大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判の争点

 

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長  小牧 薫

 

1.慶良間列島の座間味・渡嘉敷島における強制集団死(「集団自決」)の事実

  1945年3月26日 座間味島に米軍が上陸、産業組合の壕で67名、他の壕を合わせると178人が集団死(日本軍の将兵の戦死者は369人=「慶良間戦における座間味島での戦没者」)。このほか慶留間島で53人が集団死

  1945年3月28日 渡嘉敷島に米軍が上陸、事前に兵器軍曹が配った手榴弾などで329人が集団死。(日本軍将兵76人、軍人軍属87人、防衛隊員41人、一般住民368人が犠牲となる=「渡嘉敷島の歴史」)

 

2.座間味島と渡嘉敷島の強制集団死に至る関係年表(「沖縄タイムス」などを参照)
座間味島
渡嘉敷島

44.9 梅澤裕少佐を隊長とする海上挺進第1戦隊が座間味島に駐屯


45.3.23 米機動部隊来襲、座間味集落全焼

45.3.25 空襲、艦砲射撃。「忠魂碑前に集合、玉砕」の連絡。住民集合するが、空襲が激しく防空壕に避難

45.3.26 米軍将兵上陸。産業組合の壕で役場職員・家族ら集団死。他の壕でも集団死





45.3.29 米軍がほぼ征圧し、米国海軍軍政府布告第1号「南西諸島における日本のすべての行政権,司法権を停止し、最高行政の責任は占領軍司令官の権能に帰属させる」を公布

45.4.10 米軍、第2次攻撃本格化。梅澤隊長、各隊に独自行動を命令

45.4.29 この日を境に住民の投降始まる

45.5 住民に集落への立入許可が出る。下旬に集団死の遺体収容始まる

44.9 赤松嘉次大尉を隊長とする海上挺進第3戦隊が渡嘉敷島に駐屯

45.3.20 兵器軍曹が役場職員、17歳未満の青年20数人に「自決」用手榴弾2個ずつを配る

45.3.23 米軍空襲、役場、郵便局が焼け、住民は壕に避難





45.3.27 米軍将兵上陸、兵事主任を通し村民に日本軍陣地の近くの谷間に集合せよと伝達

45.3.28 軍による「集団自決命令」が出たとの情報が住民に伝えられ、住民が手榴弾などで集団死

45.3.29 同左


45.3.31 米軍いったん撤退

45.4.15 山中に住民避難を勧告しにいった少年2人が赤松隊に殺害される

45.5 投降呼びかけの伊江島島民6人が赤松隊に殺害される

45.8.17 投降勧告文書を持ってきた住民4人のうち2人が赤松隊に殺害される(ほかにも住民2人がスパイの疑いをかけられ殺害される)

45.8.17 赤松隊長ら武装解除し、米軍本部で降伏文書に調印

3.「沖縄戦集団自決冤罪訴訟」(原告側の呼び方)提起に至るまで

 1) 自由主義史観研究会代表の藤岡信勝氏が2005年4月、「敗戦60年、『沖縄戦集団自決事件』の真実を明らかにする『沖縄プロジェクト』への参加を呼びかけます」と同会機関誌『歴史と教育』で呼びかける

   「沖縄プロジェクト」の企画では、「パンフレットの発行、沖縄戦慰霊と検証の旅、研究集会の開催、社会的に呼び掛けるキャンペーン活動」の4点を掲げている。

 2) 2005年5月20日〜22日 「沖縄戦慰霊と検証の旅」で研究会員らが座間味島、渡嘉敷島を訪問

 3) 2005年6月4日「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」緊急集会(東京・文京区民センター)開催(藤岡氏の講演、梅澤裕(うめざわゆたか)氏もビデオ証言、服部剛氏の模擬授業など)

 4) 2005年8月5日 梅澤裕(当時陸軍海上挺進第一戦隊長、少佐、座間味島に駐留、現在高槻市在住)と赤松秀一(赤松嘉次(あかまつよしつぐ)の弟で大阪市在住、赤松嘉次は当時陸軍海上挺進第三戦隊長、大尉、渡嘉敷島に駐留)が大阪地裁に出版差し止めと損害賠償を求める訴訟を提訴

 

4.原告側の請求(2005.8.5)

1 被告株式会社岩波書店は、『太平洋戦争』、『沖縄問題二十年』、『沖縄ノート』を出版、販売又は頒布してはならない。(『沖縄問題二十年』については、すでに絶版になっているため、06年9月1日に取り下げ)

2 名誉毀損と敬愛追慕の情を侵害したことに対する謝罪広告を掲載せよ。

3(1)被告株式会社岩波書店は、原告らに対し、各金1000万円を支払え。

 (2)被告大江健三郎は、原告らに対し、各金500万円を支払え。

4 訴訟費用は被告らの負担とする。

 

