大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会の記録

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ニュース第11号

最終弁論終わり、あとは判決を待つだけー判決は、3月28日午前10時(2007年12月21日)

 大江・岩波沖縄戦裁判の第13回口頭弁論が12月21日大阪地裁で開かれました。12時過ぎに沖縄から駆けつけた人たちと裁判所に行き、公正裁判要請署名を提出しました。今回は358筆分です。これで、累計1万3995筆になりました。署名を集めていただいた方々に深く感謝します。

 今回が最終弁論でしたので、64枚の傍聴券を手にいれるために、抽選に並んだ人が178名でした。多くの支援者の方が来てくださり、当たりくじも多かったこともあって、希望者がほぼ全員入廷できました。被告側支援者が圧倒的に多く傍聴しました。

 原告側代理人は、あいかわらず最終準備書面提出が当日、それも開廷時間の午後1時15分になっても提出できず、2分遅れてようやく持ち込み、提出するありさまでした。

 原告側陳述では、中村弁護士が宮城晴美証言と金城重明証言、徳永弁護士が大江健三郎証言についての感想を述べただけでした。中村弁護士は「軍命で家族が殺せるのか、家族よりも軍命が大事なのか」といい、「慶良間列島で起こった集団自決は、家族を愛するがゆえの無理心中であった」とまで言いました。徳永弁護士も「大江証言は裁判のハイライトであったと思うが、『沖縄ノート』のコンメンタールのようなものであった」「曾野綾子氏が誤読している、赤松、梅澤氏も曾野氏の影響で間違った読み方をして、怒りを抱いていると言ったが、どこが誤読なのか、私にはわかりません」という始末でした。結局、最終弁論なのに、これまでの主張をまとめてきっちりと陳述することもなしに終わりました。

 これに対して、被告側代理人は秋山幹男、秋山淳、近藤卓史弁護士が、名誉毀損・敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の法理、名誉毀損の不法行為の不成立、「集団自決」の軍命令・隊長命令の真実性・真実相当性、慶良間諸島における集団自決と日本軍について陳述し、「以上の通り、本訴請求はいずれも理由がないことが明らかであるので、棄却されるべきである」と結びました。たいへん理路整然としたもので、裁判官、傍聴者を納得させるものでした。詳しい内容は、後日アップします。

 最後に、深見裁判長から、「判決は3月28日、午前10時から、当法廷で」の言葉があり、閉廷しました。


「隊長命令なかった」との原告側主張ことごとく崩れる

  ― 7.27公判傍聴記 ―  (2007年7月27日)

沖縄戦首都圏の会 石山 久男

 夏の暑さが本格化した7月27日、大阪地裁前には傍聴希望者約230人が集まり、倍率は約3倍となった。ここが山場と考えたのか、藤岡信勝氏ら原告側支援の主なメンバーも顔をそろえていた。

 証人尋問の一人目は、渡嘉敷島赤松嘉次戦隊長のもとで中隊長をつとめていた皆本義博氏。原告側弁護士による主尋問は、皆本氏と赤松隊長との関係、赤松隊長の人柄についての質問からはじまった。二人は沖縄赴任の前に長期の研修を共にしたことがあると述べ、赤松隊長は温厚な人柄で住民との関係もよかったと証言した。だから集団自決など残酷な命令は下すはずがないと言いたいのだろうが、その点は後で述べるように次の知念証人への反対尋問で崩れる。そもそも、前から仲良しだった人があの人はいい人だったと言ってもそれほど証拠価値はないと思うのだが。

つづいて自決命令の有無という核心部分に入る。皆本氏は自決命令は聞いたことがなく、自決そのものについても知らず、翌日に隊員から聞いて初めて知ったと主張した。住民が自決した理由は、軍命ではなく、サイパン島で断崖から身を投げた人たちのなかに沖縄出身者が多かったためその話を思い浮かべたからではないかと無責任な主張を行った。そのうえ、それはたいへんすばらしいことだったなどとも口走った。

