縄戦の実相を伝えるもので、公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的によるものであることは明らかである。

 (2)原告が、赤松大尉の名誉を毀損していると主張する本件書籍二の記述は次のとおりである。

「だが、立ちあがることもなければ、闘うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は晴れた日には、琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は鹿の住み家として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2個を装備する人間魚雷であった。だが、赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で、『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した。」(4〜5頁)

上記の本件記述は、赤松大尉が集団自決を命じたとの事実を摘示するものであるが、原告赤松を特定する記述は全くないので原告赤松固有の名誉を毀損することはありえない。

また、後記第3で述べるとおり、同事実は真実である。

原告赤松は、本件記述が同原告の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害すると主張するが、前記のとおり、本件について敬愛追慕の情の侵害の不法行為が成立するためには、上記摘示事実が一見明白に虚偽であることが立証されなければならないところ、本件摘示事実が虚偽といえないことは第3記載のとおりである。

    以上のとおり、本件書籍二について、名誉毀損の不法行為及び敬愛追慕の情侵害の不法行為は成立しないことが明らかである。

 (3)仮定的主張として、本件書籍二は、1974年(昭和49年)に出庫終了となっており、出版等差止の対象とはならず、損害賠償請求・謝罪広告請求権は20年の除斥期間が経過したことにより消滅している。

 4 本件書籍三「沖縄ノート」

 (1)本件書籍三は、沖縄は、太平洋戦争で本土防衛のための悲惨な戦場とされ多数の住民が犠牲になったうえ、サンフランシスコ条約によって米国の施政権下に残されて米国の前線基地とされ、核戦略体制の下で核兵器による恐怖の捨て石とされ、本土のため犠牲にされ続けてきたと指摘し、その沖縄について、「核つき返還」などが議論されていた1970年(昭和45年)の時点において、沖縄の民衆の重く鋭い怒りの鉾先が自分たち日本人に向けられていることを述べ、そのような日本人であることを恥じ、そのような日本人ではないところの日本人へと自分を変えることはできないかと自問し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問いなおしたものある。そして、原告が問題としている本件各記述も、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返したものである。

したがって、本件書籍三の本件記述は、公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的によるものであることが明らかである。

 (2)原告が、原告梅澤及び赤松大尉の名誉を毀損していると主張する本件書籍三の記述の「その1」は次のとおりである。

「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとり自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうであろう。」(69〜70頁)

原告は、上記本件記述は原告梅澤及び赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張するが、本件記述は、@集団自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことも、原告梅澤を特定する記述もなく、また、A集団自決命令が渡嘉敷島の守備隊長によって出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、原告梅澤及び赤松大尉についてのものと認識されることはなく、原告梅澤や赤松大尉が集団自決を命じたと認識されるものでは全くない。

したがって、本件記述が、原告梅澤、赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松固有の名誉を毀損するということもありえない。また、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえない。

    なお、上記本件記述は、集団自決にあらわれている沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生という命題は、核戦略体制のもとでの今日の沖縄に生き続けており、集団自決の責任者の行動はいま本土の日本人がそのまま反復していることであるので、咎めはわれわれ自身に向ってくると問いかけており、集団自決の責任者個人を非難しているものではない。

 (3)原告が、赤松大尉の名誉を毀損していると主張する本件書籍三の「その2」は次のとおりである。

「このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民初め数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の深いところを、息も詰まるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。」(208頁)

原告は、上記本件記述は赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張するが、本件記述には、渡嘉敷島の守備隊長によって集団自決命令が出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、赤松大尉についてのものと認識されることはなく、赤松大尉が集団自決を命じたと認識されるものでは全くない。

    したがって、本件記述が、赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松固有の名誉を毀損するということもありえない。また、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえない。

    なお、上記本件記述は、集団自決を強制したと人々に記憶されている渡嘉敷島の旧守備隊長が渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたという新聞報道に接した著者が、かつてこの旧守備隊長が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていた記事を思い出し、その際に著者の肉体の奥深いところに生じた気分ないし感覚を表明した部分であり、真実に基づく公正な論評である。

 (4)同じく原告が、赤松大尉の名誉を毀損していると主張する本件書籍三の「その3」は次のとおりである。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうことは、あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、次第に希薄化する記憶、歪められた記憶に助けられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。1945年の感情、倫理観に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的には追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたちも本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追求の手が27度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったのではないか、とひとりの日本人が考えるにいたるとき、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。」(210〜212頁)