5.双方の主張(争点)

(1)座間味島〈梅澤隊長に関わって〉

原告(梅澤)側
被告(大江・岩波)側
1.梅澤隊長は、自決命令を発していない。

→3月25日に梅澤隊長が命令を出していないとしても、軍の命令によって「集団自決」したと の多数の証言がある

  皇民化教育と政策のもと、一連の儀式を通じて「”鬼畜”である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に”玉砕”すべし」と教えられていた

  「軍官民共生共死」の一体化というべき状況であった

2.家永『太平洋戦争』と大江『沖縄ノート』は、梅澤隊長が自決命令を出して多くの村民を「集団自決」させたと記述している →『太平洋戦争』に梅澤命令説の記述があるが、歴史研究書であり、名誉毀損とは関係がない
3.大江『沖縄ノート』では、梅澤少佐の名前を出していないが、大多数の読者が隊長が梅澤を指していることを容易に認識できる →『沖縄ノート』は、1970年の時点においての日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直した評論で、梅澤の名前は書かれていないし、『集団自決』の責任者個人を非難していない
→ 梅澤裕が第1戦隊長であったことが報道され知られるようになっても、一般の読者には特定されることにはならない
4.「座間味島での集団自決は梅澤隊長の命令による」との証言は、戦傷病者戦没者遺族援護法(援護法)の適用を受けるためになされたものである → 沖縄タイムス『鉄の暴風』をはじめとして、援護法施行(沖縄は1953年)以前に多くの証言がある。援護法は、当初から戦闘協力者を補償の対象としていた(馬淵証言)。
5.座間味での、「忠魂碑前に集合、玉砕」との命令は、宮里盛秀助役(防衛隊長)が単独か、収入役及び国民学校長らとの協議の上で、「軍の命令」と受け取れるかのような形で、村内に指示したもので、この命令がのちに風評となったもの → 3月25日に命令を発していないとしても、「集団自決」は日本軍の命令によって引き起こされたものである。また、宮里助役は、守備隊長であり、日本軍の命令のもとに行動した
6.宮城初枝(当時青年団長)は、1963年雑誌 『家の光』に発表した手記(私家版『血ぬられた座間味島』としても発表)の内容は、間違っていたとして1980年に訂正し、「1945年3 月25日に村の有力者5人と梅澤隊長にあった際に、隊長は『自決命令』を発していない」と証言している(宮城晴美『母の遺したもの』 2000年出版) → 宮城初枝が1977年3月に梅澤にあった際に、 「3月25日夜に梅澤と会った際には隊長の命令はなかった」と告白したとされているが、この面会の際に隊長命令がなかったということにはなっても、これによって日本軍の隊長命令がなかったことにはならない。初枝自身、軍命で弾薬箱を運搬する際に、軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をやりなさい」と言われ、手榴弾を渡されている
7.宮城初枝の証言「25日に、道すがら助役に会うと、『これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい』と誘われた。この時点で、村人たちは、村幹部の命令によっ て忠魂碑の前に集まっていたが、梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』 と武器提供を断った」(『神戸新聞』1985年7 月30日) → 神戸新聞記者は関係者に直接取材をせず、梅澤及び同人が紹介した人物に電話取材しただけで記事を書いている。宮城初枝は、この記事に書かれたような証言をするはずがない。村人に忠魂碑前に集合を連絡するのは梅澤隊長との面 会の後のことであり、3月25日夜、「弾薬をください」と申し出た助役に梅澤隊長は「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言っただけで「最後まで生き残って・・・」とは言っていないと証言している
8.宮村幸延(座間味村援護係、宮里助役の弟) は「隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたもの」と証言し、インタビュー(『神戸新聞』1987年4月18日)でも述べており、昭和62年3月28日付けの親書もある → 宮村幸延氏は親書を作成した記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べているほか、仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられた同氏が、梅澤から「妻子に肩身の狭い思いをさせたくない、家族だけに見せるもので絶対公開しないから」と言われ、何の証拠にもならないことを申し添えた上で作成したもので、同氏の認識や意思に基づくものではない

9.大城将保氏が沖縄史料編集所紀要に「隊長手記」を掲載した上、『沖縄県史第10巻』の「梅澤命令説」の実質的修正をおこなった。また 『神戸新聞』談話で、「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。・・・新沖縄県史の編集が、これから始まるが、この中で梅澤命令説については訂正することになるだろう。」(『神戸新聞』1986年6月6日)と梅澤命令説を否定している

→沖縄史料編集所紀要では、大城氏のコメントに続いて梅澤氏の「戦闘記録」が掲載されているだけで、県史の上記記載を訂正したものではない。『神戸新聞』の大城氏のコメントは、大城氏への取材に基づくものではなく、大城氏は「隊長命令がなかったのが真相」という認識を抱いておらず、「新県史では訂正することになるだろう」などとの発言するはずがない