 しかし反対尋問で強制集団死前後の行動について詳しく問いただされると、知らぬ存ぜぬで言い逃れようとしたため、結局、当時は戦闘準備で忙しく、とくに強制集団死の発生前後には赤松隊長と一緒にいなかったことを認める結果になり、そもそも自決命令があったかなかったかを知る立場にはなかったことをみずから認めることになった。皆本氏の自決命令はなかったという証言は、事実にもとづくものではなく、自分の意見を述べたに過ぎないという結果となったのである。また、住民が手榴弾を集団死のための道具に使ったのはまぎれもない事実であるが、皆本氏は手榴弾を住民に配っていないと主張したものの、赤松隊長の命令なしには住民への手榴弾の配布はありえないことは認めた。

 最後に、強制集団死の責任を問われた皆本氏は、それは現地隊長の責任ではなく、帝国陸海軍全体の責任だと述べた。それは赤松隊長個人を守る最後の一線かもしれないが、帝国陸海軍の責任を現地隊長に負わせたのは名誉毀損だという主張は成り立つのだろうか。逆に天皇の軍隊全体の責任を浮かび上がらせることにもなるのではないだろうか。

 二人目の証人は赤松隊長の副官だった知念朝睦氏。ここでもまず赤松隊長は慈悲深い人だったなどの話からはじまった。知念氏は皆本氏とは違って赤松隊長と一緒にいる立場だったはずだが、それでも隊長命令はなかったと主張し、さらに手榴弾を配ったのも知らない、住民が陣地に移動してきたのも知らないと、すべて知らぬ存ぜぬで通そうとした。また毎月8日の大詔奉戴日(1941年12月8日の対米英開戦詔書が出された日を記念する日)の集会で敵の捕虜になるな、いざという時は潔く死ねと日ごろから住民に教えていたのではないかという点も反対尋問で問われたが、皆本氏はその集会は赤松隊長かその代理しか出ていないから自分は出たことがないから何が話されていたかは知らないと逃げ、知念氏は将校も兵隊も参加していたが住民がいた記憶はないと述べた。つまり皆本氏は自分に集団死強制の責任はないと逃げ、知念氏は住民はいなかったから集団死強制がその場で行われたわけではないと逃げようとしたので、ここでも証言の食い違いが生じた。

 最後に、渡嘉敷島で、米軍の捕虜になって逃げ帰ってきた二人の少年が「汚名をどう償うか」と赤松戦隊長に追及されて自殺に追い込まれた事件や、米軍に投降して伊江島からきた女性二人、朝鮮人軍夫3人、島内の学校の教頭などがスパイや敵前逃亡などの理由で処刑された事実について追及されると、戦隊長は捕虜になることを許さなかったこと、処刑は赤松隊長の命令で行われたこと、その命令は口頭で出されたことを認めた。慈悲深いなどという証言はここでも崩れた。軍の責任についても問われたが、知念氏はそんなことは考えたこともないといってのけた。

 原告側は二人の証人によって「隊長命令はなかった」ことを証明しようとしたのだったが、反対尋問によって証言は事実と証拠にもとづくものではないことが明らかになり、逆に赤松隊長の地位と責任の大きさを立証することになった。こうして原告側の意図するところはことごとく崩れ去った。

 証人尋問の最後は、被告側証人の宮城晴美氏である。宮城氏が座間味島における強制集団死に関する母の証言を記録した著書『母の遺したもの』のなかで、梅沢戦隊長の自決命令はなかったと記したことが、原告側の主張の根拠の一つにされたため、宮城氏の証言は大いに注目を集めた。梅沢隊長は3月25日夜、自決のための手榴弾を受領に行った村幹部に対し「決して自決するな」と言って手榴弾を渡さずに帰したと主張しているが、宮城氏は「今晩はお帰り下さい」と言われただけであって、母もその後のことはわからない、自決に軍の関与がなかったと思われたら困ると言っていたと述べた。また、著書では、住民に「集団自決」を直接命令したのは兵事主任兼防衛隊長だった宮里盛秀助役だったと書いたが、今年6月に宮里さんの妹の宮平春子さんから、宮里さんが「軍からの命令で敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と言っていたとの証言を聞いたことを明らかにした。宮城氏は、このことは宮里助役自身が軍から命令を受けていたことを示す決定的証拠だと述べた。さらに1944年10月の日本軍の上陸以後、村の行政は戦隊長の完全な指揮下に入り、軍は役場を通じて多くの命令を住民に対して出しており、したがって助役など役場からの命令はすべて戦隊長の命令だと住民は受け止めていたとも述べた。これらを含むさまざまな点で著書『母の遺したもの』には不十分な点があり、その訂正を準備していることも明らかにした。