原告は、上記本件記述は赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張するが、本件記述には、渡嘉敷島の守備隊長によって集団自決命令が出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、赤松大尉についてのものと認識されることはなく、赤松大尉が集団自決を命じたと認識されるものでは全くない。

    したがって、本件記述が、赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松固有の名誉を毀損するということもありえない。また、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえない。

 なお、本件記述は、その後に続く記述と合わせ、「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていた集団自決の責任者の内面を著者の想像力によって描き出すとともに、これは日本人全体の意識構造にほかならないのではないかと論評するものであり、真実に基づく公正な論評である。

本件記述は、「日本の本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。」(211頁)としており、本件記述の後に「おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守備隊長のみにとどまらない。日本人の、実際に厖大な数の人間がまさにそうなのであり、」(214頁)とあるように、日本人全体のありかたについて論評したものである。

 (5)以上のとおり、本件書籍三について、名誉毀損及び敬愛追慕の情侵害の不法行為が成立しないことは明らかである。

第3 真実性等

1 座間味島における「梅澤隊長による自決命令」の存在

 (1)以下のように、原告梅澤が住民に自決を命令したとの文献が、多数存在する。

   ア 『鉄の暴風』(1950年)沖縄タイムス社発行(乙2)

     「座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」(41頁)

     本書は、戦後5年で出版された沖縄で最初に書かれた戦記である。沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し、そこで得られた証言を基に執筆されたものである。

   イ 『座間味戦記』(1957年ころ)(乙3「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収)

     「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」(7頁)

     本書は、座間味村が、一般住民の戦争犠牲者に対する戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を当時の厚生省に申請した際、資料として提出したとされるものである。

ウ 『秘録 沖縄戦史』(1958年)山川泰邦著(乙4)

  「昭和二十年三月二十三日、座間味は米機の攻撃を受け、部隊が全滅するほどの被害を蒙り、住民から二十三人の死者を出した。村民たちは、焼跡に立って呆然とした。早速、避難の壕生活が始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、忠魂碑前で自決せよ』と。然も、未だ敵は上陸せず一戦も交えない中にである。従順な住民たちは老人も子供も晴れ着で死装束をして、続々集り、忠魂碑前は村民で埋った。梅沢少佐と村長が現われるとき、自決は決行されることになっていた。村民たちは刻々と迫る、その時刻を待った。一家眷族、そして村中の老幼が寄り合って、自から己の命を絶とうとしている。この死が、戦争に勝つためと信じて疑わない住民の群は、おそろしい程の平静さを保っていた。いや、はりつめた緊張の中の平静さだったかも知れない。そのとき、艦砲が忠魂碑に命中、碑は轟音ともに破壊された。瞬間、この轟音が生への覚醒になり、誰かが立ちあがってかけ出すと、全員が四散した。こうして、ひとつの悲劇は防ぐことができたが住民の自決は、このあとつぎつぎに起こったのだ。」(229〜230頁)

  「静かな山に無気味な爆発音がこだました、乙女たちが自らの命を絶つ手榴弾の音であった、村役場三役の自決もその日であった。その外、軍刀で家族全員を刺し殺したり、天皇陛下万歳を叫んで亜砒酸、小刀、カミソリ、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、そして親しい者同志がお互いの血を浴びて倒れた。梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは、そのまま実行したのである。その日、七五名が自決し多くの未遂者を出した。」(231頁)

  本書は、戦争当時は警察官として軍部と協力すべき地位にあり、戦後は戦没警察官の調査を行い、その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり、戦争当時の状況について調査を行った著者が、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に執筆したものである。

エ 『沖縄戦史』(1959年)上地一史著(乙5)

     「渡嘉敷島上陸作戦とともにアメリカ軍が上陸した座間味島には梅沢少佐の率いる部隊約1千が守備していたが、二十三日アメリカの空襲がはじまり、翌二十四日には艦砲射撃を受けた。上陸は時間の問題であると思われたとき、梅沢少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した。この日の自決は、その寸前に砲撃を受けたため決行不可能となった。二十六日午前十時、掩護射撃の下にアメリカ軍の上陸がはじまった。日本守備軍は『番所山』に集結、夜になって斬込みを敢行するといわれたが、これは決行されず、斬込みの弾薬運搬のため先発した女子青年団員五名は、予定の時間になっても斬込隊は来ず、周囲にアメリカ軍の気配を感じ、捕虜になって恥をさらすより、死んで祖国を守ろうと、けなげにも、手榴弾で自決をとげた。二十七日の未明であった。村役場の首脳の自決も、二十七日であった。そのほか七十五名の純朴な住民たちが自決した。」(51頁)