◎ 沖縄作戦は本土確保のための前哨戦として性格づけられ、1944年3月に第32軍が新設されたが、兵力不足のため沖縄守備隊に多数の沖縄住民が召集・徴用された。日本軍にとって、沖縄戦は、できるだけ長期間米軍に抗戦し、米軍の損害を増大させ、それによって米軍の本土上陸の時期を延ばし戦力を消耗させるという「出血持久作戦」であり、沖縄を国体護持のための「捨石」とするものであった。日本軍第32軍は、一般住民を「義勇隊」「弾薬、食糧、患者等の輸送」「陣地構築」「炊事、救護等雑役」「食糧供出」「壕の提供」「馬糧蒐集」「道案内」「遊撃戦協力」「漁撈勤務」「勤労奉仕」などに狩り出した。「軍官民共生共死」の一体化を具現し、いかなる難局に遭遇するも毅然として必勝道を邁進するにいたらしむ」との方針のもと、戦闘 協力をさせられ、悲惨な犠牲を強いられたものである。日本軍は徹底抗戦で沖縄を死守し、玉砕することを方針としており、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと動員された住民に対しても、捕虜となることを許さず、玉砕を強いていた

(2)渡嘉敷島〈赤松隊長に関わって〉

原告(赤松)側
被告(大江・岩波)側
1.赤松隊長は、自決命令を発していない。

→ 赤松隊長が命令を出したという明確な証言がないしても、軍の命令によって「集団自決」したとの多数の証言がある

  皇民化教育と政策のもと、一連の儀式を通じて「”鬼畜”である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に”玉砕”すべし」と教えられており、米軍が上陸する直前の3月20日に赤松隊長によってあつめられた20数名の住民が自決用の手榴弾を渡されている。

  「軍官民共生共死」一体化というべき状況であった

2.大江『沖縄ノート』は、隊長の自決命令によって多くの村民を「集団自決」させたと記述 している →『沖縄ノート』は、1970年の時点においての日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直した評論で、赤松の名前は書かれていないし、『集団自決』の責任者個人を非難していない
3.大江『沖縄ノート』では、赤松大尉の名前を出していないが、大多数の読者が隊長が赤松を指していることを容易に認識できる → 赤松嘉次が第3戦隊長であったことが報道され広く知られるようになっても、一般の読者には特定されるものではない
4.「渡嘉敷島での集団自決は赤松隊長の命令による」との証言は、戦傷病者戦没者遺族援護法の適用を受けるためになされたもの → 『鉄の暴風』(沖縄タイムス)をはじめとして、援護法施行(沖縄は1953年)以前に赤松隊長(軍)による命令で自決したとの多くの証言がある。援護法は、当初から戦闘協力者を補償の対象としていた(馬淵証言)
5.曾野綾子『ある神話の背景』(1992年、PHP文庫。2006年に『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』ワック)で、赤松命令説は否定 された → 曾野綾子氏は、広く証言を聞きとったのではなく、また証言のうち赤松隊長命令や軍の命令を証言したものを省いて書いている
6.照屋昇雄元琉球政府職員は(『産経新聞』 2006年8月27日付)で、援護法適用にための方便として村の公式見解になっていったもので、「軍の自決命令を証言した人は一人もいなかった」と証言している → 照屋氏は、当時琉球政府職員ではなく、この証言は偽りである。軍の自決命令の証言は、『鉄の暴風』に記載されており、この証言は、沖縄タイムス社が集団自決の体験者を集めて取材し、その証言を記録したものである。座間味・渡嘉敷の「集団自決」ははじめから「援護法」の対象とされていたので、照屋氏が「軍の命令による」とする必要もなかった(馬淵証言)
7.上原正稔(沖縄出身の作家)『沖縄戦ショーダウン』(『琉球新報』1992年に連載)で、「国の援護法適用のため『軍の自決命令』が不可欠であり、自分のみの証を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになる」ため「一切の釈明をせず世を去った」としている → 『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない

8.渡嘉敷島では、村長、郵便局長、校長、助役や巡査らが協議して「玉砕するほかない」ということになり、古波蔵村長が「天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」といって音頭をとったが、本人は生き残って赤松隊長命令による「集団自決」と言うようになった

→村長の命令でなく、軍命である。3月20日、赤松隊から命令された兵事主任が17歳未満の少年と役場職員を役場前庭に集めると、兵器軍曹が集まった20数名に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必死である。敵に遭遇したら1発は投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示されている。

◎ 米軍の慶良間列島の作戦報告書(アメリカ公文書館蔵)に、「集団自決」の直後に米軍に保護された島民は、捕虜になることなく自決するよう命じられていたことを証言している(『沖縄タイムス』2006年10月3日付)

◎ 日本軍の沖縄作戦については、座間味島の項と同じ