 反対尋問も執拗に行われたが、宮城氏自身の体験を語る証言ではなく、聞き取った証言をどう理解するかについての見解をのべる証言なので、いくら反対尋問を行っても、宮城氏が明確に答える限り、原告側の得るところは何もなかったといえる。ただ原告側は、軍全体の方針としての自決命令を否定することが困難になったため、軍全体の方針を軍命ととらえ、それと現地戦隊長の命令とを意図的に区別し、梅沢戦隊長が直接命令したことの証拠の有無に問題を矮小化しようとねらっているようにみえる。この点は警戒が必要ではあるが、これとて軍命と現地戦隊長の命令とを区別すること自体無理といわねばなるまい。

 2時間にわたる長時間の尋問だったが、宮城氏は終始毅然と明確に証言され、原告側弁護人にきびしく反論する場面さえあった。法廷終了後の報告集会では、宮城氏にひときわ大きな激励の拍手がおこったことも付け加えておきたい。


【第9回口頭弁論】(2007年5月25日)

   沖縄出張法廷決まる

 5月25日、天気予報通りの雨のなか、沖縄県高教組の松田委員長と沖縄から平和教育をすすめる会の山口事務局長、支援連絡会事務局長の小牧が大阪地裁へ向かいました。民事第9部の深見裁判長へ「公正裁判要請書」を提出しました。内容は、3月の教科書検定結果の発表以来、沖縄で高まる怒りとともに、記憶を呼び起こし集団死に関わる証言があいついでいることや、那覇市議会はじめ沖縄の市町村であげられた「教科書検定に関する意見書」決議の写しを添付資料にして、「沖縄戦研究の成果が生かされ、沖縄県民の感情を真摯に受けとめた審理が適正かつ十分になされ」るようにというものです。もう一件、原告側が傍聴席をできるだけ独占しようと抽選に並んで傍聴券獲得までいて、傍聴券を別の人に渡して帰ってしまう人がいるため、傍聴したい人がいるのに、空席になるということが続いていますので、補欠傍聴券を発行するなどの措置をとって、空席が埋まるような措置をとるように要請しました。これに、書記官は、「裁判所全体の問題なので、今すぐ応じられない」という回答でした。さらに善処方を要請しました。

 午後1時の傍聴券抽選のために雨の中並んだのは104人でした。多くの方が抽選のために並んでくださったため、譲り合って希望のみなさんがほぼ全員入廷できました。書記官が人事異動で交代し、傍聴券抽選についての案内、開廷までの傍聴席の指示や連絡など丁寧な対応になりました。

 口頭弁論は、午後1時半に開会しました。原告側は、準備書面の事前の提出を怠ったので、裁判長が再度原告代理人に注意しました。被告側は事前に提出していた準備書面を陳述しましたが、原告側が当日持参した準備書面の正式な陳述は認められず、事実上口頭でその内容を説明することだけが許可されました。しかし、自分の準備書面を事前に提出しないでおいて相手方である被告側があらかじめ提出していた資料について反論したので、アンフェアであり時間も超過していると被告代理人が異議を述べ、裁判長は原告代理人の口頭説明を中断させました。

 大江・岩波側は、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」方針の下に、総動員作戦を展開し、村民に軍への協力を村長、助役、兵事主任、防衛隊長などを通じて命令していた。この状態を安仁屋名誉教授は「合囲地境」と説明しておられる。

 軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針をとり、捕虜になることを禁じ、捕虜となったとの理由で処刑された人もいる。当時座間味島及び渡嘉敷島の日本軍の最高指揮官は梅澤隊長及び赤松隊長であり、日本軍の指示・命令、すべて梅澤・赤松隊長の指示・命令であったというべきである。原告は、座間味島の「集団自決」は助役が村民に指示したものであるかのように主張するが、助役は当夜家族に対し『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている』と述べていたことがkぞくの証言で明らかになった、と指摘しました。さらに、原告側が証拠として提出した、元琉球政府職員照屋氏が渡嘉敷村の「集団自決」に援護法を適用するため、軍命をねつ造したという内容の「産経新聞」記事は、照屋氏の採用が昭和30年代で、人事記録や厚生省の情報公開請求資料をもとに、照屋証言は信用できないと主張しました。