     「日本軍は生き残った住民に対し『イモや野菜を許可なくして摘むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についてのきびしいおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令だった。このため三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命をつないでいた。」(52頁)

     本書は、沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史氏が、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。

  オ 『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(1968年)下谷修久発行(乙6)

「戦闘に協力できる村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたのであります。」(7頁 座間味村村長田中登氏の序文)

 「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」(9頁 座間味村遺族会会長宮里正太郎氏の序文)

「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」(39頁 宮城初枝氏の手記「血ぬられた座間味島」)

本書は、座間味島における戦闘で死亡した下谷勝治兵長の兄である下谷修久氏が、戦後座間味島に赴き、住民の証言をまとめたものである。本書には、原告梅澤による自決命令があったことを明確に証言した宮城初枝氏の手記が収録されている。また、当時の座間味村遺族会会長宮里正太郎氏及び当時の座間味村村長田中登氏の序文が掲載されており、両氏はいずれも、「隊長命令」「軍の命令」により住民が自決させられたとしている。

カ 『秘録 沖縄戦記』(1969年)山川泰邦著(乙7)

     「昭和二十年三月二十三日、座間味は米機の空襲を受け、部隊が全滅するほどの被害をこうむり、住民からも二十三人の死者を出した。村民は焼け跡に立ってぼう然としていた。さっそく、避難の壕生活が始まった。その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し、梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。それは、『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、忠魂碑前で自決せよ』というものだった。従順な村民たちは、老人も子供もみな晴れ着で死の装束をすると、続々と集まってきた。間もなく忠魂碑前は、村民で埋まった。梅沢少佐と村長が来るのを待って、自決が決行されることになっていた。村民は一家そろって、村中の老幼が寄り合い、自らおのれの命を断とうとしていた。突然艦砲弾が忠魂碑に命中し、碑は轟音と共にくずれ去った。その瞬間、本能的にだれかが立ち上がって駆け出すと、つられるように全員が四散して逃げた。こうしてつかの間の悲劇は防ぐことができたものの、住民の集団自決は、このあとつぎつぎに起こった。」(155〜156頁)

     「しばらくして、静かな山に無気味な爆発音がこだました。おとめたちが自らの命を断つ、手榴弾の音であった、村役場三役の自決も、その日のことであった。そのほか、軍刀で家族全員を刺し殺したり、亜砒酸、小刀、かみそり、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、および親しい者同士がお互いの血を浴びて例れた。梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した。」(157〜158頁)

 本書は、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に「秘録 沖縄戦史」(1958年)(乙4)を執筆した著者が、内容を再検討し、琉球政府の掩護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。

   キ 『沖縄県史 第8巻』(1971年)琉球政府編集(乙8)

     「慶良間列島のもう一つの座間味島でも、友軍の命で集団自決が行なわれた。座間味島には梅沢少佐の率いる約一千の陸軍が守備配置についていたが、三月二十三日空襲を受け、二十三人の死者を出した。翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得る者は全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。しかし、自決の覚悟で忠魂碑前に住民が続々集まりつつあるとき、艦砲弾が忠魂碑に命中、その場での集団自決は避けられた。三月二十六日午前十時、アメリカ軍は艦砲の掩護のもとに上陸してきた。その夜、村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した。」(411〜412頁)

     本書は、1965年(昭和40年)から1977年(昭和52年)にかけて、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した全23巻(別巻1)中の1巻であり、1971年(昭和46年)4月28日に琉球政府の編集により原本が発行されたものである。

ク 『沖縄県史 第10巻』(1974年)沖縄県教育委員会編集(乙9)

     「二十五日は、未明から空襲が激しく、正午ごろから艦砲射撃が始まった。」「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」(698頁)

     「ここでは、部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである。」(699頁)

     「二十五日の晩、忠魂碑の前で玉砕するから集まれ、との連絡を受けたため、今日は最後の日だから、と豚を一頭つぶしみそ煮をして食べたが、なまにえであったにも拘らずひもじさも手伝ってか、あの時の味は何とも言えないおいしさでした。食事を終えてからきれいな着物をとりだし身づくろいをしてから、忠魂碑の前まで家族で行ってみるとだれもいない。しようがないので部落民をさがして近くの壕まで行ってみると、そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。私達の家族まではいると、あふれる状態でした。それでもむりにつめて、家族はまとまってすわれなかったが適当にあっちこちにすわることにした。中にいる兵隊が、『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされた。」(746頁)