 原告梅澤・赤松側は、は、大江氏が『沖縄ノート』に書いた命令を『無慈悲直接隊長命令』という新造語で表現し、被告側の主張を「争点ぼかし、論点ずらし」だと反論しました。被告らの争点ずらしの手法を@「手榴弾(=交付)命令説」A「政治体制命令説」B「広義の強制(広義の命令)説」と3つに分類し、@は、手榴弾を交付したから「命令」があったというにすぎず、Bは主体を特定せず、住民らが受け取った言動を「命令があった」と評価するものと批判しました。そして、被告らが有力証拠とする『秘録沖縄戦史』の復刻版(著者の山川泰邦氏の長男の一郎氏が復刻)では「梅澤、赤松による自決命令が削除されている」ことを上げました。そうしたことを以て、梅澤、赤松命令説は史実の検証に耐えられなくなっているという主張をしました。

  最後に、裁判長から今後の予定について話がありました。次回は、7月27日午前10時半から、証人は原告側申請の皆本義博(赤松隊の中隊長)、知念朝睦(赤松隊の副官)の両氏と、被告側申請の宮城晴美(『母の遺したもの』の著者)について証人調べを行うことが告げられました。その後の代理人との打ち合わせで、被告側代理人が要求していた沖縄出張法廷による金城重明氏に対する証人調べが9月10日那覇地裁で行うことも決まりました。

 9回の口頭弁論で、双方の主張がそろい、いよいよ証人調べでの検証という段階になります。原告側の主張に対する綿密な批判とともに、証人調べの法廷をたくさんの支援連絡会メンバーで取り囲み、裁判勝利と教科書検定指示を撤回させる取り組みを進めましょう。


【第8回口頭弁論】 (2007年3月30日)

 3月30日、大江・岩波沖縄戦裁判の第8回口頭弁論が開かれる日、沖縄から駆けつけた沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会代表の高嶋伸欣琉球大学教授、事務局長の山口剛史さん、支援連絡会世話人の西浜さん、小牧らが大阪地裁民事9部へ「公正裁判要請署名」1391人分(沖縄で集めた第一次分)を提出しました。民事第9部へ署名提出にうかがうと、裁判長は別の裁判で席を離れて不在でしたので、事務官に裁判長へ渡してくださいと伝えました。11時からは、司法記者クラブでの記者会見に臨みました。ちょうど、この日の午後6時に高校教科書検定で沖縄戦での「集団死(集団自決)」の記述について、日本軍の責任があいまいにされてしまうということの報道解禁ということもあり、記者クラブのメンバーだけでなく、社会部員もかけつけての会見になりました。小牧と高嶋から裁判の状況と被告側の主張、教科書検定の問題について話をしました。記者からは、検定問題についていくつか質問がありました。文科省がまだ審理中で、証言もしていない原告の主張をとりあげて修正意見を付けたこと、82年以来、教科書に「日本軍の沖縄県民虐殺だけでなく、集団自決を書け」と指示してきたにもかかわらず、今回はその「集団自決」について日本軍の責任を書かせないというのです。検定基準や現在の研究状況から考えてもまったく不当な行政処分といわねばなりません。記者も私たちの主張に納得がいったようでした(翌日の「朝日」「沖縄タイムス」などで詳報されました)。

 午後1時までに、裁判所裏庭にならんだのは105人ほどでした。今回は原告側の動員がみられませんでした。過半数が被告側の支援者たちで、入廷したのも被告側が多かったようです。沖縄から駆けつけた6人の方も抽選に当たり、入廷できました。裁判は、午後1時25分にはじまりました。まず、被告側代理人が前回原告が村の公式見解だと主張した渡嘉敷村「戦跡碑」(曾野綾子撰文)が部隊関係者の建てたもので、曾野氏自身も家永裁判のときに、「赤松隊の隊員から頼まれて書いたもの」と証言していることや、小学生用副読本「わたしたちの渡嘉敷」には、「かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました」と書かれており、軍命による「集団自決」であったことを明らかにしました。また、梅澤・赤松命令説について補足し、「沖縄ノート」の匿名性と同定可能性についても、原告の主張についてきびしく反論しました。

 原告側は、あいかわらず当日になって準備書面を出すありさまで、要旨の準備もできなかったのか、被告側代理人にも配られずじまいでした。弁論でも、徳永代理人は、アメリカ国立公文書館で発見された「米軍戦況報告書」に反論しましたが、「命令」を示す英語の動詞はCommandかorderであるのに文書では「tell」が使われており、「命令」と翻訳するのは誤りであるとか、手榴弾によって自決しようとしたが不発弾が多く、死にきれなかったのは、軍が操作方法を教えなかったからである。集団自決を命じていたのなら、きちんと操作方法を教えていたはずで、教えていなかったということは命令していなかった証拠だと述べ、失笑をかいました。それだけではなく、この日の午後6時に報道解禁という約束を破って、「今回、集団自決についての教科書記述が文科省の検定で、軍命でないと修正されたことは、部隊長らの主張が取り入れられた結果で、たいへん喜ばしいこと」と、事前に”発表”しました。社会的ルールを無視したこの行為は断じて許されないだけでなく、この検定が文科省と部隊長ら原告及びその支援者との緊密な連携のもとに行われていることをはっきりと示すものとして断罪されなければなりません。弁論終了後、記者と話している徳永弁護士に、「徳永さん、教科書検定の情報はどこから知られたのですか?」と質すと、「新聞記者がいろいろ聞いてくるんですよ」と答えたので、「今日の午後6時報道解禁の内容を法廷で述べるのはルール違反ですよ」と注意しました。弁護士なのに、社会的常識もなにもまったく無視した態度です。原告らは、「教科書の書き換え成功は、目的の半分が達成されたと考える」と述べたことが、報道されました。ここに、この裁判の目的があらわれたとも言えます。

 次回は、5月25日、証人調べについて確定します(7月に証人調べが行われる予定です)。

 裁判終了後、法廷に入れなかった人もあったので、かんたんな報告会を開きました。そして、夜の大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会学習会に、40人余が参加し、法廷報告、現地調査の旅の報告を聞き、今後の支援活動について意見交換しました。長い長い一日でした。                                                                   (小牧 薫)


【第7回口頭弁論】 (2007年1月19日)

1月19日、1時半から大阪地裁202号法廷(深見敏正裁判長)で大江・岩波沖縄裁判第7回口頭弁論を傍聴しました。

被告準備書面(7)の要旨を秋山・近藤両弁護士が陳述しました。まず、「自決命令があった事実の補充」として次の3点を指摘し、集団自決は当初より隊長命令によるものとして補償の対象ににされていたものであり、原告が「対象外とされたため、隊長命令をつくった」という主張は失当と述べました。私には、勝負あったと感じるほど具体的で明快な弁論でした。

2006年10月3日付け沖縄タイムス等で報道された米軍1945年4月3日付「慶良間列島作戦報告書」(昨年夏、関東学院大学林博史教授が米国公文書館で発見)に日本軍の自決命令の存在を明示。

(1) 元大本営船舶参謀で、復員後日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務した馬渕新治総理府事務官が1957年初めに執筆した「住民処理の状況」(1960年5月発行陸上自衛隊幹部学校発行「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」所収)などに日本軍による自決強要事例として座間味村155名、渡嘉敷村103名を挙げ、今も島民の悲嘆と当時の部隊長への反感が秘められているとの記述。

(2) 琉球政府社会局が1957年3月22日に市町村長に送付した「沖縄戦における一般戦斗参加者の状況について」などで軍命により玉砕と称して多数の住民が集団自決をなしたことなどが記述され、隊長命令による集団自決が、戦闘参加者の20類型の一つに揚げている。また、2007年1月15日付沖縄タイムス報道記事を示し、琉球政府職員、渡嘉敷村職員が集団自決の犠牲者は当初から「準軍属として」処遇することは明確であったとして、軍命捏造説を明確に否定しました。

次に、今回もそうですが、前回も開廷ぎりぎりに提出された原告準備書面(4)と(5)に全面的反論が行なわれました。

(1) 宮村幸延の「証言」は宮城晴美が聴取した本人と妻の事実認識、座間味村長の沖縄県援護課あての回答、沖縄タイムス社新川明らとの会談内容と相違するので否認する。本人は記憶していないが、例え署名捺印したとしても、酒を飲ませ、妻子に肩身の狭い思いをさせたくないためだから公表しないと、騙してつくった不公正・不当極まりないものであり、梅澤の家族を思う心情に同情した宮村の厚意を踏みにじるものである。