     本書は、上記『沖縄県史第8巻』と同様に、沖縄の公式な歴史書として1974年(昭和49年)3月31日、沖縄県教育委員会の編集により原本が発行されたものである。本書中、『沖縄編、慶良間諸島』の章(685頁以下)は、大城将保氏による解説部分と複数の住民の証言部分とで構成されている。

(2)以上のように、原告梅澤が住民に対して「自決せよ」との命令を出したことを内容とする文献が多数存在し、原告梅澤が住民に対し自決命令を出したことは真実である。

(3)また、本件各書籍中、座間味島における原告梅澤の自決命令に言及するものは本件書籍一「太平洋戦争」であるが、同書は、1986年(昭和61年)に出版された「太平洋戦争 第二版」を、2002年(平成14年)に文庫化したものである。

この「太平洋戦争 第二版」が出版された1986年の時点において、原告梅澤により自決命令が出されたとの事実は「歴史的事実」として承認されていたものであり、原告梅澤による自決命令があったとの事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があったことは明らかである。

2 渡嘉敷島における「赤松隊長による自決命令」の存在

 (1)以下のように、赤松隊長が、住民に自決を命令したとする文献が多数存在する。

   ア 『鉄の暴風』(1950年)沖縄タイムス社発行(乙2)

     「赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。」(33頁)

     「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。」(34頁)

     「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」(35頁)

     「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一線を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。」(36頁)

     本書は、戦後5年で出版された沖縄で書かれた最初の戦記である。沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し、そこで得られた証言を基に執筆されたものである。

イ 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(1953年)渡嘉敷島遺族会(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛暉編」所収)

  「昭和二〇年三月二七日、夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。その夜は物凄い豪雨である。米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ、ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ、ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつつ、子を持つ親は嬰児を背に負い、三ッ子の手を引づりながら、合羽の代りに叺や莚をまとい、老人の足を助けながら、弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた。暗闇の谷間は親兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし全く生地獄の感である。間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか、その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二〇年三月二八日午前一〇時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二、三百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手留弾に二、三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」(12〜13頁)

  本書は、当時の渡嘉敷村村長や、役所職員、防衛隊長らの協力の下、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。

ウ 『秘録 沖縄戦史』(1958年)山川泰邦著(乙4)

  「三月二十七日――『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた。安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。その夜はすさまじい豪雨の夜であった。一寸先もわからない暗闇で、ふだんからハブで恐れられている山道を通らなければならなかった。雨具などあるはずはなく、濡れネズミとなって、親は子を背負い、手を引き、老人は助けられながら、砲弾のうなりの中を、泥濘にころびながら互いに励ましあって目的地に一歩一歩進んだ。見失った子供を呼ぶ親の叫び声も一しお哀れであった。死を意味する軍命になぜこうまで苦労して従わなければならないのだろうか。住民の胸には求むべき光は何もなかった。西山の軍陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。その頃には米軍は既に日本軍陣地北方百米の高地に布陣、迫撃砲を撃ちだしていた。敵の砲弾は的確にこの盆地にも炸裂し始めた。友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた。自信を失い、負け戦を覚悟した軍は、住民を道づれにして一戦を交え花々しく玉砕するつもりだろうか。この期に及んで部落民は誰も命は惜しくはなかった。敵弾で倒れるよりいさぎよく自決したほうがいいと皆思った。場所を求めて、友軍陣地から三〇〇米の地点に約一五〇〇名が集結した。防衛隊員は二個ずつ手榴弾を持つていたのでそれで死ぬことに決めた。一個の手榴弾のまわりに二、三十名が丸くなった。『天皇陛下バンザーイ』『バンザ…』叫びが手榴弾の炸裂でかき消された。肉片がとび散り、谷間の流れが血で彩られていった。中には、死にきれずに鍬や棍棒で相手の頭を撲りつけ、剃刀で自分の喉をかき切って死んでゆくものもあった。こうして三二九名が自決して果した。平和な時代には、美しい琉球鹿が水呑みに姿を現わしたというこの盆地も、恨みの盆地として村民は今でも『玉砕場』と呼んでいる。」(217〜219頁)

  本書は、戦争当時は警察官として軍部と協力すべき地位にあり、戦後は戦没警察官の調査を行い、その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり、戦争当時の状況について調査を行った著者が、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に執筆したものである。