(2) 沖縄タイムス社新川明らとの会談についての主張も虚偽である。新川らは終始訂正や謝罪を拒否した。一致した覚え書に署名を求めたが、梅澤は「座間味村に撤回を求めることはしません。タイムス社とわだかまりもつくりたくない」「心配しないでください。わしら二人は侍だからね、こんなもの判つかんでも、全然ご心配なく。こんなもんね、二度と口にしませんから」と言明し、立ち会った岩崎も「これから一切この問題について、梅澤に何も言わせません。わしが。同期生として」と述べた。

   梅澤の主張は虚偽である事は明確であり、他の陳述も信用できない

(3) 「母の遺したもの」の記述については、1945年3月25日の夜、助役らと梅澤に会いに行った時は自決命令を受けなかったというものであり、だからといって自決命令がなかった事にはならない。また、「今晩は一応お帰り下さい」であり、「自決してはならん」とは述べていない。

 下、神戸新聞や産経新聞の報道、手榴弾配布と軍命の関係、隊長命令と沖縄戦の実相、沖縄戦史紀要の評価、渡嘉敷村の軍命と死者への敬愛追慕の情等々大事なものが沢山あるが、紙面の都合上、割愛します。弁護士の明晰な分析と論陣は素晴らしかった。そして、それを可能にした沖縄の仲間など、地道な運動の厚さを実感しました。

 それに比べて、原告の主張は目新しいものは全くなくグジャグジャと弁ずるだけでした。座間味村では隊長命令と住民が受けとめていたことを認めざるを得なくなり、村の助役の勝手な命令だと責任をなすりつけ、「おそらく、収入役、学校長らと(梅澤に会う)事前に相談していたと思われるが、真相は誰にもわからない」というしろものものです。

 宮村盛永「自叙伝」についても「玉砕」が、軍命でなく村民の自然な発意と述べるだけの皮相な見方でした。これは日本軍の意に反する命令を村の幹部が出来るはずのない沖縄戦の実相を全く理解しないお粗末な主張です。しかも「自叙伝」の別の箇所に軍命が明記されているのだからどうしようもありません。つまり、前回報告されたように「軍官民共生共死の一体化方針の下、日本軍は住民に対し捕虜になる事を禁じ米軍上陸時には自決を指示していたものである」ことに何ら反論できていないお喋りでした。

 そして、「あの家永さんでさえ訂正したものを、被告が強弁しているのは許せない」と言う趣旨の弁論には呆れ果てました。傍聴者向けの浅はかなプロパガンダ以外の何ものでもありません。教科書検定に対する裁判ですから、素人にも見破られる論旨です。裁判と傍聴者をコケにするのもいい加減にせよ!と叫びたいくらいでした。

 しかし、警戒しなければなりません。定員の2倍の傍聴希望者が抽選に並ぶほど草の根の保守主義は運動を強化しています。もっとも実際の傍聴には空席が目立ちましたが(その意味では我々の傍聴を妨害している)、裁判に負けても政治家に圧力をかけて、教科書の沖縄記述を日本軍慰安婦のようにするという作戦なのではないでしょうか。こちらは事実を丹念に精査し、新しい証拠も提示して明快な弁論を堂々と行いました。

 これで勝てなければ不思議ですが、日本軍慰安婦裁判でも事実認定はされても、わけの分からん論理で敗訴の場合もありますので、たくさんの傍聴が必要と思いました。


 【第6回口頭弁論】(2006年11月10日)

 11月10日、大江・岩波沖縄戦裁判の第6回口頭弁論が開かれました。3回目からは、傍聴希望者が100人を超えるほどだったのが、今回は午後1時の時点で、傍聴のため並んだのが75人ほどで、抽選なしで、全員入廷しました。ほぼ争点が出つくしたということもあってか、双方とも傍聴希望者が少なくなりました。

 大阪地裁(深見敏正裁判長)202号法廷で、予定より早く午後1時25分からはじまり、50分に終わりました。今回から陪席裁判官が1名交代、この3人で、多分判決までということでしょう。

 被告側は、近藤弁護士が原告ら準備書面(4)の第3に対する反論を述べました。座間味島の「集団自決について、原告らの主張する1985年の神戸新聞記事掲載時点で梅澤命令説の根拠が揺らぎ、87年の宮村幸延氏のインタビュー記事掲載で虚偽性が明らかになり、宮城晴美氏の『母が遺したもの』出版によって、虚偽性が広く知られるようになったと主張している。しかし、隊長命令若しくは軍の命令があったことを示す資料が多数存在し、宮城初枝氏が『家の光』に寄せた手記が唯一最大の根拠ということはない。『座間味戦記』の多くの証言者、大城将保氏の調査などでも明らかなことである。宮村幸延氏は『証言』を作成した記憶がなく、仮に、作成したものであるとしても泥酔させられた同氏が、梅澤被告から懇請され「家族だけに見せるもので絶対に公表しないから」と言われ、作成したもので、同氏の認識や意思に基づくものとはいえない。そして、原告の主張する虚偽性が明らかになったという以後も『鉄の暴風』も、『沖縄県史第10巻』も出版されている。  渡嘉敷島での赤松隊長命令についても、曾野綾子『ある神話の背景』発行によって、真実と信じる根拠が失われたということはない。『ある神話の背景』発行後も、『鉄の暴風』『沖縄県史第8巻』等の訂正はないし、1988年の朝日新聞記事の証言、『渡嘉敷村史』においても赤松隊長による自決命令があったと明記されていると主張しました。

 原告側は、最初に中村正彦弁護士が座間味島の梅澤命令説に対する再反論として、「忠魂碑前に集合し玉砕する」との命令は、宮里盛秀助役が単独か、宮平収入役及び玉城国民学校長らとの協議の上で、「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示した。多くの村民は、この命令を軍命と受け取り、それがのちに風評のもととなったのであると、梅澤命令でなく、責任は村の防衛隊長であった宮里盛秀助役だと主張した。

 松本藤一弁護士は、渡嘉敷島では、村の幹部たちが協議をするうちに自然に玉砕するしかないという話になり、古波蔵村長が音頭を取って防衛隊が配った手榴弾などによる集団自決がなされた。そして、新たに沖縄出身の作家上原正稔氏の『沖縄ショウダウン』を持ち出し、「村長が音頭を取り」自決したと主張した。そして、「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」とまで述べました。

 とうとう、梅澤、赤松は命令していないが、村の有力者が相談して「自決命令」を出したのだと、沖縄の人々に責任を押しつけるところまできました。村の人々みんなが軍の命令だと思いこんでいたことは認めたわけです。どこまで自分の責任ではないと言い続けるのか、厚顔無恥もいいところです。それに、原告の弁護団長は、渡嘉敷島を「トカジキジマ」と言い続けましたが、いったいどういう認識なのか、常識を疑います。


【第5回口頭弁論】(2006年9月1日)

 沖縄戦裁判の第5回口頭弁論が、9月1日(金)午後1時半より大阪地裁で開かれました。

 なんとまた今回もぼくは傍聴券の抽選に外れてしまいました。残念がっているぼくを見かねて、「支援連絡会」世話人の女性が傍聴券を譲って下さいましたので法廷に入ることができました。感謝、感謝です。

 この日、こちら(被告)側弁護団は準備書面(4)、(5)を提出し、陳述をおこないました。軍官民共生共死の一体化方針の下、「出血持久作戦」で沖縄を国体護持のための「捨石」とするものであったと、沖縄戦の全体像を明らかにした上で、座間味島では、「1945年3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃の中、防衛隊長である宮里盛秀助役の指示により、防衛隊員が伝令として、軍の玉砕命令が出たので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう、軍(=隊長)の命令を住民に伝達して回り、その結果集団自決に至った」。

 渡嘉敷島では、米軍が「上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が村民に伝えられた。さらに、同27日夜、村民が同命令に従って、各々の避難場所を出て西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて村民に軍の自決命令が出たと伝えられ軍の兵士である防衛隊員が軍の陣地から出てきて自決用の手榴弾を住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである」と。

 そして、座間味島における軍の最高指揮官は梅澤隊長であり、赤松隊長は渡嘉敷島における軍の最高指揮官であったから、座間味島の集団自決は『梅澤隊長の自決命令』により行われ、渡嘉敷島の自決命令は赤松隊長の命令にほかならない、と陳述しました。