エ 『沖縄戦史』(1959年)上地一史著(乙5)

「渡嘉敷島の赤松大尉の指揮する部隊は、船舶特攻隊で、舟艇に大型爆弾二個を抱えた人間魚雷であった。そしてその任務はアメリカ船舶に突入することであったが、赤松大尉は舟艇の出撃を中止した。上陸したアメリカ軍を地上において撃滅する戦法に出る、と大尉は宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとつて、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。住民の間に動揺がおこった。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに柔順な住民たちは、一家がひとかたまりになり、赤松部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。なかには、カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者をたおした者もいた。住民が集団自決をとげた場所は渡嘉敷島名物の慶良間鹿の水を飲む恩納河原である。ここで三百二十九名の住民がその生命を断ったのである。」(47〜49頁)

 本書は、沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史氏が、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。

  オ 『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(1968年)下谷修久発行(乙6)

「赤松少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自決せよと命令した。谷底に追い込まれた住民達は『さあ、みんな、笑って死のう』という古波蔵村長の悲壮な訣別の言葉が終わると一発の手榴弾の周囲に集まった。手榴弾はあちらこちらで炸裂し、男や女の肉を散らした。死ねない者はお互いに根棒で殴り合い、カミソリで頸を切り、子を絞め、鍬で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃弾が炸裂した。思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者三三〇、戦死者三〇余名を除いて、三三六名が未遂に終わった。」(107頁)

本書は、下谷勝治兵長の兄である下谷修久氏が、住民の証言をまとめたものである。

カ 『秘録 沖縄戦記』(1969年)山川泰邦著(乙7)

     「三月二十七日―赤松大尉の『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』という命令が、駐在巡査の安里喜順を通じて下達された。住民たちは盆地に集合することは、砲火に身をさらすことになるので、何とかして堅固な軍の壕にはいりたいと思っていた。その夜は豪雨で、一寸先も見えない暗夜だった。住民は恐ろしいハブの出る山道を、ぬれねずみのようになって、親は子を背負い、老人は手を引かれ、砲弾のうなる中をぬかるみに足をとられながら歩きつづけた。子を見失ったらしい母親の、必死に子供を呼び求める声が、暗い豪雨の中でひとしお哀れであった。西山の陣地にやっとたどり着くと、ほっとする間もなく、赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との厳命が出され、三月二十八日午前十時ごろ、村民は泣くにも泣けない気持ちで軍の陣地を去って、北方の盆地へ向かって歩いていった。このとき米軍は、日本軍陣地の北方百メートルの高地に進出してすでに砲撃を開始していた。米軍の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期におよんで、だれも命など惜しいとは思わなかった。敵弾に倒れ、醜い屍をさらすよりは、いさぎよく自決したほうがいいと思い立つと、最後の死に場所を求めて、友軍陣地から三百メートルほどの地点に、約千五百人の島民が集まってきた。防衛隊員が二個ずつ手榴弾を持っていたので、それで死ぬことに決めた。一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった。『天皇陛下バンザーイ』の叫びが、手榴弾の炸裂音でかき消された。肉片が飛び散り、谷間はたちまち血潮でいろどられた。なかには、クワやこん棒で互いに頭をなぐりつけたり、かみそりで自分ののどをかき切って死んでいく者もあった。こうして三月二十八日午後三時、三百二十九人の島民が悲惨な自決を遂げた。村民はこの盆地を、いまでも『玉砕場』と呼んでいる。」(147〜149頁)

     本書は、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に「秘録 沖縄戦史」(1958年)(乙4)を執筆した著者が、内容を再検討し、琉球政府の掩護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。

キ 『沖縄県史 第8巻』(1971年)琉球政府編集(乙8)

     「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕刻、駐在巡査安里喜順を通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するよう命じられた。その夜は物凄い豪雨で、住民たちは、ハブの棲む真暗な山道を豪雨と闘いつつ、老幼婦女子の全員が西山にたどりついた。ところが赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆地に移動集結しなければならなかった。いよいよ、敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。約千五百人の住民は、二、三十人が一発の手榴弾を囲んで自決をはかった。互に鍬や根棒で殺し合ったりした。あるいは剃刀で喉を切った。」(410頁)

     本書は、1965年(昭和40年)から1977年(昭和52年)にかけて、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した全23巻(別巻1)中の1巻であり、1971年(昭和46年)4月28日に琉球政府の編集により原本が発行されたものである。

ク 『沖縄県史 第10巻』(1974年)沖縄県教育委員会編集(乙9)

     「上陸に先だち、赤松隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりの安里喜順巡査を通じて命令した。安里巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地に村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。」(689頁)「その時、陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾を配りだした。自決をしようというのである。」「村長、校長、兵事主任ら村のリーダーらが集って、相談ごとをしていた。そこで誰云うとなしに、『天皇陛下万才』を三唱したり、『海行かば』を斉唱したりして、それがこだまするのだが、すぐ砲撃にかき消されていた。その時、渡嘉敷の人たちの間から炸裂音がした。それにつられて、村民らは一斉に手榴弾のピンを抜いて、信管をパカパカたたいていた。」(690頁)。

     「恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。」(765頁、郵便局長徳平秀雄氏の証言)

     「安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。『貴方も一緒に……この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません』といっていた。私の意識ははっきりしていた。」「二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。」(768〜769頁 元渡嘉敷村長米田惟好氏の証言)。

     本書は、上記『沖縄県史第8巻』と同様に、沖縄の公式な歴史書として1974年(昭和49年)3月31日、沖縄県教育委員会の編集により原本が発行されたものである。本書中、『沖縄編、慶良間諸島』の章(685頁以下)は、大城将保氏による解説部分と複数の住民の証言部分とで構成されている。

ケ 『家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明 証言』(昭和63年2月9日)(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編』所収)

「実は、三月二七日がこの場所へ移動した日ですけれども、もうその日から、つまり『集団自決』が起こる前から、いよいよ住民は日本軍と運命を共にしなくちゃいけないと、そういう思いがにわかに起こってきたと。これはよく考えて見ますと、自主的にというよりも、米軍が上陸したと。そして、日本軍がいると、これはあくまでも日本軍の政策と申しますか、住民は軍とやはり運命を共にすると、そのような思いは、軍からのそういう形で、この内面に生じたというふうに覚えております。」(285頁)

「もういよいよここまで追い詰められて、自分たちは軍とこの運命を共にして、最後を遂げると、自決命令が出る前から、そのような思いで満たされていたという記憶が強烈に残っております。」(286頁)

「みんなは、軍からの自決命令がいつ出るかと、そんな思いをして待つという状況でした。それは当時、村の指導者を通して、軍から命令が出たというふうな達しがありまして、配られた手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであります。」(286〜287頁)

「当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を始めたわけであります。」(287頁)

「(直接その自決命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか。)はい、直接聞きました。」(288頁)

本証言は、証言当時は沖縄キリスト教短期大学学長であり、戦争当時渡嘉敷島において、自ら集団自決を体験した金城重明氏が、家永第3次教科書訴訟第1審において、自決命令について証言したものである。

コ 『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭 証言』(昭和63年2月10日)(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編』)所収)

     「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは、『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」(54頁)

「結論的な言い方をすると、日本軍の圧倒的な力による押しつけと誘導がなければ起きる事柄ではないということをまず総括的に申しあげたいと思います。」(55頁)

「兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。」(69頁)

本証言は、証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴をもち、渡嘉敷村史の編集にも携わった安仁屋政昭氏が、家永第3次教科書訴訟第1審において、自決命令について証言したものである。

サ 『朝日新聞記事』(1988年6月16日付夕刊)(乙12)

     「当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、『集団自決』の際に生き残った人が『日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた』と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。」

     「(当時兵事主任であった富山真順村議の話として)『島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た』。自転車も通れない山道を四`の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、と富山さんは回想する。『中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ』 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二bほどの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは、証言をそうしめくくった。三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』とはいうものの、今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができる限り伝えて回ったこと、『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近く』という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示”通り、食糧、衣類など洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示”は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。『集団自決』は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」

     本記事は、座間味島における集団自決について、当時渡嘉敷村役場の兵事主任であった富山真順氏(戦争当時新城姓)が、赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨を具体的に証言したものである。

シ 『渡嘉敷村史』(1990年)渡嘉敷村史編集委員会編集(乙13)

     「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」(197〜198頁)

「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(198頁)

     本書は、渡嘉敷村の公式な歴史書として、1990年(平成2年)3月31日、渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものであり、渡嘉敷村役場の兵事主任であった富山真順氏(戦争当時新城姓)による具体的証言等を内容とするものである。

(2)以上のように、赤松大尉が住民に対して「自決せよ」との命令を出したことを内容とする文献が多数存在しており、赤松大尉による自決命令があったことは真実であり、虚偽ではないことが明らかである。

以上

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