 さらに、この日の裁判で注目されたこととして2点を指摘できます。

 まず第一に、こちら側の弁護団が裁判のルールに基づき、公判が開かれる相当前に準備書面を提出しているのに、相手(原告)側弁護団は公判当日に提出するというルール違反をしていることに対して裁判長が戒めたこと、第二に、相手側が出版の停止を求めていた書籍の内、『沖縄問題二十年』を訴えから取り下げたことです。


【第4回口頭弁論】(2006年6月9日)

 第四回口頭弁論が6月9日、大阪地裁で開かれた。

 前回、原告側は曽野綾子さんの著書『ある神話の背景』の記述などを例に、「隊長命令はなかった」と主張。これに対し、まず被告大江・岩波側が反論した。

 「『ある神話の背景』は一方的な見方によるもので、事実の記述に信用性があるとはいえない」としたうえで、「日本軍は『軍官民共生共死の一体化』の方針を掲げていた。両島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍の捕虜になることを禁じ、いざというときは自決するよう言い渡していた」と、住民が「自決」に追い込まれていった状況を説明。「軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない」と主張した。

 原告側は、これを「事実に基づかない揚げ足取りの類」だと反論。「被告の主張は、すでに歴史的虚構が明らかになった沖縄集団自決の悲劇を、あくまで『非人間的な日本軍』によるものと押し通そうとする人たちの執念と捏造と欺瞞の手法を明らかにするもの」などと持論を展開した。

 今回から裁判長は深見敏正氏に。「いつから名誉毀損になるのか。発刊時期を踏まえた主張の展開を」と原告側に求める。裁判長交代が訴訟の行方にどう影響するか。

 傍聴席は満席。80枚の傍聴券を求め、これまで最多の132人が並ぶ。被告側原告側、ほぼ半々だった。


【第3回口頭弁論】(2006年3月24日)

 傍聴券を求め、100人以上が並ぶ。沖縄から彫刻家の金城実さん、東京から「子どもと教科書全国ネット21」の俵義文さんも。双方の傍徳人が、ほぼ桔抗したといっていいだろうか。

 原告側準備書面を朗読した女性弁護士は、こんな一節で締めくくった。

  「日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本人の本来の姿に目覚めるためにも、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされることを心から望んでいます。そして日本人として、今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えてみてほしいと思います」。

 夜、エルおおさかで学習会を開く。当初から沖縄で裁判の支援に動いてきた「沖縄平和ネットワーク」の代表世話人、鈴木龍治さんに、裁判にいたる経緯や、この裁判に対する沖縄の反応などについて報告してもらう。参加者は35人。今後の支援の枠組みについて、突っ込んだ意見が交わされた。


【第2回口頭弁論】(2006年1月27日)

 80の傍聴券を巡り抽選が行われた。8割以上は原告側の支援者だが、被告側の傍徳人も倍増した。名誉毀損で日本でトップクラスの実力だという秋山幹男弁護士ら三人の被告側代理人、岩波の訴訟担当、「世界」編集長の岡本厚さんも出廷した。

 被告側は、原告らが指摘している著作の記述は、「隊長個人を特定しておらず」、「真実ないしは、真実信じるに相当な理由がある」として、虚偽ではなく名誉棄損、敬愛追慕の情の侵害にもあたらない」と反論した。一方、原告側は、岩波側の名誉棄損の成立に関する解釈は誤りだと主張した。

 閉廷後、近くに場所を移し、弁護団からレクチャーを受ける。参加者約20人。岡本さんや、沖縄タイムスの記者にも、話をしてもらう。


【第1回口頭弁論】(2005年10月28日)

 満席に近い大阪地裁二〇二大法廷(端二三彦裁判長)。9割以上が原告の支援音だ。被告側は欠席、原告の梅澤裕氏(89歳)=当時の座間味島守備隊長、故・赤松嘉次氏(=当時の渡嘉敷島守備隊長)の弟、秀一氏(72歳)が意見陳述した。

 梅澤氏は、村の幹部に「自決」のための弾薬などを懇願されたが毅然と断ったとし、「真実に反する報道が続いている限り私に終戦は訪れない」と訴えた。赤松氏は「兄の無念を晴らし、正しい歴史を伝えるために提訴を決意した」と述べた。梅澤氏はかくしやくとして、年齢よりずっと若く見える。

 最後に、松本藤一原告側弁護団長が「原告が求めている中心論点は『集団自決に部隊長命令があったか否か』である」と意見陳述した。今回、原告側は、34人という大弁護団を組織しているという。